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第86話 百十歳、抱きしめてもらいます

 ――ゴッ。


 鈍い音が、古い教会に響いた。


 だが、今の音は肉を殴ったものではなかった。


 セレナの拳はエミリーの顔を僅かに外れ、そのすぐ横の石床へ叩きつけられている。


「許さない……!」


 拳を引き抜き、もう一度振り上げる。


「絶対に……許さない!!」


 ――ゴッ!!


 まただ。


 エミリーの顔には当たらない。


 反対側の石床が小さく砕け、破片が飛び散った。


「セレナ!」


 ガルドが呼ぶ。


 聞こえていない。


 セレナは馬乗りになったまま、何度も拳を振り下ろした。


 ――ゴッ。


 ――ゴッ。


 ――ゴッ。


 重い音が教会に響くたび、エミリーの顔の左右へ新しい傷が刻まれていく。


(…………?)


 わしは砂の上から、その光景を見つめていた。


 最初は間違いなく当たっていた。


 怒りに任せて振るわれた拳は、確かにエミリーの頬を捉えていた。


 なのに。


 今は、一発も当たっていない。


「うああああああああああ!!!!」


 泣き叫びながら、セレナが拳を振り下ろす。


 ――ゴッ!!


 また、顔の横だった。


 拳が掠めた風で、エミリーの髪が僅かに揺れる。


(外れた……?)


 いや。


 これほどの至近距離。


 馬乗りになり、動かない相手へ何度も拳を振り下ろしているのだ。


 偶然、続けて外れるはずがない。


(……外しておるのか?)


 セレナ自身が、それを分かっているのかは分からない。


 ただ、その拳はもう決してエミリーの顔には落ちなかった。


「許さない……絶対に……!」


 拳を握り締める。


 その手から、ぽたりと赤いものが落ちた。


(セレナ……)


 拳の皮が裂けている。


 何度も石床を殴ったせいで、指の関節は赤く腫れ、そこから流れた血が手を染めていた。


 それでも、セレナは止めない。


「セレナ」


 ガルドが呼んだ。


「やめろ」


「離して……!」


「もういい」


「よくない!!」


 セレナは振り向きもしなかった。


「こいつは……こいつはレオンを……!」


 声が詰まる。


「殺そうと……!」


 再び拳が落ちる。


 ――ゴッ!!


 石床に血が飛び散った。


「…………」


 エミリーは動かない。


 抵抗もしない。


 避けようともしない。


 ただ、セレナの拳が自分の顔の左右へ落ちていくのを、黙って見つめている。


「……なんで」


 エミリーが呟いた。


「…………」


「なんで……外すの」


 セレナの拳が止まる。


「殺したいんでしょう?」


 腫れた頬。


 切れた唇。


 その顔で、エミリーは薄く笑った。


「私のこと」


「黙って……」


「だったら」


 エミリーは囁く。


「ちゃんと、当てればいいじゃない」


「黙れ……!」


「できないんだ」


「黙れ!!」


 セレナが拳を高く振り上げた。


「殺してやる!!」


 振り下ろす。


 ――ゴッ!!


 また。


 エミリーの顔の横だった。


「…………」


 セレナが自分の拳を見る。


 血まみれだった。


「違う……」


 掠れた声が漏れる。


「違う……!」


 もう一度、拳を振り上げようとする。


 だが。


「セレナ」


 ガルドの声がした。


 先ほどまでとは違う。


 静かで。


 優しい声だった。


「レオンが泣いているぞ」


「――――」


 拳が止まった。


「…………え?」


 セレナが振り返る。


 その視線の先。


 柔らかな砂の上に、わしはいた。


(…………)


 言われて。


 初めて気がついた。


 頬が濡れている。


 次から次へと涙が溢れ、顎からぽたぽたと落ちていた。


(……なんじゃ)


 百十年も生きたというのに。


 こんなにも。


(赤ん坊らしく、泣いておるではないか)


 爺らしくもない。


 声を上げて。


 涙を流して。


 わしは泣いていた。


 怖かったからではない。


 助かったことに安心したからでもない。


 セレナ。


(もう、やめてくれ)


 そんなに自分を痛めつけないでくれ。


 わしは無事じゃ。


 ここにおる。


 だから。


 もう。


「……あぅ……」


 喉から漏れた声は、やはり赤ん坊のものだった。


 それでも。


 今度は。


 届いた。


「レオン……」


 セレナの顔が歪む。


「レオン……!」


 立ち上がろうとする。


 だが、脚に力が入らない。


「っ……!」


 倒れそうになった身体を、ガルドが支えた。


「セレナ」


「離して……」


「…………」


「レオンのところに……」


 ガルドは一度わしを見ると、セレナへ視線を戻した。


「いいのか」


「――――ッ」


 その一言で。


 セレナの顔がくしゃりと歪んだ。


「……うん」


 ガルドが手を離す。


 セレナはよろめいた。


 一歩。


 また一歩。


 ほうほうの体で、それでも必死にわしのところへ近づいてくる。


「レオン……」


 そして。


 わしの前へ膝をついた。


「…………」


 両手を伸ばす。


 わしを抱き上げようとして。


 止まった。


「……あ」


 セレナが、自分の手を見る。


 血。


 両手が。


 真っ赤に染まっている。


「…………」


 伸ばしかけた手を引っ込めた。


「ごめん……」


(…………)


「ごめんね、レオン」


 セレナが震える。


「今……汚れてるから……」


 違う。


(それでもいい)


「あとで……ちゃんと洗ってから……」


(違うんじゃ)


 わしは。


 両手を砂についた。


「あぅ……」


「レオン?」


 右手。


 左膝。


 左手。


 右膝。


 不格好に身体を前へ進める。


(……なんとも締まらんのう)


 百十歳にもなって。


 いや。


 今は赤ん坊なのだから。


 これはこれで正しいのかもしれん。


「レオン……?」


 セレナが目を見開く。


 わしは。


 一生懸命。


 セレナへ向かって這った。


(それでもいいんじゃよ)


 血にまみれていてもいい。


 汚れていてもいい。


(セレナなら)


 お主なら。


 それでいい。


 あと少し。


 もう少し。


(いつか)


 必ず。


 わしが守る。


 今はこんな小さな身体で。


 守られてばかりで。


 何も返せなくても。


(いつか必ず、恩を返すから)


 わしを拾ってくれたことも。


 育ててくれたことも。


 何度も守ってくれたことも。


 全部。


 全部。


 返すから。


 だから。


(今は)


 セレナの膝へ。


 小さな手を置く。


 顔を上げた。


(わしを、抱いてくれ)


「……レオン」


「あぅ」


 セレナの唇が震えた。


「……いいの?」


(当たり前じゃ)


「あぅ」


「私……」


 血に濡れた手を見る。


「こんな……」


 わしはその手へ、自分の小さな手を重ねた。


「――――」


 セレナの目から。


 大粒の涙が溢れた。


「レオン……!」


 次の瞬間。


 わしの身体が抱き上げられた。


「レオン……レオン……!」


(うむ)


 強い。


(ちょっと苦しいぞ)


 それでも。


 離してほしいとは思わなかった。


 強く。


 強く。


 セレナはわしを抱き締めた。


「ごめんね……」


 涙が。


 わしの頭へ落ちてくる。


「ごめんね……レオン……!」


(謝るな)


 わしも。


 小さな腕を。


 セレナへ回した。


(ありがとう)


 今は。


 それしか。


 返せないから。


「……変なの」


 声がした。


「…………」


 セレナの腕の中から、そちらを見る。


 エミリー。


 石床の上。


 大の字になって寝転がっていた。


 腫れた頬を涙が伝っている。


「……変なの」


 もう一度。


 呟いた。


「本物の家族じゃないのに」


「…………」


 セレナの腕に、僅かに力が入る。


 だが。


 答えたのは。


 ガルドだった。


「お前は、そう思うだろうな」


「…………」


 低い声。


 ガルドはエミリーを見下ろしている。


 エミリーが目だけを動かした。


「…………」


「本物になろうとするから、本物になる」


 ガルドは。


 セレナを見る。


 その腕の中で泣いている、わしを見る。


「間違えれば謝る。足りないものがあれば、周りが手を貸す」


 そして。


 エミリーへ視線を戻した。


「そうやって家族になっていくんだろう」


「…………」


「お前のように、横から掠め取ろうとする奴には」


 声が低くなる。


「無縁の話だろうがな」


「…………」


 エミリーは答えない。


 ガルドも。


 しばらく何も言わなかった。


 だが。


(…………)


 わしには分かった。


 怒っている。


 ガルドも。


 静かに。


 恐ろしいほど。


 エミリーに対して。


 そして。


 きっと。


 自分自身に対しても。


 わしを攫われた。


 セレナを傷つけられた。


 何より。


 それを未然に防げなかった。


 その全部に。


 ガルドは怒っている。


「エミリー」


 低い声が、教会へ響いた。


「自首しろ」


「…………」


「自分のしたことを話せ」


「…………」


「そして」


 ガルドの手が。


 背負った大剣の柄へ触れる。


「二度とセレナたちの前に現れるな」


「…………」


 エミリーは何も言わない。


「でなければ」


 ガルドの瞳が。


 細くなる。


「次は、こうなる前に斬る」


「…………」


 それ以上。


 ガルドは何も言わなかった。


 エミリーも。


 答えなかった。


 ただ。


「うぇ……あぁ……!」


 わしの泣き声と。


「ごめんね……レオン……」


 セレナのすすり泣く声だけが。


 月明かりに照らされた寂れた教会へ。


 いつまでも。


 静かに響いていた。

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