第90話 エドガーとエミリー
セレナが追放されてから、長い年月が過ぎた。
その間、一度も会わなかったわけではない。
人間の町で偶然その姿を見かけたこともあれば、任務の途中で遠くから様子を確認したこともあった。
耳を失ったセレナは、人間の中にいても目立った。
エルフでありながら、その象徴ともいえる長い耳を切り落とされている。事情を知らない者から奇異な目を向けられることもあったし、面白半分に声をかける者もいた。
それでも、セレナは昔とあまり変わっていなかった。
腹が立てば怒り、困っている者がいれば頼まれてもいないのに首を突っ込み、自分より大きな相手にも平気で食ってかかる。
見ているこちらが呆れるくらい、セレナはセレナのままだった。
ただ、里へは帰れない。
生まれ育った故郷を失ったという一点だけは、自分と同じだった。
だから、いつか疲れるのだと思っていた。
どこへ行けばいいのか分からなくなり、誰にも必要とされなくなって、最後には自分と同じところへ辿り着く。
そうなったら。
今度は自分が隣にいればいい。
昔、セレナがそうしてくれたように。
そんなことを考えていた。
◇
ところが。
久しぶりにセレナとまともに話した日、最初に聞かされたのは予想もしなかった言葉だった。
『孤児院?』
『そう』
セレナは何でもないことのように頷いた。
『私、今そこで暮らしてるの』
『……孤児院で?』
『うん。子供たちと一緒に』
『なぜ』
『なぜって……』
セレナが少し考える。
『必要だったから?』
『誰に言われた』
『誰にも』
『じゃあ、なぜお前がやるんだ』
『放っておけなかったから』
昔と同じだった。
川へ行く時も、一人でいる自分の隣へ座った時も、セレナはいつだってそうだった。
誰かに命じられたからではない。
周囲が何を求めているのかを考え、その役割に合わせて自分を変えるわけでもない。
自分がそうしたいから、そうする。
たったそれだけのことを、セレナは昔から当たり前のようにやっていた。
『来る?』
『……どこへ』
『孤児院』
『俺が?』
『嫌ならいいけど』
『…………』
『どうする?』
昔、何度も聞かれた言葉だった。
今日はどうする。
男として扱ってほしいのか。
女として扱ってほしいのか。
来るのか。
来ないのか。
セレナは、いつも自分に選ばせた。
『……行く』
『分かった』
そして、いつものように、それ以上は何も聞かなかった。
◇
孤児院は、想像していたよりもずっと騒がしい場所だった。
『セレナ、おかえり!』
『お腹すいた!』
『こいつが取った!』
『取ってない!』
『はいはい、順番に喋って!』
扉を開けた途端、子供たちが集まってくる。
セレナは一人の頭を撫で、別の子供に服を引っ張られ、喧嘩を始めた二人を叱った。
夕食の匂いがする。
使い込まれた食卓がある。
子供たちが走り回り、笑い声が絶えない。
昔、父親として帰った家に似ていた。
母親として過ごした家にも似ていた。
けれど、決定的に違うものがあった。
ここにあるものは、誰かから奪ったものではない。
セレナが、自分で作ったものだった。
『あれ?』
一人の少女が、こちらを見ていた。
『その人だれ?』
『昔からの友達』
セレナが答える。
『すっごく昔からね』
『へえー』
少女が近づいてくる。
『名前は?』
『……エドガー』
『エドガーさん?』
『ああ』
『私はミミ』
『そうか』
『よろしくね!』
ミミはそう言って笑った。
その瞬間、胸の奥で何かが動いた。
『…………』
『どうしたの?』
『いや』
似ている。
顔ではない。
髪の色も違えば、年齢だって合わない。
ただ、笑った時に少しだけ首を傾ける仕草が、昔の娘を思い出させた。
『エドガーさん?』
『……何でもない』
ミミは不思議そうな顔をしたが、すぐに他の子供たちのところへ走っていった。
その背中を、しばらく目で追った。
あの娘は、どうしているのだろう。
母親として抱いた。
一緒に眠った。
『お母さんがいたから』
そう言って笑ってくれた。
なのに、任務が終われば自分はいなくなった。
その後どうなったのか、知らない。
元気にしているのか。
自分のことなど、とっくに忘れているのか。
もう確かめることもできない。
『エドガー』
『……何』
『ぼーっとしてるけど、大丈夫?』
『大丈夫だ』
『そう?』
『ああ』
セレナは少しだけこちらを見たが、それ以上は聞かなかった。
◇
それから、孤児院へ足を運ぶことが増えた。
エドガーとして行くこともあれば、エミリーとして訪ねることもあった。
セレナは、どちらでも気にしなかった。
『今日はエミリーなのね』
『ああ』
『分かった』
それだけだった。
どうして今日はエミリーなのか。
前はエドガーだったのに、なぜ変わったのか。
本当はどちらなのか。
そんなことは聞かない。
昔と同じだった。
それが、心地よかった。
セレナの前にいる時だけは、何かを説明しなくてもいい。
だから、離れられなかった。
孤児院へ行けば、ミミがいた。
ミミを見ると、昔の娘を思い出した。
似ているのは僅かな仕草だけなのに、彼女が笑っていると、あの娘もどこかで同じように笑っているような気がした。
それだけで少し安心した。
けれど、ミミが転べばセレナが駆け寄り、泣けば慰め、夜になれば布団を掛け、熱を出せば眠らずに看病した。
それを見るたび、胸の奥が少しだけ痛んだ。
セレナが悪いわけではない。
ミミが悪いわけでもない。
むしろ、嬉しいはずだった。
子供が幸せに暮らしている。
それの何が悪い。
なのに、時々見ていられなくなった。
そういう日は孤児院へ行くのをやめた。
一週間。
一月。
時には、もっと長く。
これでいいと思った。
セレナのそばにいるから、おかしなことを考える。
ならば離れればいい。
けれど、離れていると今度はセレナのことが気になった。
ちゃんと食べているのか。
無茶をしていないか。
また誰かを助けようとして、自分を危険に晒していないか。
孤児院の子供たちは元気なのか。
ミミは。
そう考え始めると、結局また孤児院へ向かっていた。
『久しぶり』
戻れば、セレナはいつもと変わらない。
『仕事?』
『まあな』
『そっか。お疲れさま』
どうして来なかったのかと責めることもない。
どこで何をしていたのかと問い詰めることもない。
『ご飯食べる?』
『……いいのか』
『いっぱいあるから』
そう言って、当たり前のように椅子を用意する。
その椅子に座るたび、安心した。
そして同時に、苦しくなった。
◇
セレナと一緒にいると、少しずつ自分が壊れていく。
そのことには、いつからか気づいていた。
なのに、離れられなかった。
放っておけなかった。
いや。
本当に放っておけなかったのは、セレナだったのだろうか。
それとも、セレナに忘れられるのが怖かっただけなのか。
分からない。
昔はもっと、自分の感情を整理できていた気がする。
相手が何を考えているのか。
自分が何をすればいいのか。
その結果、何が起きるのか。
百年以上、そうやって生きてきた。
それなのに、セレナのことになると、少しずつ分からなくなっていった。
◇
一方で。
セレナは、時間が経てば経つほど変わっていった。
いや。
変わったという表現は、正しくないのかもしれない。
昔から持っていたものが、より確かな形になっていった。
何を守るのか。
誰と生きるのか。
何を許し、何を許さないのか。
自分がどう生きるのか。
その一つ一つを誰かに決めてもらうのではなく、自分で選んでいった。
里を追放された。
耳を失った。
帰る場所も失った。
それでも、セレナは自分を失わなかった。
むしろ、選択を重ねるたびに、セレナという人間は少しずつ強固なものになっていった。
自分とは、まるで逆だった。
◇
やがて。
孤児院に赤ん坊が増えたという話を聞いた。
森で見つけた子供を、セレナが連れ帰ったらしい。
名前はレオン。
驚きはしなかった。
セレナなら、やるだろうと思った。
身元も分からない。
親が誰なのかも分からない。
そんな赤ん坊を見つけて、放っておけるような女ではない。
昔からそうだった。
ただ、その頃には以前ほど頻繁に孤児院へ行かなくなっていた。
セレナのそばにいると苦しくなる。
離れれば気になる。
そんなことを何度も繰り返し、いつの間にか訪れる間隔は長くなっていた。
だから。
レオンという赤ん坊が来たことは知っていても、しばらくその顔を見ることはなかった。
◇
初めてレオンを見たのは。
グレゴリー町長が死んだ翌朝だった。
自分の口から、その死をセレナへ伝えに行った時。
『私よ』
扉の向こうから、一拍の沈黙があった。
『エ……ミリー?』
扉が開く。
『どうしたの? 久しぶりじゃない』
セレナは、赤ん坊を背負っていた。
あれが。
レオン。
そう理解するまでに、時間はかからなかった。
けれど。
その時は、それどころではなかった。
『町長が、殺された』
自分が殺した男の死を。
自分の口で伝えた。
そして。
早く逃げた方がいいと、セレナへ言った。
次はあなたかもしれない。
そう言った。
嘘ではなかった。
セレナが危険な目に遭うことだけは、本当に嫌だった。
それにもしかしたら、セレナのイスが空くとでも思ったのかもしれない。
けれど、セレナは逃げなかった。
『マルタもいる。リーナも、カラリンも、ガルドもいる。今は一人じゃない』
『……一人じゃない、か』
その言葉が。
胸の奥に残った。
昔は。
そう言いかけて。
やめた。
『ここは私の家だから』
セレナはそう言った。
『この子たちの家でもある』
『…………』
自分が、ずっと欲しかったものだった。
家。
そこにいる人間。
帰る場所。
自分がいなくても続いていく日常。
セレナは。
全部持っていた。
誰にも成り代わらず。
セレナのままで。
◇
それから数日後。
エミリーは、もう一度孤児院を訪ねた。
セレナを町へ誘った。
買い物をするため。
ただ、それだけだった。
レオンも一緒だった。
町を歩きながら、昔話をした。
セレナが覚えている店。
昔、二人で歩いた場所。
どうでもいい話をして。
笑った。
ほんの少し。
昔に戻れたような気がした。
けれど。
帰り道。
エミリーはセレナの腕の中にいるレオンへ目を向けた。
『ねえ』
『何?』
『今日は、私が抱いてもいい?』
『レオンを?』
『うん』
セレナは、ほんの僅かに迷った。
それでも。
『……いいけど』
レオンを渡してくる。
腕の中へ収めた。
『…………』
軽い。
身体は。
覚えていた。
頭を支える位置。
腕の角度。
力の抜き方。
昔。
何人もの子供を抱いた。
父親として。
母親として。
その記憶が、身体の中には残っていた。
『抱くの上手ね』
セレナが言った。
『そう?』
『うん。慣れてるみたい』
『…………』
答えなかった。
レオンの顔を見る。
この子は。
自分のことを何も知らない。
エドガーも。
エミリーも。
何者なのかも。
何をしてきたのかも。
何も知らない。
『かわいい』
『あぅ』
『ふふ』
ただ。
こちらを見て。
声を返した。
それだけだった。
なのに。
不思議と。
腕から離したくないと思った。
『セレナ』
『何?』
『この子を拾った時って、どんな気持ちだった?』
『え?』
『最初に見つけた時』
セレナは少し考えてから答えた。
『……放っておけないって思った』
『それだけ?』
『最初はね』
『じゃあ』
エミリーは、ほんの少しだけレオンを抱き寄せた。
『今は?』
セレナは迷わなかった。
『家族よ』
『…………』
『大事な家族』
足が。
ほんの一瞬だけ遅れた。
『……そう』
腕の中のレオンへ目を落とす。
『家族なんだ』
『うん』
『そっか』
それ以上は、何も聞かなかった。
◇
その日の帰り道。
何度も。
あの言葉を思い出した。
家族。
大事な家族。
血は繋がっていない。
どこの誰なのかも分からない。
それでも、セレナは迷わなかった。
自分は何度も父親になった。
母親にもなった。
夫になり。
妻にもなった。
家へ帰り。
食卓に座り。
子供を抱いた。
けれど、いつも誰かだった。
誰かの名前を借り。
誰かの癖を覚え。
誰かが座っていた椅子へ、後から座った。
セレナは違う。
セレナのまま。
家を作った。
セレナのまま。
子供たちを家族にした。
そして今。
セレナのまま。
母親になった。
『…………』
羨ましい。
最初に浮かんだのは、それだった。
自分も、そんなふうに生きたかった。
誰にも成り代わらず。
自分のままで。
誰かから必要とされる人間になりたかった。
けれど。
その次に浮かんだ言葉は。
少し違った。
――どうして。
足が止まる。
――どうして、セレナだけ。
『…………』
自分自身が。
その考えに驚いた。
セレナは悪くない。
分かっている。
昔から。
セレナだけは自分を否定しなかった。
何者なのかと決めつけず。
何かを説明しろとも言わず。
ただ隣にいてくれた。
そのセレナを。
羨ましいと思っている。
それだけなら。
まだよかった。
けれど。
どうしてセレナだけ。
そう思った。
その瞬間から。
羨ましいという感情の中に。
それまでとは違う何かが混ざり始めていた。
◇
しばらく孤児院へ行くのをやめよう。
そう決めた。
セレナのそばにいると、自分がおかしくなる。
離れれば、きっと元に戻る。
それでいい。
そう思っていた。
けれど、離れている間にも考えてしまう。
セレナは元気なのか。
孤児院は大丈夫なのか。
ミミは笑っているのか。
そして。
レオンは。
今もセレナの腕の中で眠っているのだろうか。
セレナと一緒にいると、少しずつ自分が壊れていく。
なのに、離れられなかった。
放っておけなかった。
そして。
自分が少しずつ分からなくなっていく一方で。
セレナは。
ますます。
セレナになっていった。
そのことが。
どうしようもなく。
苦しかった。




