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第85話 百十歳、手を差し伸べます

「お前は、最後に殺してあげる」


 エミリーはそう告げると、わしを胸元へ強く抱き寄せた。


 教会の中を、息苦しいほどの沈黙が満たす。


 月明かりに照らされた祭壇の奥では、古びた絵の中の女が幼い子供を抱いている。


 その前で、エミリーもまた、わしを抱いていた。


 違うのは、その片手に銀色の短剣が握られていることだけ。


「エミリー……」


 セレナが掠れた声で呼ぶ。


 脚から流れた血が床に小さな跡を作っている。立っているだけでも辛いはずなのに、わしを見るその瞳だけは少しも揺らがなかった。


 その隣ではガルドが腰を落とし、いつでも飛び出せる姿勢を取っている。


 しかし、動けない。


 短剣はわしのすぐそばにある。


 下手に踏み込めば、何が起こるか分からない。


『――レオン』


 頭の中に、雷葬獣の声が響いた。


『我の力を使え』


(…………)


『この距離ならば外さん。一撃で動きを止められる』


(駄目じゃ)


『何故だ』


 わしは答えず、エミリーを見上げた。


 泣いている。


 それなのに、笑っている。


 今そこにいるのがエミリーなのか。それともエドガーなのか。


 もはやわしには、その境目すら分からなかった。


『レオン』


(わしには、こやつを傷つけることはできん)


『何を言っている』


 雷葬獣の声が低くなる。


『その者はお前を人質にし、セレナを殺すと言ったのだぞ』


(分かっとる)


『ならば――』


(それでもじゃ)


 やっていることは許されない。


 グレゴリー町長を殺した。


 セレナを傷つけた。


 わしを孤児院から攫った。


 そのどれも、事情があれば消えるような罪ではない。


 それでも。


(全部は知らん)


 この者が何を抱えて生きてきたのか。


 なぜエドガーとエミリーという二人が、一つの身体に存在しているのか。


 なぜ自分では父親にも母親にもなれないと思い込んでいるのか。


 何一つ、わしは知らない。


 分かったなどと言えば、それこそ傲慢じゃろう。


 ただ。


 百十年生きた前世で、わしは何度も見てきた。


 周囲には理解できない苦悩を抱える者を。


 金があっても消えない。


 地位があっても救われない。


 隣に座り、何時間話を聞いたところで、その痛みを本当の意味で分かち合うことなどできない。


 理解されないまま笑われた者もいた。


 理解されないまま遠ざけられた者もいた。


 そして、自分は誰にも理解されないのだと思い込み、一人で壊れていった者も。


(わしには、こやつの苦しみは分からん)


 それでも。


(分からんからといって、切り捨てたくはない)


『…………』


 雷葬獣が黙る。


 自首してほしい。


 罪を償ってほしい。


 許されるかどうかは、その後の話じゃ。


 それでもまず、生きていてほしい。


 こんな状況になってなお。


(わしは、こやつに同情してしまった)


「……レオン?」


 エミリーが呟いた。


 目が合う。


 エミリーだけではない。


 その瞳の奥から、エドガーもこちらを見ている。


 そんな気がした。


「あなたも……」


 エミリーの唇が僅かに震える。


「あなたも、私を憐れむの?」


(……そうじゃ)


「あぅ」


 当然。


 伝えたい言葉は言葉にならない。


 だから、わしは手を伸ばした。


「…………」


 エミリーの瞳が大きく揺れた。


 赤ん坊の、小さな手。


 何の力もない。


 剣を握ることもできなければ、一人で歩くことすらまともにできない。


 それでも。


 今のわしにできることは、それくらいしかなかった。


「レオン……」


 エミリーの手も動いた。


 ほんの僅かに。


 わしへ向かって。


 あと少し伸ばせば、触れられる。


 だが。


 その手は止まった。


 そこには短剣が握られていた。


 月明かりを反射する銀色の刃が、わしとエミリーの間を隔てている。


(…………)


 わしは、その刃を見つめた。


(今は、手を取り合えんのじゃな)


「レオン……」


 一度。


「レオン……レオン……」


 二度。


 三度。


 エミリーは何かを確かめるように、何度もわしの名前を繰り返した。


 わしへ伸ばしかけた手が、震えている。


「エミリー」


 セレナが一歩踏み出そうとする。


「来ないで!」


 エミリーの声に、セレナが止まった。


「お願い……今は来ないで」


「…………」


 先ほどまでの怒りとは違う。


 エミリーは怯えていた。


 セレナではなく。


 何か。


 もっと別のものに。


「レオンを返して」


 セレナは努めて静かな声で言った。


「もういいから。帰ろう」


「…………」


「エミリーも、エドガーも。まずレオンを返して。それから話そう」


「無理だよ」


「どうして」


「もう無理なの」


 エミリーはわしを見た。


 わしが伸ばしたままの手を。


「だって……」


「…………」


「こんな小さな子にまで」


 声が震える。


「憐れまれちゃった」


「違う!」


 セレナが叫ぶ。


「そんな意味じゃない!」


「同じだよ」


「違うって言ってるでしょ!」


「同じなの!!」


 叫びが教会の天井へ響いた。


 エミリーは荒い息を吐きながら、わしを抱く腕に力を込める。


 けれど。


 先ほどのように苦しくはない。


 無意識なのだろう。


 この状況になっても。


 わしが痛くならないように、力を加減している。


(…………)


 だからこそ。


 胸が痛んだ。


「ずっと思ってた」


 エミリーが呟いた。


「次こそはって」


「…………」


「今の自分が駄目なら、違う誰かになればいいって」


 笑う。


「エドガーなら」


 一拍。


「エミリーなら」


 もう一拍。


「別の名前なら」


 そして。


「別の人生なら」


 セレナが息を呑んだ。


「でも、駄目だった」


「エミリー……」


「何回やっても駄目だった」


 わしを見る。


「今回も」


 その目から。


 少しずつ。


 未来が消えていく。


「私、レオンと暮らしたかった」


「…………」


「本当に」


 その言葉だけは。


 嘘には聞こえなかった。


「朝起きて、ご飯を食べさせて」


 わしの髪を撫でる。


「転んだら抱き上げて」


「…………」


「大きくなったら、色んなことを教えて」


 涙が落ちた。


「嫌われたりして」


 小さく笑う。


「そのうち私なんかより、大事な人ができて」


「…………」


「それでも、たまには帰ってきてくれて」


 指先が。


 優しくわしの頬を撫でた。


「……そういう父親に」


 声が掠れる。


「なりたかったな」


「エミリー」


 セレナも泣いていた。


「まだ――」


「違うよ」


「…………」


「もう違うの」


 エミリーは静かに首を振った。


「この世界じゃ、駄目だった」


「そんなことない!」


「私が私だから駄目だった」


「違う!」


「エドガーでも駄目だった」


「お願い、聞いて!」


「何になっても駄目だった!」


 それまで震えていた声が。


 ふっと。


 静かになった。


「だったら」


「…………」


「次なら」


 エミリーが微笑む。


 あまりにも。


 穏やかな笑顔で。


「違うかもしれない」


(――)


 背筋に冷たいものが走った。


『レオン』


 雷葬獣の声が響く。


 先ほどとは違う。


 明確な警告。


『我の力を使え』


(…………)


『今度こそだ』


 わしにも分かった。


 先ほどまでとは違う。


 孤児院から攫われた時。


 屋根の上を走っている時。


 この教会で「家族になろう」と微笑んでいた時。


 エミリーは一度たりとも、わしを殺そうとはしていなかった。


 むしろ。


 大切にしていた。


 歪んでいても。


 間違っていても。


 一緒に生きようとしていた。


 だが。


 今。


 それが変わった。


 生きて家族になることを。


 エミリーは諦めた。


「レオン」


 わしを見つめる。


「この世では、私たち……家族になることはできないみたい」


「…………」


「だから」


 握られた短剣が。


 ゆっくりと動く。


 そこで初めて。


 銀色の切っ先が。


 明確に。


 わしへ向いた。


「エミリー……?」


 セレナの声が震える。


「来世で、どうか――」


「やめて」


「今度こそ」


「エミリー、やめなさい」


「普通の家族に」


「やめて!!」


「なれますように」


 短剣が。


 わしの胸へ近づく。


「私も」


 エミリーは。


 笑っていた。


「すぐに逝くからね」


「レオン!!!!」


 セレナが弾けた。


 脚の傷も。


 身体に残る眠り薬も。


 何もかも忘れたように、獣じみた前傾姿勢から床を蹴る。


「うあああああああああ!!!!」


 速い。


 じゃが。


(間に合わん)


 どれだけセレナが速くても。


 エミリーとわしの距離は。


 ゼロ。


 刃を僅かに押し込む。


 ただそれだけ。


 ゼロ距離の凶刃より速く到達できる速度など、ない。


(ならば――)


『レオン!!』


(すまんな、雷葬獣)


『何をしている! 我の力を使え!!』


(嫌じゃ)


『死ぬぞ!!』


(それも嫌じゃ)


『ならば!!』


(じゃから)


 一つ。


 ある。


 まだ誰にも見せていない力が。


 先日。


 あの胡散臭い神から授かった。


 もう一つの力。


 この世界へ来て、ずっと思っていたことがあった。


 暗い。


 とにかく。


 夜が暗すぎる。


 前世では、指一本で闇を照らせた。


 家も。


 道も。


 店も。


 工場も。


 人類は闇を照らすことで、一日の中で活動できる時間そのものを広げてきた。


 昇格試験でワイバーンに後れを取った時も思った。


 夜になれば何もできなくなるのは不便すぎる、と。


 だから。


 神に欲しい能力を尋ねられた時。


 わしは願った。


 敵を倒す力ではない。


 誰かを傷つける力でもない。


 人の暮らしを。


 暗闇を。


 照らすための力を。


(まさか)


 わしはエミリーへ向けて、小さな手をかざした。


(最初に使うのが、こんな場面になるとはのう)


 短剣が迫る。


(《ライティング》)


 瞬間。


 光が爆ぜた。


「――ッ!?」


 夜の教会が。


 一瞬にして白く染まった。


 目の前に太陽が現れたかのような強烈な光。


「うっ……!」


 至近距離から光を浴びたエミリーが、反射的に目を閉じて顔を背ける。


 短剣が止まった。


 それだけでいい。


「な、なに……!?」


 わしを抱いていた腕から力が抜ける。


(今じゃ!)


 身体を捩った。


「レオン!?」


 腕から抜け落ちる。


 ふわり。


 身体が宙へ投げ出された。


『レオン!!』


(し、しまった!)


 下には硬い石床。


 赤ん坊の身体で頭から落ちれば、さすがに洒落にならん。


「ノーム!!」


 ガルドの声が響いた。


「《パウンド》!!」


 石床が震えた。


 次の瞬間。


 わしの落下地点へ土がせり上がり、一気に細かな砂へと崩れていく。


「――あぅっ!」


 ぼふっ。


 柔らかな砂が、わしの身体を受け止めた。


 衝撃はある。


 じゃが。


 痛くない。


(た、助かった……)


『この大馬鹿者が!!』


(仕方なかったじゃろうが!)


『お前という奴は――』


 雷葬獣の怒声を。


 さらに大きな声が掻き消した。


「うああああああああああああああ!!!!!!」


 セレナ。


「――!」


 エミリーはまだ目が眩んでいる。


 空になった腕を伸ばし、何もない空間を掻き抱く。


「あ……」


 手が。


 宙を彷徨う。


「あ……レオン……?」


 つい先ほどまで。


 わしがいた場所。


「レオン……どこ……?」


 暗闇で子供を探す親のように。


 何度も。


 何度も。


 手が空を掴む。


「レオン……」


「エミリーイイイイイイイイ!!!!」


 エミリーが声の方を向いた。


 だが。


 今度こそ。


 間に合わなかった。


 ――ゴッ!!


「がっ……!」


 セレナの裸拳が。


 エミリーの顔面を真正面から捉えた。


 身体が大きく仰け反る。


 握られていた短剣が指から抜け、石床を滑っていった。


 カラン。


 乾いた音が響く。


「セレナ!」


 ガルドが叫ぶ。


 しかし。


 セレナは止まらない。


「よくも……!」


 エミリーの服を掴み上げる。


「よくも……!」


 もう一発。


 拳が頬へ突き刺さった。


「よくもレオンを!!」


「ぐっ……!」


 エミリーが床へ倒れる。


 その身体に。


 セレナが覆い被さった。


「セレナ!」


 馬乗り。


 左手で胸元を掴み、右拳を大きく振り上げる。


「よくも……!」


 ――ゴッ!!


「がっ……!」


「家族になりたいって言ったじゃない!!」


 ――ゴッ!!


「父親になりたいって言ったじゃない!!」


 ――ゴッ!!


「大事そうに抱いてたじゃない!!」


 拳が止まらない。


「だったら……!」


 セレナの顔は。


 涙でぐしゃぐしゃだった。


「だったら、なんで殺そうとしたのよ!!!!」


 ――ゴッ!!


 エミリーは抵抗しなかった。


 できないのか。


 それとも。


 しないのか。


 わしには分からない。


「セレナ!! もういい!!」


 ガルドが肩を掴む。


「離して!!」


「レオンは助かった!」


「だから何よ!!」


 セレナがその腕を振り払った。


「こいつは……!」


 涙を撒き散らしながら。


 再び拳を振り上げる。


「こいつは今、レオンを殺そうとしたのよ!!」


「分かっている!」


「だったら離して!!」


 ――ゴッ!!


「返してって言った!!」


 ――ゴッ!!


「お願いした!!」


 ――ゴッ!!


「それでも返してくれなかった!!」


 拳を振り上げる。


「それでも……!」


 セレナの声が詰まった。


「それでも私は……!」


 唇を噛む。


「レオンを本当に大事にしてくれるなら……!」


 拳が震える。


「どこかで……まだ……!」


 泣く。


「あなたを信じたかったのに!!!!」


 ――ゴッ!!


「セレナ!!」


 ガルドの声も。


 もう届かない。


「うああああああああああ!!!!」


 再び拳を振り上げる。


 わしは柔らかな砂の上から、その姿を見ていた。


(……セレナ)


 怒っている。


 だけではない。


 泣いていた。


 今まで見たことがないほど、顔をぐしゃぐしゃにして。


 泣きながら。


 エミリーを殴っている。


 わしは。


 もう助かった。


 ここにいる。


(もういい)


 セレナ。


(もういいんじゃ)


 そう伝えたい。


 わしは無事じゃと。


 もう殴らなくていいと。


 けれど。


 喉から零れたのは。


「……あぅ」


 いつもの。


 赤ん坊の声だけだった。


 セレナの拳が。


 もう一度。


 高く振り上げられる。


「許さない……!」


 血の滲んだ拳を握り締める。


「絶対に……!」


 そして。


 振り下ろした。

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