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第91話 空いた椅子

 その日の夕方。


 エミリーは町の酒場にいた。


 別に、何か情報を集めていたわけではない。酒を飲みながら周囲の会話を聞き流すのは、昔からの習慣のようなものだった。


『そういや聞いたか? アルベルトの奴、荒れてたらしいぞ』


『ローデン商会の?』


『ああ。いいざまだ。あの孤児院の土地の交渉に失敗したんだろうよ』


 杯を口へ運びかけた手が、止まった。


 孤児院。


 普段なら聞き流すような話でも、その言葉が出てしまえば無視はできない。


 エミリーは顔を向けることなく、男たちの会話へ耳を傾けた。


『いや、本人はまだ終わってない、まだ終わってないって、ぶつぶつ言ってたらしいぜ。お得意の交渉術で引き延ばしたんじゃねえの?』


『それが本当なら、どうしてそんな必死こいてまで、あんな森の入り口の土地なんて欲しがるのかねえ。ローデン商会は開拓業でも始める気かぁ?』


『ギャハハハ! そりゃいい!』


 下品な笑い声が酒場に木霊した。


 その後も、男たちは好き勝手に話していた。


 誰かが役場の人間から聞いた。


 誰かがローデン商会の使用人から聞いた。


 酒が入るたびに話は少しずつ変わっていったが、しばらく聞いているうちに、大まかな事情は見えてきた。


 元々、孤児院の建っている土地は、町の防衛設備を強化するための資金を作る目的で、ローデン商会へ売却される予定だったらしい。


 町の土地を勝手に売ることはできない。そのためグレゴリーは国へ申請し、ようやく許可を取った。


 ところが今日。


 孤児院側が、ローデン商会を上回る金額を提示した。


 それによって話がまとまらず、土地の行き先は決まらなかった。


『孤児院にそんな金あったのかよ』


『知らねえよ。どっかの金持ちでも捕まえたんじゃねえの?』


『でもよ、それなら孤児院に売ればいいだけじゃねえの? 高く買ってくれるんだろ?』


『さあな。町長にも何か考えがあるんじゃねえの』


『面倒くせえ話だな』


 また笑い声が上がった。


 エミリーは杯を置いた。


 酒場の噂を、そのまま信じるほど愚かではない。


 百年以上、情報を扱ってきた。


 誰が、どこから聞いたのか。


 その人間に何の意図があるのか。


 事実と推測がどこで混ざったのか。


 それを確かめずに動くなど、昔の自分なら考えもしなかった。


 だから、分かっていた。


 今聞いた話の中にも、間違いはあるだろう。


 それでも。


 孤児院側が、ローデン商会より高い金額を提示した。


 なのに、土地は渡されなかった。


 その二つだけが、妙に頭に残った。


『…………』


 セレナは。


 あの場所を守ろうとしている。


 追放されて。


 帰る場所を失って。


 それでも自分で作った家。


 子供たちの家。


 そのために金まで用意した。


 それなのに。


 まだ手に入らない。


『だったら孤児院に売ればいいだけじゃねえの?』


 先ほどの男の声が蘇った。


『…………』


 なぜ。


 そうしない。


 もちろん、事情はあるのだろう。


 国との手続き。


 ローデン商会との話。


 町長として確認しなければならないこと。


 いくらでも考えられる。


 なら。


 確かめればいい。


 それだけのことだった。


     ◇


 夜。


 エミリーはグレゴリーの家の前に立っていた。


 まだ、殺そうとは思っていなかった。


 なぜ孤児院へ土地を渡さなかったのか。


 何を考えているのか。


 それを確かめる。


 ただ、それだけだった。


 正面から訪ねて聞けばいい。


 普通なら。


 そうする。


 だが、エミリーは玄関の前で辺りを確認すると、懐から細い道具を取り出した。


 鍵穴へ差し込む。


 指先へ伝わる僅かな感触を拾いながら動かす。


 カチリ。


 ほとんど音を立てずに錠が外れた。


 百年以上の年月で身についた技術だった。


 扉を必要な分だけ開き、身体を滑り込ませる。


 静かに閉める。


 そして。


 そこから先は、考えるよりも先に身体が動いた。


 足音を殺す。


 床板の軋みを避ける。


 衣服が家具や壁へ触れないよう距離を取る。


 呼吸を浅くする。


 昔からの癖だった。


 誰かへ成り代わる時。


 まず、その人間を見る。


 歩き方。


 座り方。


 利き手。


 食事の仕方。


 物の置き場所。


 考え事をしている時の仕草。


 そして、誰にも見られていない時にだけ現れる癖。


 顔や声だけを真似ても、長く他人を騙すことはできない。


 その人間として生きるのなら。


 一人でいる時の姿まで知らなければならない。


 だから。


 成り代わる相手の家へ入る時は、なるべく静かに侵入した。


 見つからないためだけではない。


 こちらの存在に気づいていない時の、その人間を見るために。


     ◇


 廊下の奥から灯りが漏れていた。


 書斎。


 エミリーは物陰から中を覗く。


 グレゴリーが一人、机に向かっていた。


 右手にペンを持ち、何かを書いている。


『マルタさんへ』


 小さく読み上げる声が聞こえた。


 ペンが動く。


『突然の手紙で申し訳ない』


 一度、止まる。


 顎へ手をやった。


 考えている。


 少しすると、再びペンを走らせる。


『今日は、セレナちゃんたちのことで、少し確認したいことが――』


『…………』


 マルタ。


 セレナ。


 やはり。


 孤児院のことだ。


 何を確認する。


 何を考えている。


 エミリーは目を細めた。


 グレゴリーの右手。


 ペンの持ち方。


 文章を考える時に顎へ触れる仕草。


 書いた文字を確認する時には、僅かに身体を引く。


 一つ。


 また一つ。


 無意識に覚えていく。


 そこで。


 声がした。


 自分の中から。


 ――何をしている。


『…………』


 エドガーだった。


 ――お前は、何をしている。


 エミリーにも分からなかった。


 土地のことを確かめに来た。


 そのはずだった。


 なのに。


 なぜ。


 グレゴリーの癖を見ている。


 ――成り代わりの指示なんて出ていない。


『…………』


 そうだ。


 誰からも命じられていない。


 エルフの里からも。


 天竜教からも。


 グレゴリーへ成り代われなどという指示は出ていない。


 ならば。


 なぜ。


 玄関の鍵を開けた。


 なぜ。


 忍び込んだ。


 なぜ。


 グレゴリーを観察している。


 なぜ――


 その時。


 僅かに足が動いた。


 床板が鳴った。


『…………?』


 グレゴリーの手が止まった。


 エミリーも動きを止める。


 しばらく。


 静寂。


 気のせいだと思え。


 そう願った。


 だが。


 グレゴリーは、ゆっくりと立ち上がった。


 元冒険者。


 その勘は、まだ死んでいなかった。


 短剣へ手を伸ばす。


 書斎を出る。


 足音が近づいてくる。


 逃げればいい。


 まだ。


 顔は見られていない。


 玄関から出れば。


 それで終わる。


 なのに。


 エミリーは動かなかった。


 グレゴリーが近づいてくる。


 そして。


 エドガーは。


 同じ身体の中にいる、もう一人へ向けて呟いた。


『――馬鹿な男だ』


 グレゴリーへ向けた言葉ではなかった。


 自らを男だと思い。


 父親になりたいと願う。


 エミリーへ向けた言葉だった。


『っ!』


 グレゴリーが振り返る。


 その瞬間。


 エミリーの身体が動いた。


 刃が。


 グレゴリーの背中へ入った。


『――っ!』


 グレゴリーの身体が大きく揺れる。


 何を。


 している。


 エドガーの声が。


 頭の奥で響いた。


 だが。


 もう。


 止まらなかった。


『っ……がぁ!』


 グレゴリーが振り返りざま、短剣を振るう。


『っ!』


 腕に熱が走った。


 切られた。


 浅い。


 同時に、身体が机へぶつかった。


 ランプが揺れる。


 落ちる。


 ――ガシャン!


 油が床へ広がり、炎が上がった。


 揺れる光が。


 二人を照らす。


 その一瞬。


 グレゴリーが。


 こちらの顔を見た。


『エド……』


 目を見開く。


『ガ……?』


『…………』


 エドガー。


 その名前を。


 今は。


 聞きたくなかった。


『……その名前で呼ぶな』


『…………?』


 グレゴリーの顔に。


 困惑が浮かぶ。


『お……まえ……』


 膝が崩れる。


『だれ……だ……』


 答えられなかった。


 自分は。


 エミリー。


 そのはずだった。


 でも。


 なら。


 なぜ。


 エドガーの声が。


 まだ。


 自分の中にいる。


『…………』


 グレゴリーは。


 動かなくなった。


     ◇


 炎が床を舐めていた。


 煙が上がる。


 エミリーは。


 ただ立っていた。


 何をした。


 自分は。


 何を。


 書斎へ目を向ける。


 机の上には。


 書きかけの手紙が残っていた。


『マルタさんへ』


 近づく。


 読む。


 孤児院が提示した金について。


 本当に孤児院側が使ってよい金なのか。


 それをマルタ本人へ確認したい。


 ただ。


 それだけだった。


『…………』


 手紙を持つ手が。


 震えた。


 グレゴリーは。


 邪魔をしていなかった。


 拒んでもいなかった。


 ただ。


 町長として。


 確認しようとしていただけだった。


 ほんの少し。


 待てばよかった。


 何もしなければ。


 土地は。


 セレナたちのものになっていたかもしれない。


 それなのに。


 殺した。


『…………どうして』


 答えは。


 返ってこなかった。


     ◇


 火が広がっている。


 ここにいれば。


 誰かが来る。


 エミリーは玄関へ向かった。


 その途中。


 グレゴリーが普段使っていた鍵が目に入った。


『…………』


 手が伸びた。


 鍵を取る。


 なぜ。


 そんなものを持っていく。


 分からない。


 必要などない。


 捨てろ。


 エドガーの声が。


 そう言った気がした。


 でも。


 握った。


 玄関から外へ出る。


 扉を閉める。


 そして。


 持ち出した鍵で。


 外側から錠をかけた。


 ――カチリ。


 音がした。


 その音を聞いた瞬間。


 昔の光景が蘇った。


『お父さん!』


 知らない家。


 知らない妻。


 知らない子供。


 そして。


 食卓にあった。


 一つの椅子。


 誰かがいなくなれば。


 そこが空く。


 空いた場所へ。


 自分が座る。


『…………』


 手の中を見る。


 グレゴリーの鍵。


 グレゴリーは。


 もういない。


 町長の椅子が。


 空いた。


 そこまで考えた瞬間。


 吐き気がした。


     ◇


 その夜。


 眠ることはできなかった。


 腕の傷へ包帯を巻く。


 浅い傷だった。


 それでも。


 痛むたびに。


 グレゴリーの顔が浮かぶ。


『エド……ガ……?』


『……その名前で呼ぶな』


 どうして。


 殺した。


 セレナのためだったのか。


 土地のためだったのか。


 グレゴリーが邪魔だと思ったのか。


 それとも。


 グレゴリーがいなくなれば。


 その場所が空くと。


 自分が。


 そこへ座れると。


 思ったのか。


 町長になれば。


 土地を渡せる。


 孤児院を助けられる。


 セレナに感謝される。


 必要としてもらえる。


 家族に。


 近づける。


『…………』


 分からない。


 自分でも。


 もう。


 分からなかった。


     ◇


 翌朝。


 町長が殺されたという話が。


 町へ広まり始めた。


 夜中。


 グレゴリーの家から煙と焦げ臭さが漂い。


 近所の者たちが駆けつけた。


 火は。


 大きくなる前に消し止められたらしい。


 そして。


 家の中で。


 グレゴリーが見つかった。


 その話を聞いた時。


 エミリーの頭に。


 最初に浮かんだのは。


 セレナだった。


 気がつけば。


 孤児院へ向かっていた。


     ◇


 コン、コン、コン。


『はーい』


 中から。


 セレナの声が聞こえた。


 その声に。


 ほんの少しだけ。


 安心してしまった。


『誰?』


『私よ』


 一拍。


『エ……ミリー?』


『そう』


 今日は。


 自分が誰なのか。


 迷わなかった。


 扉が開く。


 セレナが。


 赤ん坊を背負って立っていた。


『どうしたの? 久しぶりじゃない』


『…………』


『エミリー?』


 喉が。


 動かなかった。


 自分が殺した。


 言えるはずがない。


『……大変なのよ』


『何が?』


 セレナを見る。


『町長が……』


 一度。


 声が詰まった。


『町長が、殺された』


『…………え?』


 セレナの身体が。


 固まった。


『……グレゴリー町長が?』


『そう』


『嘘……』


『本当よ』


 その顔を見て。


 ようやく。


 分かった。


 自分は。


 セレナを助けてなど。


 いなかった。


 ただ。


 悲しませただけだった。

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