第88話 エドガーという男
エルフの里にいた頃、自分が何という名前だったのかは、もう覚えていない。
いや、正確には思い出せない。
長く生きすぎたからでも、忘れたいほど嫌いな名前だったからでもない。
ただ、名前を変えすぎたのだ。
人間の町へ潜り込む時には別の名前を使い、天竜教へ潜り込む時にも別の名前を使った。
商人にも、旅人にも、兵士にもなった。
夫になったことも、妻になったこともある。
父親として家に帰ったこともあれば、母親として子供を抱いたこともあった。
もちろん、そのどれも本当の自分ではなかった。
誰かになるたびに名前をもらい、任務が終われば捨てる。そして、また別の誰かになる。
そんなことを百年以上も繰り返した。
十を超えた頃までは覚えていた気がする。二十を超えた頃には、いちいち数えることすらやめていた。
だから最初の名前が何だったのか、今となっては分からない。
ただ、二つだけ。
長く使った名前がある。
――エドガー。
そして、――エミリー。
いつから使い始めた名前だったのか、それさえもう曖昧だった。
それでも、いつの間にか男として人前に立つ時はエドガー、女として人前に立つ時はエミリーと名乗ることが増えていた。
エドガーと呼ばれれば振り返る。
エミリーと呼ばれても振り返る。
では、本当の自分はどちらなのだろう。
そんなことを考えていた時期もあったが、今はもう、考えることすら疲れてしまった。
ただ、ずっと昔。
まだエルフの里で暮らしていて、エドガーでもエミリーでもなかった頃。
自分の名前を呼んでくれる者がいたことだけは覚えている。
自分は人間とエルフの間に生まれた、ハーフエルフだった。
それだけでも、この里では珍しい存在だった。
そこへ自分の身体のことまで重なったせいか、幼い頃から周囲にどう接すればいいのか分からないと思われていたのだろう。
露骨に嫌われていたわけではない。
石を投げられたこともなければ、面と向かって里から出ていけと言われたこともない。
ただ、誰も積極的には近づいてこなかった。
自分も、それでいいと思っていた。
一人でいれば、余計なことを聞かれずに済む。
男なのか、女なのか。
人間なのか、エルフなのか。
どちらなのかと、答えの出ないことを尋ねられずに済む。
だから、一人でいることには慣れていた。
そんな自分にわざわざ絡んでくる者など、ほとんどいなかった。
――あの少女を除いては。
『――ねえ!』
遠くから、一人の少女が走ってくる。
長い耳を揺らしながらこちらへ向かってくる彼女には、あの頃はまだ両方の耳があった。
『また一人でいるの? 一緒に行こうよ』
少女はそう言って笑った。
その顔だけは、百年以上経った今でも忘れられない。
――セレナ。
自分の最初の名前は忘れてしまったのに、彼女の名前だけは一度も忘れたことがなかった。
◇
『どこに行くんだ』
『川!』
『何をしに?』
『遊びに。何して遊ぶかは着いてから考える!』
『…………』
『ほら、早く!』
昔からセレナはそういう奴だった。
考えるより先に動き、面白そうだと思えば走り出す。腹が立てば怒り、悲しければ泣く。そして誰かが一人でいれば、頼まれてもいないのに勝手に手を引いた。
『行かない。一人でいたい』
『そうなの? 分かった』
セレナはあっさりと手を離した。
これでどこかへ行くだろうと思ったのだが、なぜかその場へ座り込んだ。
『……何してるんだ』
『隣にいる』
『一人でいたいと言っただろ』
『うん。だから喋らないよ』
『そういう問題じゃない』
『じゃあ何が問題なの?』
答えられなかった。
結局、その日セレナは夕暮れまで隣にいた。こちらが喋らなければ彼女も喋らず、石を投げたり、草を毟ったり、途中から寝転がったりしながら、ただ同じ場所にいた。
変な奴だった。
他の者たちは、自分が何者なのかを知りたがった。
人間なのか、エルフなのか。
男なのか、女なのか。
どちらなのか。
けれどセレナは、そういうことにはあまり興味がないらしかった。
そこにいるなら誘う。
来たくないなら隣にいる。
ただ、それだけだった。
だからなのだろう。
いつの間にか、セレナと過ごす時間が増えていた。
◇
物心がついた頃から、周囲から向けられる視線が嫌いだった。
身体を見られ、顔を見られ、声を聞かれる。そして最後には、決まって同じようなことを尋ねられた。
『お前は、男なのか。女なのか』
知らない、と答えれば困った顔をされた。
笑う者もいた。気味悪がる者もいたし、『どちらかに決めた方が生きやすい』と親切のつもりで言ってくる者もいた。
だから、周囲が求めるものを試してみた。
男として見られている時には、里の者たちが「男らしい」と考えている振る舞いを真似た。弱音を吐かず、戦う術を学び、多少の怪我では顔色を変えないようにした。
そうすると、『やればできるじゃないか』と褒められた。
女として見られている時には、今度は彼らが「女らしい」と考えている振る舞いを真似た。争いを避け、柔らかく笑い、求められた通りに振る舞った。
すると今度は、『その方が自然だ』と言われた。
どちらも自分の一部ではあったのだと思う。
けれど、どちらも自分ではないようにも思えた。
ただ一つ分かったのは、相手が求めている自分を演じれば、相手は安心するということだった。
自分がどうしたいのかを考えるより先に、相手が何を求めているのかを考える。
そんな癖がついたのは、おそらくこの頃からだった。
◇
『ねえ。今日はどうする?』
ある日、セレナにそう聞かれた。
『……何が』
『呼び方。昨日は男として扱ってほしいって言ってたでしょ。今日は?』
一瞬、身体が強張った。
また何かを聞かれる。
そう思った。
だが、セレナはこちらを見たまま、ただ返事を待っている。
『……今日は、女として扱ってほしい』
『分かった』
それだけだった。
『…………』
『何?』
『いや』
『変なの』
セレナは笑って、それ以上は何も聞かなかった。
どうしてなのか。
本当はどちらなのか。
どちらかに決めないのか。
そんなことを、一度も聞かなかった。
当時は、それが嬉しかった。
何も説明しなくていい。何も証明しなくていい。ただ隣にいることができる。
セレナの隣だけは、少しだけ楽に息ができた。
だから自分も、セレナの隣にいた。
ずっと、そうしていられるのだと思っていた。
◇
それが変わったのは、長老会に呼び出された日だった。
『人間の町へ行ってもらう。長期の任務になる』
『なぜ、私が』
『適任だからだ。お前は他者の振る舞いを観察し、それを真似ることに長けている』
『人間の町へ行ったこともない』
『ならば学べ。姿を変え、話し方を変え、必要なら名前も変えろ』
老人は少し間を置いてから続けた。
『必要なら男にも、女にもなれ。お前ならできる』
その言葉を、褒め言葉として受け取ることはできなかった。
『何のための任務だ』
『人間たちを知るためだ』
『それだけか?』
『…………』
誰も答えない。
『拒否したら?』
今度も答えはなかった。
ただ、何人かが目を逸らした。
その瞬間に分かってしまった。
これは確かに任務なのだろう。
だが、それだけではない。
里の者たちは、自分という扱いに困る存在に遠くへ行ってほしいのだ。
(……いなくなってほしいんだな)
不思議と怒りは湧かなかった。
どこかで、ずっと分かっていたからかもしれない。
◇
『行くの?』
里を出る前の日、セレナに聞かれた。
『ああ』
『どれくらい? 一年?』
『分からない』
『十年?』
『分からないと言ってるだろ』
少し強く言ってしまうと、セレナは黙った。
『……ごめん』
『別に』
『怒ってる?』
『怒ってない』
『じゃあ、こっち見てよ』
見られなかった。
顔を見れば、行きたくないと言ってしまいそうだった。
『帰ってくるよね』
『……分からない。任務だから』
『そっか』
セレナは、それ以上何も聞かなかった。
やがて手を差し出してくる。
『何だ』
『握手。またね、ってやつ』
『なぜ握手なんだ』
『いいじゃん。帰ってきたら、また遊ぼう』
『子供じゃないんだぞ』
『約束ね』
差し出された手をしばらく見つめてから、握った。
『……ああ』
『絶対だからね』
『分かった』
それが、初めてセレナへついた嘘だった。
◇
人間の町で最初にもらった名前が何だったのか。
それも、もう覚えていない。
ただ、最初に誰かになった日のことだけは、今でもよく覚えている。
ある商人だった。
遠くの町を行き来する、ごく普通の男。
任務のため、その男について徹底的に調べた。
話し方。
歩き方。
酒の好み。
物を持つ時は右手を使うこと。
笑う時には鼻を触ること。
妻がいること。
二人の子供がいること。
全部覚えた。
何日も、何週間も練習した。
そして、ある夜。
その男として家へ帰った。
扉の前に立った時、自分でも不思議なくらい緊張していた。
それまでの任務で危険な場所へ入ったこともある。刃物を向けられたこともあった。
それなのに、あの扉を開ける時ほど怖かったことはない。
ゆっくりと扉を開ける。
『ただ――』
『お父さん!!』
言い終えるより早く、小さな身体が腹へ飛び込んできた。
『おかえり! 遅いよ!』
『…………』
子供が笑っている。
自分を見て、本当に嬉しそうに。
『あなた、おかえりなさい』
奥から女が出てきた。
『どうしたの?』
『……いや。ただいま』
練習した男の癖を思い出し、笑いながら鼻へ触れる。
『お腹空いたでしょ?』
『今日はお父さんの好きなものだよ! 早く!』
子供に手を引かれて食卓へ向かう。
三人の向こうに、一つだけ空いている椅子があった。
『ほら、お父さん。ここ!』
子供がその椅子を叩く。
言われるままに座った。
自分の場所ではない。
分かっている。
この椅子は、あの男のものだ。この女も、この子供たちも、自分を待っていたわけではない。
それでも四人で食事をした。
子供たちが今日あったことを話し、妻が笑う。時々こちらにも話を振られ、そのたびに覚えてきた男の口調で答えた。
笑う時には鼻を触る。
すると、また子供たちが笑った。
奇妙だった。
嘘をついている。
騙している。
ここに座る資格などない。
分かっているのに。
居心地がよかった。
自分のために用意されたものではない食事が温かかった。
自分を待っていたわけではない声が嬉しかった。
そして。
『お父さん』
『ん?』
『明日もいる?』
子供が尋ねた。
答えは決まっていた。
任務が終わればいなくなる。この家は自分の家ではなく、この子供たちも自分の子ではない。
『ああ。いるよ』
『ほんと!?』
『ああ』
『やった!』
子供が笑った。
その顔を見ながら、初めて知った。
誰かになれば、帰る場所がある。
誰かになれば、自分を待っている者がいる。
誰かになれば、自分のためではないはずの椅子にさえ座ることができる。
そして。
自分ではない誰かになれば。
自分でも、父親になれる。
そんな気がした。
この時はまだ知らなかった。
誰かの場所に座ることと。
自分の居場所を作ることは。
まったく違うことなのだと。




