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第82話 百十歳、祈る男を見ます

 古い教会は、町の外れにひっそりと建っていた。


 石造りの壁は黒ずみ、ところどころ蔦に覆われている。


 かつては多くの人が祈りを捧げた場所なのだろう。


 だが今は、石段の隙間から雑草が伸び、重たい木の扉にも長い年月を感じさせる傷が刻まれていた。


「ここかい?」


 マルタが教会を見上げる。


「うん」


 セレナが頷いた。


「昔からある教会なの。今はほとんど使われてないけど」


「エドガーはここに?」


「いるかもしれない」


 そう答えたセレナの声は、どこか硬い。


 ガルドは何も言わず、二人の後ろに立っている。


 セレナが扉へ手を掛けた。


 ゆっくりと押す。


 ギィィ……。


 古びた蝶番が低い音を響かせた。


 三人は教会へ入った。


 薄暗い。


 高い位置にある窓から差し込む僅かな光が、空気中を漂う埃を照らしている。


 長椅子。


 燭台。


 祭壇。


 その奥に、一枚の大きな絵が掛けられていた。


 柔らかな表情を浮かべる一人の女。


 腕には、幼い子供が抱かれている。


 母と子。


 古い宗教画なのだろう。


 そして。


 その絵の前に、一人の男がいた。


 跪き。


 両手を組み。


 頭を垂れている。


 金色の髪。


「……いたね」


 マルタが小さく呟いた。


 エドガーだった。


 扉の音には気付いているはずだ。


 それでもエドガーは振り返らない。


 ただ一人。


 子を抱く女の絵の前で、静かに祈り続けている。


 三人が近づいていく。


 やがてマルタが足を止めた。


「ちょっといいかい?」


 返事はない。


「エドガー……さん?」


 組まれていた指が僅かに動いた。


 エドガーがゆっくりと顔を上げる。


 そして、肩越しに三人を見た。


「……何用だ」


「少し聞きたいことがあってね」


「…………」


 エドガーが立ち上がった。


 こちらへ完全に振り返る。


 その視線がマルタを通り。


 ガルドを通り。


 最後に、セレナで止まった。


「……セレナ」


「久しぶり、と言っていいのかな。エドガー」


 ほんの僅か。


 エドガーの目が細くなった。


「ああ」


 一拍置いて。


「『久しぶり』だな」


「…………」


 マルタが二人を見比べる。


 セレナは何も言わなかった。


 しばしの沈黙の後。


「エドガー」


 セレナが口を開いた。


「聞きたいことがあるの」


「なんだ?」


「四日前」


 エドガーを見る。


「あなたは何をしていた?」


「……どういうことだ?」


「いいから答えて」


「…………」


 エドガーはしばらくセレナを見つめていた。


 やがて答える。


「森へ行っていた」


「森?」


「薬草を摘みに」


 セレナの視線が下がる。


 エドガーの腕。


 服の隙間から、白い包帯が見えていた。


「……その腕の傷は、その時に?」


 エドガーも自分の腕へ目を落とす。


「ああ」


「何で?」


「枝だ」


「…………」


「森の中で引っ掛けた」


 エドガーは淡々としていた。


「それだけだ」


「…………」


 セレナが黙る。


 昨日。


 エミリーも言っていた。


 三日前に森で枝に引っ掛けた、と。


 そして今日は、その翌日。


 ならば四日前。


 同じ日。


 同じ理由。


 同じ腕。


「……そう」


 セレナが小さく息を吐いた。


「分かった」


「それだけか?」


「……うん」


 エドガーはしばらくセレナを見つめていた。


「なら帰ってくれ」


「待ちな」


 マルタだった。


「…………」


 エドガーの視線がマルタへ向く。


「まだ何か?」


「ああ」


「マルタ」


 セレナが止めようとする。


 だがマルタは構わなかった。


「エミリーさんとは、どういう関係なんだい?」


「…………」


 空気が変わった。


 エドガーの目が鋭くなる。


 明らかに。


 今までとは違った。


 だが、マルタは臆さない。


「近所の人から聞いたよ。あんた、エミリーさんの家に出入りしてるそうじゃないか」


「ちょ、ちょっとマルタ!」


「…………」


 エドガーは何も答えない。


 ただマルタを睨んでいる。


「どういう関係なんだい?」


「……人の生活を覗き見るのは、趣味が悪いと思わないか?」


「思うよ」


 マルタは即答した。


「なら、それ以上踏み込むのはやめることだ」


「…………」


「俺とエミリーがどういう関係だろうと、お前たちには関係ない」


「そうかい」


「そうだ」


 エドガーはそれだけ言うと。


 三人へ背を向けた。


 祭壇の前へ戻る。


 再び跪き。


 両手を組んだ。


「…………」


「…………」


 静寂が戻ってくる。


 マルタはしばらく、その背中を見つめていた。


 だが。


「……邪魔したね」


 それ以上は聞かなかった。


     ◇


「私が聞くって言ったでしょ!!」


 教会を出た瞬間だった。


 セレナがマルタへ詰め寄る。


「あんたは優しすぎるんだよ!」


「そんなことない!」


「ある!」


「ない!」


「あるよ!」


「ない!!」


「落ち着け、二人とも」


 ガルドの低い声が割って入った。


「私は最初から冷静よ!!」


「どこがだ」


「なんで!?」


「今、自分がどれだけ大きな声を出しているか分かっているか?」


「…………」


 セレナが黙る。


「マルタもだ」


「私は冷静だよ」


「そうは見えない」


「…………」


 今度はマルタが黙った。


 ガルドは二人を交互に見る。


「なんにせよ、俺たちは役人ではない」


「…………」


「エドガーから何か被害を受けたわけでもない」


 淡々と続ける。


「むしろ、今の状況だけを見れば、祈りを邪魔されたエドガーが被害者だとも言える」


 ピクリ。


 マルタの肩が動いた。


「……随分と言ってくれるじゃないか」


「事実だ」


「…………」


「人が一人死んでいる。気になることを調べるなとは言わない」


 ガルドは続ける。


「だが、今すぐ答えを出せる問題とは限らない」


「…………」


「少し冷静になろう。マルタも、セレナも、な」


「だから私は冷静だって――」


「ならば」


 ガルドがセレナを見る。


「なぜレオンを置いてきた?」


「え……?」


 セレナが固まった。


「それは……」


 視線がマルタへ動く。


「マルタが、今日は置いていけって……」


「それだけか?」


「…………」


「俺の知るセレナは、レオンを絶対に置いて行こうなどとしない」


「…………」


「何があってもだ」


 セレナの口が閉じる。


「それなのに今日は置いてきた」


「…………」


「何か思うところがあるのだろう?」


 セレナは答えない。


「レオンに聞かせたくないのか」


 ガルドが続ける。


「それとも」


 一拍。


「関わらせたくない何かがあるのか」


「…………」


 セレナが俯いた。


 マルタの表情も変わる。


 さっきまでの苛立ちが消えていた。


「……セレナ」


「…………」


「悪かったよ」


 セレナが顔を上げる。


「え?」


「私も性急だったかもしれないね」


「マルタ……」


「気になることがあれば、すぐ確かめたくなる。悪い癖だ」


「……私もごめん」


「何がだい?」


「エミリーとエドガーのこと」


 セレナが小さく言った。


「私、知ってることがあるのに……」


「言わなくていいよ」


「でも」


「本人が話してほしくないことなんだろ?」


「…………うん」


「だったら勝手に話すことじゃない」


 マルタが肩を竦める。


「私だって、それくらいは分かってるさ」


「…………」


「ただし」


 マルタの声が少しだけ低くなる。


「事件に関係してるなら話は別だ」


「…………」


「その時は、一人で抱え込むんじゃないよ」


「……うん」


「今、解決できる問題とは限らない」


 ガルドが言った。


「一度帰ろう」


「…………」


「レオンも待っている」


 その名前を聞いた瞬間。


 セレナの顔が僅かに緩んだ。


「……うん」


「帰ろう」


 マルタも頷く。


 セレナがガルドを見る。


「ありがとう、ガルド」


「お役に立てて何よりだ」


「本当にしっかりしてるね、あんた」


 マルタが感心したように言う。


「そう?」


「セレナよりよっぽど落ち着いてるじゃないか」


「ちょっとマルタ!!」


「なんだい。事実だろ?」


「私だってちゃんとしてるわよ!」


「さっきまで怒鳴ってた奴が言う台詞じゃないね」


「マルタだって怒鳴ってたでしょ!」


「俺から見れば、どちらも同じだ」


「「…………」」


 二人が同時に黙った。


「そういや」


 マルタがガルドを見る。


「あんた、何歳だい?」


「俺か?」


「ああ」


「二十歳だ」


「…………」


「…………」


 セレナとマルタが固まった。


「……今、何て?」


 マルタが聞き返す。


「二十歳だ」


「…………」


「…………」


 また沈黙。


「マルタ」


「言うんじゃないよ」


「まだ何も言ってない」


「分かるんだよ」


「でも私たち……」


「言うな」


「二十歳に宥められ――」


「言うなって言ってるだろ!!」


「マルタが聞いたんでしょ!!」


「聞くんじゃなかったよ!!」


 ガルドが首を傾げた。


「年齢が何か?」


「「何でもない!!」」


 二人の声が綺麗に重なる。


「そうか」


 ガルドは、それ以上追及しなかった。


 セレナは百年以上。


 マルタは六十年近く。


 それぞれ十分すぎるほど長い人生を歩んできた。


 そんな二人が。


 二十歳の青年に宥められた。


 その事実を。


 二人はほんの少しだけ。


 悔しく思ったのだった。


     ◇


 三人の声が遠ざかっていく。


 やがて。


 完全に聞こえなくなった。


 古い教会に、再び静寂が戻る。


 祭壇の前。


 エドガーは一人。


 まだ跪いていた。


「…………」


 ゆっくりと目を開く。


 その視線の先。


 古びた絵の中で。


 一人の女が、幼い子供を抱いている。


「…………」


 エドガーは何も言わなかった。


 ただ。


 いつまでも。


 その母と子を見つめていた。

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