第76話 百十歳、長い旅の終わりを見届けます
リーナが黒雷石を持って雷葬獣のもとへ向かってから、それほど時間は経っていなかった。
「ピ~ィ~だ~!」
「ん?」
突然声を上げたカラリンにつられ、空を見上げる。
青空の向こうに小さな光が見えた。それはこちらへ向かって一直線に飛んできて、少しずつ鳥の形を作っていく。
「あれって……」
「ピ~ィ~!」
カラリンが嬉しそうに両手を振る。
やがて姿を現したのは、手のひらほどの小さな霊鳥。マルタの最初の使い魔、ピィだった。
「ピィ」
ピィは羽ばたきを緩め、孤児院の前へふわりと降り立つ。
「お~か~え~り~!」
カラリンは嬉しそうに駆け寄った。
「て~が~み~!」
見ると、ピィの小さな脚には紙が括り付けられている。
カラリンはそれを丁寧に取り外して開き、素早く目を走らせた。
「…………」
一瞬だけ動きを止めたかと思えば。
「し~しょ~! も~う~す~ぐ~か~え~っ~て~く~る~!」
「おお」
その場でぴょんぴょんと小躍りを始める。
「そんなに嬉しいの?」
セレナが笑う。
「う~れ~し~い~!」
そりゃ、そうじゃろう。
王都へ行ってからというもの、マルタには随分と働いてもらった。
いや、王都だけではない。
ここまで何度、あやつに助けられたことか。
(マルタがおらんかったら、どうにもならん局面も多かったのう)
『そうだな』
頭の中に雷葬獣の声が響く。
(会社なら、特別賞与ものじゃ)
『なんだ、それは』
(特別賞与か?)
『そうだ』
(特別に大きな成果を上げた者に出す賞与じゃ。……まあ、そのまんまじゃな)
『なるほど』
雷葬獣は少し考えるように黙り込んだ。
『そういうものも、考えなければならないのだな』
(ん?)
なんじゃ、今の反応。
(お主、人間社会に興味が出てきたんか?)
『なぜだ』
(いや。前なら聞いて終わりじゃったろ)
『知識は、あって困るものではないのだろう』
(……まあ、そうじゃが)
最近、こやつは妙に人間社会へ興味を持ち始めている気がする。
(お主、どこへ向かっとるんじゃ)
『知らん』
(知らんのかい)
思わず笑ってしまった。
そんな取り留めのない時間がしばらく続き、日が少し傾き始めた頃だった。
「し~しょ~!」
カラリンが突然立ち上がる。
孤児院の入口へ目を向けると、見慣れた人影がこちらへ歩いてきていた。
「し~しょ~! お~か~え~り~!」
カラリンが勢いよく駆け出す。
「ただいま」
帰ってきたマルタは少し疲れているようだったが、それでもいつものように笑っていた。
(ようやく帰ってきたか)
わしもほっとする。
しかし。
「…………?」
マルタの後ろに、もう一人いる。
ゆっくりと歩いてくる人影を見て、カラリンが声を上げた。
「お~じ~い~さ~ん~!」
あの老人だった。
王都の地下で出会った、古いホムンクルス。
百年以上もの間、たった一つの命令を抱えて生き続けてきた人工生命。
「…………」
老人が一歩進む。
止まる。
そして、また一歩。
その動きは以前にも増してぎこちなかった。足を引きずり、腕は僅かに震えている。
明らかに、王都で見た時よりも悪くなっていた。
「マルタ」
セレナが小さく呼ぶ。
「その人……」
「ああ」
マルタは一度老人へ目を向けてから、静かに答えた。
「王都との話はついた」
そう言って、少しだけ言葉を選ぶ。
「こいつが最後に行きたい場所へ行くことだけは、認めてもらったよ」
「最後に……?」
ロイが聞き返す。
マルタはすぐには答えなかった。
その表情だけで、嫌な予感がした。
「もうすぐ、稼働限界を迎える」
「…………」
空気が変わる。
「か~ど~う~げ~ん~か~い~?」
カラリンのいつもの伸びた声も、今は少し震えていた。
「ど~う~に~も~な~ら~な~い~の~?」
「…………」
マルタは目を伏せる。
「古の技術だ。私には、どうしようもない」
「し~しょ~で~も~?」
「ああ」
短い答えだった。
その時、老人がまた一歩前へ出た。
足がもつれる。
「っ!」
身体が傾き、その場に膝から崩れ落ちた。
「おじいさん!」
ロイが駆け寄ろうとする。
セレナも手を伸ばした。
けれど、その前に静かに歩み出た者がいた。
ライカだった。
老人の前で膝をつき、同じ高さからその顔を見つめる。
暫く、二人は何も言わずに見つめ合っていた。
「あなた、私と同じですか?」
老人は何も答えない。
ただ、ライカを見つめている。
「私は、ライカと申します」
ライカは胸に手を添えた。
「私も、人の手によって造られました」
老人の目が僅かに動く。
「考えることができます。笑うことも、怒ることも、悲しむこともできます」
そこで、ライカは柔らかく微笑んだ。
「そして、誰かを大切に思うこともできます」
「…………」
「あなたも、そうなのですね」
返事はない。
それでも、ライカは続けた。
「あなたは、私の先達です」
そして、静かに頭を下げる。
「よく、ここまで来てくださいました。あなたに会えて、光栄です」
「…………」
老人の目が揺れた。
やがて、深い皺の刻まれた頬を、一筋の透明なものが伝っていく。
(…………涙)
老人は、ゆっくりと視線を動かした。
目の前で微笑むライカを。
その後ろにいるロイ、ミナ、リリたちを。
セレナを。
カラリンを。
ガルドを。
そして、マルタを。
最後に、老人は孤児院を見上げた。
古く、小さな建物。
豪華でもなければ、立派でもない。
けれど、そこには人の声がある。
笑顔がある。
帰ってくる者を、待っている人がいる。
「…………」
老人の唇が僅かに動いた。
声は出ない。
何を言おうとしたのか、わしには分からない。
この老人は百年以上、たった一つの命令を抱えて歩き続けてきた。
――黒雷石を探せ。
――守れ。
その命令の本当の意味さえ分からないまま、長い、長い時を歩き続けた。
老人はもう一度、子供たちを見た。
そして、ライカを見る。
その顔が、ほんの少しだけ緩んだ。
(…………)
満足。
そんな顔に、わしには見えた。
老人はゆっくりと目を閉じる。
「…………」
ライカは両腕を伸ばし、崩れ落ちた身体をそっと抱き寄せた。
「おやすみなさい」
少し間を置いて。
「もう、大丈夫です」
誰も喋らなかった。
風が吹き、木々の葉が擦れる。
カラリンは帽子を取って胸に抱き、セレナは静かに手を合わせる。マルタは目を閉じ、ガルドも黙ったまま老人を見つめていた。
どれくらい、そうしていただろう。
「ガルド」
セレナが静かに呼んだ。
「なんだ」
「……お願い」
ガルドは老人を見つめ、何を頼まれたのかを理解したらしい。
「分かった」
それだけ答えると、老人の前に膝をつき、大きな手を地面へ添えた。
「よく耐えた。もう、耐えなくていい」
土が静かに震え始める。
「土へ還り――眠れ」
淡い光が老人を包んだ。
その身体がゆっくりと崩れ、灰色の柔らかな土へと変わっていく。
痛みも。
苦しみも。
ない。
百年以上も張り詰め続けていた糸が、ようやく解けた。
そんな穏やかな終わりだった。
◇
老人だった土は、孤児院の裏に埋めることにした。
名前を刻むものはない。
立派な墓石もない。
だからガルドが手頃な石を一つ置き、ロイたちが森で摘んできた花を、その前に並べた。
皆が、それぞれのやり方で祈りを捧げる。
(百年以上か……)
たった一つの命令を抱え、歩き続けた一人の人工生命。
(ようやく、休めるんじゃな)
「ライカ」
ロイの声。
見ると、ロイがライカの服の裾を掴んでいた。
反対側にはミナとリリもいる。
「ライカも、俺たちとおんなじだよ」
「…………」
ライカがロイを見る。
「造られたとか、そういうの……関係ないから」
ロイは上手く言葉にできないのか、少し考えながら続ける。
「一緒に飯食って、一緒に寝て、一緒に笑ってさ」
そして、照れ臭そうに笑った。
「それで、家族だろ」
「…………」
ライカの目が、僅かに潤む。
それでも、いつものように優しく微笑んだ。
「ええ。皆、一緒です」
そして、小さな墓へ目を向ける。
「……あの方も、最後は一緒になれたのでしょうか」
「なれたよ!」
ミナが即答した。
「うん!」
リリも大きく頷く。
ロイは墓の前に置かれた花を見ながら言った。
「だって、ここにいるじゃん」
「…………」
ライカは目を見開いた。
それから。
「……そうですね」
ゆっくりと笑った。
風が吹き抜け、子供たちの置いた花を優しく揺らす。
わしは、その光景を黙って見ていた。
人から生まれた者。
人の手によって造られた者。
エルフ。
ゴブリン。
リザードマン。
そして、一度百十年の人生を終え、赤ん坊として生まれ直した爺。
生まれた場所も、生まれ方も、歩いてきた道も違う。
それでも。
(帰る場所まで、違う必要はないんじゃろうな)
あの老人にとって、ここが本当に帰る場所だったのか。
それは、わしには分からない。
推測することしかできない。
じゃが。
最後のあの顔を見る限り、少なくとも孤独ではなかった。
誰かに見送られ。
誰かに抱きしめられ。
そして今、名前も知らない老人のために、こうして祈っている者たちがいる。
(それで、十分じゃ)
百十歳。
今日。
一人の老人が、百年以上に及ぶ長い旅を終えた。
そしてようやく。
誰かに見守られながら、眠りについた。




