第89話 エミリーという女
最初の任務がどれほど続いたのか、今となってはもう覚えていない。
数日だったのか、数週間だったのか。それとも、もっと長かったのか。
ただ、あの家を最後に出た朝のことだけは、今でも妙にはっきりと思い出せる。
『今日も帰ってくる?』
玄関で靴を履いていると、まだ幼い子供が後ろから尋ねてきた。
『ああ』
『昨日より早い?』
『たぶんな』
『じゃあ待ってる! 絶対だよ!』
そう言って笑う子供の頭を、自分はあの男と同じやり方で撫でた。
『分かった』
そして、家を出た。
その日、自分は帰らなかった。
任務が終わったからだ。
あの家族がその後どうなったのか、本物の父親が戻ってきたのか、自分が偽物だったと知ったのか、それすら知らない。
知る必要はないと言われたし、自分から調べようともしなかった。
それでもしばらくの間、
『絶対だよ!』
あの声だけは、耳の奥に残り続けた。
◇
それから長い年月をかけて、いくつもの人間になった。
商人、兵士、旅人。実在する誰かの代わりになることもあれば、最初から存在しない人物を作り上げることもあった。
名前を決め、出身地を作り、話し方や癖を覚える。
家族が必要なら家族も用意し、過去を聞かれそうなら過去まで作った。
最初の頃は一人の人間になりきるまで何週間も必要だったが、慣れてしまえばそう難しいことではなかった。
少し話せば、相手が自分に何を求めているのか分かる。
愛想のいい商人であればいいのか。
口数の少ない兵士であればいいのか。
頼れる夫であればいいのか。
優しい妻であればいいのか。
相手が望む人間になれば、相手は安心する。
それはエルフの里にいた頃から、自分がずっとやってきたことだった。
違うのは、人間の世界ではそれが仕事になったというだけだ。
自分自身でいるよりも、誰かになる方がずっと簡単だった。
◇
父親だけではなく、母親になったこともあった。
その時に成り代わった女には、幼い娘がいた。
いつものように口調や仕草を覚え、料理の味付けや髪の結び方まで調べた。
娘を叱る時には腕を組む。
寝る前には必ず髪を撫でる。
それさえ覚えてしまえば、母親を演じること自体は難しくなかった。
『お母さん、今日一緒に寝てもいい?』
ある夜、娘にそう尋ねられた。
『…………』
少しだけ返事に困った。
その女がそんな時にどう答えるのかまでは、調べていなかったからだ。
『駄目?』
不安そうな顔を見て、自分は少し考えてから頷いた。
『いいよ』
『ほんと!?』
『うん』
その夜、娘は自分の腕にしがみついたまま眠った。
小さな身体は温かく、規則正しい寝息が胸元へ当たっていた。
この子が求めているのは自分ではない。
自分は母親ではない。
分かっていた。
それでも、娘が寝返りを打って布団から肩を出した時、自分は何も考えずに布団を掛け直していた。
翌朝。
『お母さん』
『ん?』
『昨日、怖い夢見なかった』
『そう』
『お母さんがいたから』
娘はそう言って笑った。
その顔を見た時、自分の中に妙な感情が生まれた。
この子を守りたい。
泣いたら抱いてやりたい。
怖いなら隣にいてやりたい。
任務だからではなく、自分自身がそうしたいと思っていた。
だから任務の終了を告げられた時、初めて命令に逆らいかけた。
『……もう少しだけ、ここにいられないか』
『理由は?』
問われても答えられなかった。
母親でいたい。
そんなことを、自分の口から言えるはずがなかった。
『任務は終わった。戻れ』
『……分かった』
結局、その家も出た。
父親だった時と同じように。
◇
エドガーとエミリーという名前を使い始めたのがいつだったのかは、もう曖昧だ。
気がつけば、男として人前に立つ時にはエドガー、女として人前に立つ時にはエミリーと名乗ることが増えていた。
同じ町で二つの顔を持てるのは、諜報活動には便利だった。
エドガーには話すが、エミリーには話さない者がいる。
反対に、エミリーだからこそ話す者もいた。
そうやって二つの名前を使い分けるうちに、自分の中でも次第に二人を別々に考えるようになっていった。
奇妙なことに。
男として人前に立つエドガーは、母親というものに強く惹かれていた。
子供を抱き、眠るまで隣にいて、泣けば慰める。
帰ってくれば、その場所にいる。
昔、母親として抱いた娘の温かさを、ずっと忘れることができなかった。
しかしエドガーとして生きている時、周囲は当然のように自分を男として扱った。
母親になりたいなどと口にすれば、また奇異な目で見られる。
そう思って、誰にも言わなかった。
一方で、女として人前に立つエミリーは、父親という存在に憧れていた。
仕事から帰れば子供が走ってくる。
食卓には自分の椅子があり、今日あったことを聞き、必要なら叱り、一緒に遊び、家族を守る。
最初に父親へ成り代わった時、自分が一瞬だけ手に入れた生活だった。
エミリーは、あの場所へもう一度帰りたかった。
けれどエミリーとして生きる限り、周囲は自分を女として見る。
だから父親になりたいとは言えなかった。
父親になったこともある。
母親になったこともある。
なのに、自分自身としてはどちらにもなれない。
少なくとも、あの頃の自分はそう思っていた。
◇
そんな生活がどれほど続いたのか。
十年か。
二十年か。
もっと長かったのかもしれない。
やがて自分は、天竜教へ潜り込む任務を与えられた。
人間の間で勢力を広げている宗教組織。
竜を神として崇め、人間を救済する存在だと説いている。
長老会から与えられた命令は単純だった。
内部へ入り、情報を持ち帰れ。
いつもの仕事と変わらないはずだった。
だが、天竜教の内部で古い資料を漁っているうちに、聞き覚えのある名前を見つけた。
『……黒雷石』
エルフの里にも存在していた名前だった。
ところが、天竜教に残された記録と里で教えられてきた話は、どうにも噛み合わない。
同じものについて書かれているはずなのに、片方では語られていることが、もう片方では不自然なほど抜け落ちている。
最初は任務として調べていた。
だが、長老会へ報告を送った直後、返ってきた指示は予想外のものだった。
――黒雷石について、これ以上調べる必要はない。
理由は書かれていなかった。
調べるな。
触れるな。
忘れろ。
そう言われているようにしか思えなかった。
だから逆に気になった。
そこから、自分は少しずつ長老会にも隠し事をするようになった。
天竜教の情報を里へ流しながら、里の情報を天竜教にも流す。
もちろん全てではない。
互いに欲しがっているものだけを渡し、互いが隠したがっているものを自分で探った。
そうしているうちに、どちらの味方なのか分からなくなった。
いや。
最初から、どちらの味方でもなかったのかもしれない。
◇
セレナが追放されたという知らせを聞いたのは、その頃だった。
『禁域へ入り、封印の楔を抜いたらしい』
報告を聞いて、自分はすぐに否定した。
『セレナが? そんなはずはない』
『長老会はそう判断した』
『それで?』
『追放だ。耳も切り落とされたと聞いている』
しばらく何も言えなかった。
あのセレナが。
里を追い出された。
生まれ育った場所へ、二度と戻ることができなくなった。
可哀想だと思った。
助けてやりたいとも思った。
それは嘘ではない。
けれど、それと同時に。
胸の奥に、わずかな安堵が生まれた。
そんな感情を抱いた自分が最低だということくらい分かっていた。
それでも消えなかった。
自分はずっと、どこにも属していないと思っていた。
人間でもなく、エルフでもない。
どこへ行っても、本当の自分では居場所をもらえない。
誰かになり、その誰かの椅子へ座っている間だけ、家族も居場所も手に入る。
だがセレナは違った。
里にいて、セレナのままで生きていた。
だから、自分とは違う人間なのだと思っていた。
そのセレナが、里から追い出された。
帰る場所を失った。
その知らせを聞いた時、自分は心のどこかで思ってしまった。
これで、セレナも自分と同じになった。
そして、その考えに少しだけ安心した。
これで自分だけではない。
そんなふうに思ってしまったことを。
百年以上経った今でも。
忘れることができなかった。




