第83話 百十歳、夜に誘拐されます
――カチリ。
小さな音がした。
ほんの僅かな音だった。
静まり返った孤児院でなければ、聞き逃していただろう。
だが。
セレナの目は、一瞬で開いた。
「…………」
身体を起こす。
同時に、枕元へ置いていた短剣を掴んだ。
隣を見る。
レオンは眠っている。
小さな胸が、規則正しく上下していた。
セレナは音を立てず、ベッドから降りる。
短剣を構えた。
――ギィ……。
扉が。
ゆっくりと開いた。
「……誰?」
返事はない。
月明かりが差し込む。
その中に、一人の人影が立っていた。
「…………」
セレナの目が細くなる。
「エミリー……?」
「…………」
「どういうこと?」
エミリーは答えなかった。
ただ、少しだけ困ったように笑った。
「もう、私……」
ぽつり。
「壊れてしまうかも」
「…………」
「自分でも、分かるの」
セレナは短剣を下ろさない。
「何の話?」
「だからね」
エミリーが微笑む。
「壊れてしまう前に、望みを叶えたいの」
「望み?」
セレナの声が低くなる。
「私たちの家に侵入すること?」
「ううん」
エミリーが首を横に振った。
「違うの」
そして。
「私は――」
ピクリ。
エミリーの指が動いた。
それが。
開戦の合図だった。
銀色の光が走る。
「っ!」
セレナの短剣が閃いた。
甲高い音。
一つ。
二つ。
三つ。
次々と飛来する刃を弾き落とす。
「エミリー!!」
セレナが踏み込もうとした。
その時。
「――っ!?」
脚に痛みが走った。
床すれすれを飛んできた、もう一本。
短い刃がセレナの脚を掠めていた。
「くっ……!」
傷は浅い。
こんなもの。
セレナにとっては、怪我と呼ぶほどのものですらない。
だが。
「…………え?」
身体が揺れた。
視界が滲む。
急激に。
瞼が重くなっていく。
「……なに……これ……」
エミリーが静かに答えた。
「眠り薬」
「…………!」
セレナがベッドを見る。
レオン。
「だ……め……」
足が動かない。
エミリーがセレナの横を通り過ぎる。
「待っ……」
止めなければ。
なのに。
身体が言うことを聞かない。
エミリーはベッドの前に立った。
眠っているレオンを見下ろす。
「…………」
その表情が。
僅かに緩んだ。
そっと手を伸ばす。
壊れ物でも扱うように。
レオンの身体を抱き上げた。
レオンは起きなかった。
小さく身じろぎし。
そのまま眠り続ける。
「やめ……て……」
セレナが手を伸ばす。
届かない。
エミリーはレオンを胸元へ抱いた。
そして。
セレナを見た。
「私ね」
「…………」
「父親になりたいの」
「……え……?」
「ずっと」
エミリーは微笑んだ。
「なりたかったの」
「レオ……ン……を……」
連れていかないで。
そう叫びたい。
だが。
声にならない。
エミリーが歩き出す。
古い孤児院の床。
歩けば必ず軋むはずなのに。
不思議なほど。
音がしない。
「ま……て……」
遠ざかっていく。
「ま……」
扉が閉まる。
レオンが。
レオンが。
レオンが。
レオンが。
レオンが。
レオンが――!!
「…………っ!」
セレナは震える手で短剣を握り直した。
そして。
迷わなかった。
刃を。
自分の腿へ突き立てた。
「――――ッ!!!!」
激痛。
消えかけていた意識が、一瞬だけ引き戻される。
眠気が消えたわけではない。
身体もまともに動かない。
それでも。
声だけは。
「レオン!!!!!!!!」
戻った。
セレナの絶叫が。
静かな夜の孤児院に響き渡った。
◇
「セレナさん!?」
「何!?」
「どうしたの!?」
孤児院が一瞬で騒がしくなる。
扉が開く。
ライカが飛び込んできた。
その後ろから、目を覚ました子供たちが顔を覗かせている。
「セレナさん!?」
ライカの顔色が変わった。
「血……!」
「ライカ!」
セレナが叫ぶ。
「は、はい!」
「みんなをお願い!」
「え?」
「誰も外に出さないで! 絶対に!」
「でも、その怪我――」
「お願い!!」
「……っ!」
ライカが息を呑む。
「分かりました!」
その時。
ドンッ!!
大きな音。
廊下の奥からではない。
孤児院の裏。
納屋の方角だった。
「セレナ!」
ガルドが飛び込んでくる。
その巨体が扉を塞ぐほどだった。
どうやら着替える時間すら惜しかったらしい。
「何があった!」
「レオンが……!」
セレナが床へ手をつく。
「レオンが連れていかれた!」
「誰に」
「エミリー!」
ガルドの目が鋭くなる。
「いつだ」
「今……!」
「どちらへ行った」
「分からない……でも……」
セレナが顔を上げた。
「ガルド」
「なんだ」
「あの教会へ連れて行って」
「教会?」
「今日行ったところ!」
「…………」
「お願い!」
ガルドは一瞬だけセレナを見る。
血。
脚の傷。
焦点の定まらない目。
「立てるか?」
「立てる!」
セレナが立ち上がろうとする。
膝が崩れた。
「…………」
「立てる!!」
「立てていない」
「うるさい!!」
「背負う」
「え?」
ガルドがセレナへ背を向けた。
「早く乗れ」
「でも――」
「レオンを追うのだろう」
「…………!」
「なら時間を使うな」
セレナは何も言わず、ガルドの背中へしがみついた。
「掴まっていろ」
「……うん」
「行くぞ」
「ガルド」
「なんだ」
セレナの指に力が入る。
「お願い……」
声が震えた。
「急いで……!」
「ああ」
ガルドが走り出した。
◇
『――起きろ』
…………。
『起きろ』
…………。
『レオン』
…………なんじゃ。
『起きろ!!』
(――っ!?)
わしは目を開いた。
まず感じたのは、風だった。
(……なんじゃ?)
夜風が顔へ当たっている。
身体も揺れていた。
(…………)
おかしい。
わしは確か。
セレナの隣で眠っていたはずじゃ。
では。
なぜ。
外におる?
「……あ」
声がした。
聞き覚えのある声。
顔を上げる。
「起きた?」
(…………)
エミリー?
わしはエミリーに抱かれていた。
(…………)
なんでじゃ?
「大丈夫よ」
エミリーが笑った。
優しい笑顔だった。
「何も心配しなくていいからね」
(いや)
待て。
何が起きておる?
なぜわしはエミリーに抱かれておる?
セレナは?
ここはどこじゃ?
「セレナはね」
(!)
「居なくなっちゃったの」
(…………は?)
エミリーは笑っている。
「だから」
わしを抱く腕に少しだけ力が入った。
「今日からは私が親ね」
(…………)
…………。
………………。
(何を言っとるんじゃ、こやつは!?)
全く意味が分からん!
寝起きだからではない!
百十年生きてきたわしの経験を総動員しても、何一つ理解できん!
(雷葬獣!)
『なんだ』
(なんだ、ではないわ! これはどういう状況じゃ!?)
『見たままだ』
(見たままで理解できるなら聞いとらん!!)
エミリーの腕の中でもがこうとする。
だが。
『暴れるな』
(なぜじゃ!)
『今、お前がどこにいるか分かっているか?』
(え?)
『下を見ろ』
下?
わしはエミリーの腕から、恐る恐る顔を覗かせた。
「…………」
屋根。
(…………)
屋根?
さらにその下。
暗い路地。
(…………は?)
エミリーは。
わしを抱いたまま。
民家の屋根の上を走っていた。
(な、な、な……!)
隣の屋根へ移る。
その瞬間。
エミリーはわしの頭を胸元へ抱き込んだ。
着地。
ほとんど衝撃を感じない。
そして、また走る。
(なんで屋根の上なんじゃあああああ!?)
『追跡を避けているのだろう』
(冷静に分析しとる場合か!)
『騒ぐな』
(騒ぐわ!!)
わしは必死に考える。
(雷葬獣! どうにかならんか!?)
『どうにか、とは?』
(こやつから逃げるんじゃ! 雷でも何でもいい!)
『我が力を貸せば可能だ』
(なら早く――)
『だが』
(なんじゃ!?)
『その者が手を離したら、お前はどうする?』
(…………)
え?
『もう一度、下を見ろ』
見た。
屋根。
路地。
高さ。
(…………)
『ここから落ちれば、今のお前の身体では助からん』
(…………)
冷たい風が頬を撫でた。
(ま、まずいのう……!)
雷葬獣の力でエミリーを攻撃する。
驚いて手を離す。
わし、落ちる。
死ぬ。
では弱い雷なら?
(気絶させる程度ならどうじゃ!?)
『屋根の上で気絶させるのか?』
(…………)
『お前を抱いたまま』
(…………)
それも駄目じゃ。
「寒い?」
(え?)
エミリーがこちらを見た。
「もう少しだからね」
わしの身体を自分の胸へ寄せる。
風が当たらないように。
包み込む。
「大丈夫」
優しい声だった。
「絶対に落とさないから」
(…………)
分からん。
本当に。
何一つ分からん。
やっていることは、どう考えても誘拐じゃ。
セレナからわしを奪い。
屋根の上を逃げている。
なのに。
わしを抱くその手だけは。
恐ろしいほど、優しかった。
◇
「ガルド……!」
「喋るな」
「もっと……速く……!」
「これ以上揺らせば、お前が持たない」
「私はいいの!」
「よくない」
「レオンが……!」
「分かっている!」
夜道をガルドが駆ける。
背中にはセレナ。
セレナの意識は何度も遠のきかけていた。
それでも。
目だけは閉じなかった。
「レオン……」
「…………」
「待ってて……」
ガルドが速度を上げる。
「絶対……」
セレナは前を見る。
「絶対に行くから……!」
◇
しばらくして。
エミリーが屋根から降りた。
(……着いたのか?)
周囲を見る。
人気のない場所だった。
その先。
月明かりの中に。
一つの建物が見える。
(……教会?)
古びた教会。
エミリーは迷うことなく、その扉へ向かった。
扉を開く。
中へ入る。
暗い。
月の光だけが、古い長椅子を照らしている。
エミリーはそのまま奥へ進んだ。
そして。
祭壇の前で足を止めた。
「…………」
わしも。
その先を見る。
一枚の絵。
女が描かれている。
柔らかく微笑み。
その腕に。
幼い子供を抱いていた。
(…………)
子を抱く女。
その絵の前で。
エミリーもまた。
わしを抱いている。
「…………」
エミリーは、しばらく絵を見上げていた。
何を考えているのか。
わしには分からない。
やがて。
「ねえ、レオン」
(……なんじゃ)
当然。
わしの口から出るのは、
「あぅ」
だけだった。
それでも。
エミリーは嬉しそうに笑った。
「家族になろうね」
(…………)
その笑顔は。
今まで見たエミリーの中で。
一番。
幸せそうに見えた。




