第80話 百十歳、あの人のことを聞きます
詰所から戻った日の夕方。
孤児院の食堂には夕食の匂いが漂い始め、厨房からは鍋の煮える音と、リーナとカラリンの声が聞こえていた。
「こ~れ~、ど~こ~に~お~く~の~?」
「パンの隣」
「こ~こ~?」
「もう少し右」
「こ~こ~?」
「行きすぎ」
「む~ず~か~し~い~」
「何がよ」
呆れたようなリーナの声に、カラリンが楽しそうに笑う。
食堂の隅では、ガルドが椅子に腰掛け、膝の上に置いた大剣を手入れしていた。柔らかな布を巨大な刀身へゆっくり滑らせる手つきは、大きな身体からは想像できないほど丁寧だ。
あの大剣には、土の精霊ノームが宿っている。
普段から口数の少ない男ではあるが、相棒とも呼べる武器を扱う時には、几帳面な性格がよく表れている気がした。
(あの図体で、随分と繊細な手つきじゃのう)
『武器を大切にするのは良いことだ』
(お主まで会話に入ってくるんじゃない)
『聞こえたから答えただけだ』
(便利な耳じゃのう。耳があるのか知らんが)
そんなやり取りをしているわしは、食卓の椅子に座らされていた。
正確には、座らされているというより固定されている。
背中には丸めた布。右にも左にも布。前へ倒れないよう、セレナが何度も位置を調整した末の、至れり尽くせり仕様である。
「これなら大丈夫ね」
「あぅ」
「ちょっとだけ待っててね」
そう言い残して厨房へ向かったセレナだったが、数歩進んだところで振り返った。
目が合う。
また歩く。
そして、また振り返る。
(おるぞ。わしは急に消えたりせん)
「セ~レ~ナ~」
「何?」
「レ~オ~ン~、に~げ~な~い~よ~」
「分かってるわよ!」
厨房から笑い声が上がった。
マルタも食卓に頬杖をつきながら、面白そうにセレナを眺めている。
「随分とまあ、べったりになったもんだね」
「普通でしょ?」
「そうかい?」
「普通よ」
「レ~オ~ン~が~、く~しゃ~み~す~る~と~」
カラリンが言いかけたところで、食堂の隅から低い声が飛んできた。
「すっ飛んで来る」
ガルドだった。
大剣を拭う手は止まっていない。
「ガルド!」
「事実だ」
「もう! 普通でしょ!」
(四面楚歌じゃな)
もっとも、わしに関する話なので、どちら側につけばいいのか分からんが。
頬を膨らませたセレナが厨房へ戻ると、マルタはしばらくその背中を見送り、それから口元の笑みを少しだけ緩めた。
「……まあ、ああいうところは昔からか」
「そ~う~な~の~?」
「ああ。自分のことより、他人のことを先に気にする子だったよ」
マルタは湯気の立つ茶を一口飲んだ。
「昨日だってそうだろ。自分が狙われるかもしれないと言われているのに、真っ先に考えたのは孤児院の子供たちだった」
「セ~レ~ナ~ら~し~い~」
カラリンが何度も頷く。
「セ~レ~ナ~、ひ~と~の~こ~と~、よ~く~み~て~る~」
「へえ?」
マルタが顔を向けた。
「何かあったのかい?」
「しょ~う~きゅ~う~し~け~ん~の~と~き~」
「昇級試験?」
「う~ん~」
カラリンは手にしていた皿を食卓へ置き、帽子のつばに指を掛けた。
「あ~の~と~き~、わ~た~し~、ま~ほ~う~つ~か~え~な~く~な~っ~た~」
「そんなことがあったのかい?」
マルタが眉を上げる。
「せ~い~れ~い~、お~こ~っ~ち~ゃ~っ~て~」
「何をやったんだい、あんた」
「し~か~た~な~か~っ~た~の~! ワ~タ~イ~ガ~ー~、い~っ~ぱ~い~き~た~か~ら~!」
「ワータイガー?」
「う~ん~」
「それで無茶な力の借り方をしたのかい?」
「…………」
カラリンは露骨に目を逸らした。
「まあ、いいさ。それで?」
「ま~ほ~う~、つ~か~え~な~く~な~っ~て~。そ~の~あ~と~、ワ~イ~バ~ー~ン~、き~た~」
「……待ちな」
マルタがカップを置いた。
「昇級試験だったんだよね?」
「そ~う~」
「ワータイガーに襲われた後、ワイバーンまで出てきた?」
「そ~う~」
「……よく帰ってきたね、あんたたち」
(まったくじゃ)
今になって並べてみると、昇級試験というより生存試験である。
カラリンはそんなマルタの反応に少し笑ったものの、やがて帽子のつばを握ったまま、ぽつりと続けた。
「わ~た~し~、あ~の~と~き~……な~に~も~で~き~な~い~と~お~も~っ~た~」
魔法が使えない。
空を飛ぶワイバーンを前にして、カラリンには攻撃する術がなかった。
わしも覚えている。
何度呼びかけても精霊は応えてくれず、カラリンは泣きそうになりながら杖を握っていた。
「で~も~、セ~レ~ナ~」
カラリンの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「わ~た~し~た~ち~、い~い~コ~ン~ビ~じゃ~な~い~? って~」
あの夜。
魔法を使えなくなったカラリンと、弓を傷めたセレナ。
二人でワイバーンを見上げながら、セレナは確かにそう言った。
「い~っ~て~く~れ~た~」
マルタが静かに目を細める。
「わ~た~し~、な~に~も~で~き~な~か~っ~た~の~に~」
すると、それまで黙っていたガルドが、大剣から目を離さないまま口を開いた。
「セレナは、そう思っていなかった」
「…………」
「そういうことだろう」
カラリンが目を丸くする。
しばらくして、その口元に小さな笑みが浮かんだ。
「そ~う~か~も~」
「ガルド」
マルタが感心したように声を掛ける。
「たまにはいいこと言うじゃないか」
「たまに?」
「そこは気にするんだね」
ガルドは答えず、何事もなかったように大剣を磨き始める。
「でも」
マルタは笑いを収めると、カラリンへ視線を戻した。
「その話は初めて聞いたけど、確かにセレナらしいよ」
昇級試験で何があったのか、マルタは知らなかった。
それでも、カラリンの話に出てきたセレナの姿は、彼女が昔から知る女とよく重なったのだろう。
「ガルドは?」
「なんだ」
「あんたから見たセレナは、どんな奴だい?」
刀身の上を滑っていた布が止まった。
ガルドは少し考えてから答える。
「自分で決める」
「何を?」
「自分がどうするか」
相変わらず言葉が少ない。
マルタが黙って続きを待っていると、ガルドは仕方なさそうに言葉を足した。
「罪人を護送した時もそうだった。危険なことが起きても、誰かが指示するのを待っていなかった」
そこで一度、大剣へ視線を戻す。
「必要なら動く。危険なら戦う。誰かが危なければ、そっちへ行く。それに、周りをよく見ている」
マルタが笑った。
「カラリンと同じことを言うんだね」
「そ~う~!」
「そうなのか」
「う~ん~!」
「そうか」
(本当にぶれん男じゃな)
今度はカラリンがマルタを見る。
「マ~ル~タ~は~?」
「私?」
「セ~レ~ナ~、ど~う~お~も~う~?」
マルタはすぐには答えなかった。
厨房から聞こえる包丁の音。
リーナとセレナの声。
廊下を駆けていく子供たちの足音。
そんな孤児院の日常へ耳を傾けるように、しばらく黙っていた。
「……あの子はね」
やがて、静かに口を開く。
「誰かに居場所を与えてもらった子じゃない」
「い~ば~しょ~?」
「ああ」
故郷を追放され、耳を切られ、帰る場所まで失った。
それでもセレナは、生きることをやめなかった。
「ここに住めと誰かに言われたわけじゃない。孤児院を作れと言われたわけでも、子供たちを集めろと命じられたわけでもない」
マルタは食堂を見渡した。
「全部、自分で選んだんだよ」
古い壁。
使い込まれた食卓。
厨房から漂う夕食の匂い。
そこかしこから聞こえてくる、子供たちの声。
「誰かから居場所を貰ったんじゃない。自分で見つけて、自分で作って、守ってきた」
その言葉が、妙に胸へ残った。
「だから、あの子は自分がどう生きるかを他人に決めさせない」
(自分で作った居場所、か)
わしは前世で、何でも自分で作ってきたつもりだった。
会社も、財産も、自分の立場も。
今世のわしは違う。
何も持たずに生まれ、この孤児院へ拾われた。
家も。
飯も。
そして、家族まで。
セレナが作ったこの場所で、わしは随分と多くのものを貰っている。
(……こういう人生も、悪くないのう)
「何の話してるの?」
突然、厨房から声が飛んできた。
一斉に振り返ると、入口にセレナが立っている。
「随分楽しそうだけど?」
「何でもないよ」
「な~ん~で~も~な~い~」
「お前の話だ」
「ガルド!」
「事実だ」
(こやつ、隠し事には絶望的に向いておらんな)
マルタが額を押さえた。
「ガルド。あんた、もう少し空気ってものを――」
「そ~れ~よ~り~」
カラリンがにやにやしながらセレナを見る。
「何よ」
「セ~レ~ナ~」
「だから何?」
「さ~い~き~ん~、レ~オ~ン~に~、べ~っ~た~り~」
「なっ!?」
セレナの顔が見る間に赤くなった。
「そんなことないわよ!」
「あるね」
「ある」
「ガルドまで!?」
その時だった。
「はくちゅん」
不意に、わしの鼻から小さなくしゃみが飛び出した。
「レオン!? 大丈夫!?」
セレナの顔が、ものすごい勢いでこちらを向く。
「…………」
「…………」
全員が黙った。
わしも黙った。
「あぅ」
何となく声だけ出してみる。
「ほら!」
最初に吹き出したのはマルタだった。
カラリンも笑い出し、リーナまで厨房の奥で肩を震わせている。
「何で笑ってるのよ!」
セレナだけは納得できないらしい。
昨日、一人の男が死んだ。
犯人は今もどこかにいて、その目的さえ分からない。
それでも、この家にはこうして笑い声がある。
わしは、それでいいと思った。
◇
翌日の昼前。
玄関の扉が叩かれた。
「セレナ。いる?」
聞き覚えのある女の声に、セレナが顔を上げる。
「あれ? エミリー?」
扉を開くと、先日、グレゴリー町長の死を知らせに来た短い金髪の女が立っていた。
「こんにちは」
「どうしたの?」
「町に行こうと思って。あなたも何か欲しいもの無い?」
「ああ、そうだった」
セレナが手を打つ。
「塩と布を買わないと」
「なら、一緒に行かない?」
「うん。ちょっと待ってて」
そう答えたセレナが振り返る。
そして。
わしを見る。
「…………」
(その間は何じゃ)
「レオンも――」
「連れていくんだろ?」
後ろからマルタが先回りした。
「いいでしょ!」
「まだ何も言ってないよ」
「顔が言ってる!」
(昨日から随分と弄られるようになったのう)
そんなわけで、わしも当然のように同行することになった。
◇
「ここ、まだあるのね」
町へ入ると、エミリーが通り沿いの古びた店を見上げた。
「あるわよ。店主さんは息子さんに代わったけど」
「昔、ここでセレナが――」
「それ言わなくていいから」
「まだ何も言ってないじゃない」
「絶対ろくなことじゃないでしょ」
「失礼ね」
二人が笑う。
先日のやり取りだけでは分からなかったが、随分と昔からの知り合いらしい。
店を巡っている間にも、エミリーは時折、昔のセレナの話を持ち出した。そのたびにセレナが慌てて止めようとし、結局は二人で笑っている。
(思っていたより、ずっと近い間柄だったんじゃな)
少なくとも、ただの顔見知りではない。
布を買い、塩を買い、ついでにセレナは子供たちへの小さな菓子まで買った。
「甘いわね」
エミリーが呆れたように言う。
「何が?」
「子供たちに」
「いいじゃない。少しくらい」
「昔からそうだった」
「そう?」
「そうよ」
そんな会話をしながら布屋を出た時だった。
セレナの抱えていた荷物が大きく傾く。
「あっ」
「危ない」
エミリーが咄嗟に手を伸ばした。
荷物を支えた拍子に、袖が肘の方へずれる。
その下から、白い布が覗いた。
「…………」
セレナの視線が止まる。
「エミリー」
「ん?」
「その腕」
エミリーも自分の腕へ目を落とした。
「ああ。これ?」
「怪我したの?」
「ちょっとね」
「どうしたの?」
「森で枝に引っ掛けたのよ」
何でもないことのように答え、袖を戻そうとする。
包帯の隙間から覗いた傷は、もう血こそ流れていないものの、まだ新しい。
「大したことないわ。もう塞がってるから」
「いつ怪我したの?」
「え?」
エミリーが一度だけ瞬きをした。
「……三日前だったかな」
「三日前?」
「多分ね。最近、色々あって日にちの感覚が曖昧で」
セレナは答えなかった。
ほんの少しだけ、エミリーの顔を見つめる。
「何?」
「……ううん」
やがて首を振った。
「ちゃんと薬は塗った?」
「塗ったわよ」
「ならいいけど」
それで会話は終わった。
けれど。
わしの頭には、昨日の役人の言葉が蘇っていた。
――刃が当たったのなら、しばらく傷は残るはずです。
(……腕の傷)
三日前。
それは。
グレゴリー町長が殺された夜だ。
(…………)
いや。
怪我くらい、誰でもする。
傷の形を詳しく見たわけでもない。エミリーの言うとおり、枝で切っただけかもしれない。
(……偶然、じゃよな)
胸の奥に小さなものが引っかかったまま、答えは出なかった。
◇
帰り道。
「ねえ」
エミリーが、セレナの腕の中にいるわしを見た。
「今日は、私が抱いてもいい?」
「レオンを?」
「うん」
セレナは、ほんの僅かに迷った。
それでも。
「……いいけど」
わしをエミリーへ渡す。
(そこは迷うんかい)
腕の中へ収まると、エミリーが意外そうに目を細めた。
「軽い」
(赤ん坊じゃからな)
「抱くの上手ね」
セレナが言った。
「そう?」
「うん。慣れてるみたい」
エミリーは答えず、わしの顔を覗き込んだ。
「かわいい」
「あぅ」
「ふふ」
その表情は穏やかだった。
わしを支える手つきにも危なっかしさはない。
ただ。
エミリーはしばらく、何かを確かめるようにわしの顔を見つめていた。
「セレナ」
「何?」
「この子を拾った時って、どんな気持ちだった?」
「え?」
「最初に見つけた時」
セレナは少し考えてから答えた。
「……放っておけないって思った」
「それだけ?」
「最初はね」
「じゃあ」
エミリーの腕が、ほんの少しだけわしを抱き寄せる。
「今は?」
セレナは迷わなかった。
「家族よ」
「…………」
「大事な家族」
エミリーの歩みが、ほんの一瞬だけ緩んだ。
「……そう」
すぐに歩き出す。
「家族なんだ」
「うん」
「そっか」
それ以上、エミリーは何も聞かなかった。
◇
孤児院の前まで戻ると、エミリーはわしをセレナへ返した。
「じゃあね」
「うん。エミリーも気をつけて」
「セレナも」
エミリーが手を振り、町の方へ歩いていく。
セレナは、その背中を見送っていた。
いつもより、少しだけ長く。
「あぅ?」
「ん?」
声を出すと、セレナがこちらを見る。
「どうしたの?」
(いや。それはこっちの台詞じゃ)
もちろん言葉にはならない。
セレナはもう一度だけ、遠ざかっていくエミリーへ目を向けた。
「…………」
やがて。
「……なんでもない」
そう呟いて、わしを抱き直す。
人のことをよく見ている。
昨日の夕方、カラリンとガルドは、二人とも同じようなことを言っていた。
なら。
あの時。
セレナは、エミリーを見て何を考えたのだろう。
腕の傷を見て。
その顔を見て。
それでも、それ以上は何も聞かなかった。
(…………)
分からん。
セレナが何を考えたのかも。
エミリーの傷が、本当にただの傷なのかも。
けれど。
遠ざかっていく金髪の背中を見つめながら。
胸の奥に残った小さな引っかかりだけは。
どうにも、消えてくれなかった。




