第72話 百十歳、我が家の事情を整理します
孤児院の中へ入ると、真っ先に食欲を刺激する匂いが鼻をくすぐった。
(……なんじゃ。うまそうな匂いじゃのう)
煮込み料理だろうか。
香草と肉、それに野菜の甘い香りが混じっている。
王都から戻ってきたばかりということもあり、その匂いだけで妙に安心した。
そして。
台所から聞こえてきた声に、セレナが足を止める。
「お姉ちゃん」
「リーナ!」
鍋の前に立っていたリーナが振り返った。
白金の髪を後ろでまとめ、袖を捲り、片手には木べら。
どう見ても。
完全に台所に馴染んでいる。
「ごめんね。出迎えてあげられなくて。今、ちょっと手が離せなくて」
「それはいいけど……」
セレナが目を丸くする。
「あなた、料理できたのね」
「できるわよ」
「昔は全然やらなかったじゃない」
「百年もあれば、少しくらいは覚えるわ」
(そりゃそうじゃ)
むしろ百年あって一つも料理を覚えない方が難しい気もする。
「リーナ姉ちゃんの飯、うまいんだぜ!」
ロイが得意げに割り込んできた。
「先生のよりうまいかも!」
「ロイ」
すぐ横から。
静かな声が飛んだ。
ライカだった。
「そういうことを言ってはいけませんよ」
「え?」
「セレナさんも毎日ご飯を作ってくれているんです。比べるのはよくありません」
「……はい」
ロイがしゅんとする。
その様子を。
セレナ。
カラリン。
そしてわしが。
ほぼ同時に見つめた。
(……すっかり馴染んどるのう)
ライカはもう。
誰かに教えられたことをただ真似している感じではない。
自分で考え。
自分の言葉で。
子供たちを嗜めている。
昨日。
あの老人のことを考えていたせいか。
余計に、その姿が印象に残った。
『あれも、人が作ったのか』
雷葬獣が聞いてくる。
(そうじゃ)
『命令されているようには見えない』
(されとらんよ)
『……そうか』
それだけ言って。
雷葬獣は黙った。
こやつも。
何か思うところがあるのかもしれん。
「ところで――」
リーナが鍋をかき混ぜながら。
ようやく、こちら全体を見回した。
そして。
ガルドを見た。
「…………」
止まった。
「…………」
木べらも。
止まった。
(そりゃ驚くわな)
二メートルを超える巨大なリザードマンが。
大剣を背負って。
孤児院の玄関に立っているのだ。
「はじめまして」
リーナが慎重に口を開く。
「えーと……」
「ガルドだ」
本人が先に名乗った。
「訳あって、旅に同行させてもらっている」
「リーナです。よろしくお願いします」
「よろしく頼む」
二人は。
揃って深々と頭を下げた。
ガルドの背中の大剣が。
危うく梁へ当たりかける。
(おいおい。家を壊すでないぞ)
しかし。
ガルドは寸前で気づいたらしく、すっと身体をずらした。
(器用じゃな)
「じゃあ」
リーナが気を取り直す。
「みんな、お腹空いてるでしょ?」
「す~い~た~」
「俺も!」
「私もです」
カラリン。
ロイ。
ライカ。
ほぼ同時に答える。
「じゃあ、ご飯にしましょう」
◇
食卓には。
思っていたより豪華な料理が並んだ。
煮込み。
焼いたパン。
簡単なサラダ。
それに、香草の入ったスープ。
(……うまそうじゃのう)
わしはまだ赤子なので。
全部は食えんが。
匂いだけでも十分に腹が減る。
席に着くと。
皆、それぞれのやり方で食前の礼を済ませた。
セレナは短く祈り。
カラリンは両手を合わせ。
ロイたちは元気よく声を揃える。
「いただきます!」
ライカも、それに続いた。
ガルドだけは。
一瞬。
周囲を見回していた。
そして。
少し遅れて。
巨大な両手を合わせる。
「……いただきます」
(おお)
ちゃんと真似した。
『今のは何だ』
(食う前の挨拶じゃ)
『食物にか?』
(まあ、そんなところじゃ)
『必要なのか』
(必要かどうかではない。そういうもんなんじゃ)
『人間は難しい』
(またそれか)
食事が始まる。
ロイの言葉通り。
リーナの料理はうまいらしい。
「うまい」
ガルドが。
短く言った。
「本当?」
「ああ」
「よかった」
リーナが嬉しそうに笑う。
「ほら!」
ロイが得意げになる。
「俺の言った通りだろ!」
「ロイ」
「……はい」
またライカに止められた。
(こりゃ完全に姉ちゃん役じゃのう)
食卓には笑い声が広がった。
王都の地下では。
命をどう扱うかという話ばかりだった。
けれど。
今。
ここでは。
誰が料理した方がうまいとか。
パンを取りすぎたとか。
スープをこぼしたとか。
そんな。
どうでもいい話で。
みんなが笑っている。
(……こういうのでいいんじゃ)
心から。
そう思った。
◇
食事が終わると。
リーナが食器を片付けながら言った。
「それで」
声の調子が。
少しだけ真面目になる。
「今回の首尾はどうだったの?」
「……長くなるわよ」
セレナが答える。
「いいわ」
「聞きたい」
ロイが即答する。
「俺も!」
「わ~た~し~も~」
カラリンまで手を挙げた。
「あなたは一緒にいたでしょ」
「そ~う~だ~っ~た~」
(何をしとるんじゃ)
全員が落ち着いたところで。
セレナが。
王都で起きたことを。
一つずつ話し始めた。
囚人護送。
ネクロマンサー。
老人。
王都地下。
そこで見つけた研究施設。
人工生命。
実験体。
黒雷石。
研究者たち。
そして。
マルタが王都に残ったこと。
話が進むたび。
子供たちの顔が変わる。
「えっ」
「地下にそんなのがあったの?」
「人を作ってたの?」
「黒雷石も?」
特にロイは。
途中から完全に前のめりだった。
「すげえ……」
「すごくありませんよ」
ライカがすぐに言う。
「ひどいことです」
「……そうだった」
ロイがまたしゅんとする。
だが。
リーナだけは。
最後まで。
ほとんど口を挟まなかった。
腕を組み。
時々。
ほんの僅かに眉を寄せる。
そして。
話が終わると。
静かに息を吐いた。
「……その件は」
皆が見る。
「マルタ様にお任せしましょう」
「え?」
セレナが少し驚いた。
「いいの?」
「もちろん、気にはなるわ」
リーナは答える。
「誰があの施設を作ったのか。誰が黒雷石を使っていたのか。私だって知りたい」
「なら――」
「でも」
リーナが。
孤児院の中を見回した。
子供たち。
古びた壁。
傷んだ床。
窓。
そして。
セレナを見る。
「今、私たちがしなければならないことは――」
一度。
言葉を切る。
「この孤児院を守ること。でしょう? お姉ちゃん」
「…………」
セレナが。
少しだけ目を伏せた。
そして。
笑った。
「そうね」
頷く。
「その通りだわ」
◇
「じゃあ」
リーナが手を差し出す。
「契約書、見せてもらえる?」
「契約書?」
「この孤児院と土地の」
「ああ」
セレナが立ち上がり。
棚の奥から。
一束の書類を持ってきた。
それを受け取ったリーナは。
何やら。
懐から。
銀縁の眼鏡を取り出した。
(……眼鏡?)
すっと掛ける。
(そんなもん持っとったのか)
妙に似合っている。
リーナはそのまま。
黙々と書類へ目を通し始めた。
紙を捲る。
また捲る。
時々。
小さく唸る。
しばらくして。
ようやく。
顔を上げた。
「整理しましょう」
眼鏡を指で少し上げる。
「まず」
書類の一枚を机へ置く。
「この建物そのものは、元々マルタ様の所有だった」
「ええ」
「それを、お姉ちゃんが正式に譲り受けている」
「そうね」
「だから、建物の所有者はお姉ちゃん。ここは問題ない」
「うん」
「問題は土地」
別の紙を置く。
「この土地は町の所有地。お姉ちゃんは、かなり安い金額で長期的に借りている」
「そうよ」
「でも、その土地が今、売却対象になっている」
「……ええ」
セレナの声が。
少しだけ重くなる。
「競売に出されてる」
「そして」
リーナは。
さらに一枚。
通知書らしき紙を置いた。
「すでに、買いたがっている相手がいる」
ロイが。
不安そうな顔をする。
「じゃあ……」
手を挙げるでもなく。
小さく聞いた。
「俺たち、ここ出なきゃいけないの?」
「すぐに、ということはないわ」
リーナは首を横に振った。
「長く住んでいるし、建物そのものはお姉ちゃんのもの。いきなり明日から出て行け、なんてことはできない」
「じゃあ大丈夫じゃん!」
「大丈夫じゃない」
即答だった。
「土地は相手のものになるのよ」
「でも、家は俺たちのだろ?」
「そう」
「なら――」
「家賃を上げられたら?」
「え?」
「修繕したい時に、土地の使用を理由に邪魔されたら?」
「…………」
「出入りする道のことで揉めたら?」
「…………」
「水の使用を制限されたら?」
ロイが。
黙った。
「合法か違法か、その境目みたいな嫌がらせなんて、いくらでもできる」
リーナの声は穏やかだった。
だが。
内容は重い。
「それを、あなたたち子供が何年も相手にできると思う?」
「……無理」
「そういうこと」
そして。
リーナが。
最後の紙を置いた。
「それに」
目が。
少しだけ鋭くなる。
「この土地の地下には、黒雷石の原石がある」
「…………」
空気が変わった。
「もし相手が」
リーナが続ける。
「それを知っていて、この土地を欲しがっているなら」
「…………」
「なおさら」
言い切る。
「渡すわけにはいかない」
セレナが。
ゆっくり息を吐いた。
「つまり」
確認するように。
「意地でも、この土地を買わなきゃいけない。そういうことね?」
「うん」
リーナが頷いた。
◇
「お金なら」
セレナが。
少しだけ表情を緩める。
「マルタがなんとかしてくれたわ」
「どのくらい?」
「金貨百五十枚分」
「…………」
リーナが。
止まった。
そして。
ゆっくり。
眼鏡を外した。
「……お姉ちゃん」
「なに?」
「マルタ様、王都で何したの?」
「それが……」
セレナが。
少し遠い目をする。
「王様に雇われたみたい」
「…………」
リーナが黙ってしまった。
(それはそうなるわな)
リーナが。
もう一度。
眼鏡を掛けた。
「その話は」
一度。
契約書を見る。
「後にしましょう」
(処理しきれんかったな)
セレナが。
少し笑う。
「とにかく、お金はある」
「それなら」
リーナも表情を戻す。
「あとは交渉ね」
「そうね」
「でも」
リーナが。
契約書を指で叩いた。
「ただ買えばいいってわけじゃない」
「……ええ」
「相手が誰なのか」
「うん」
「その後ろに誰がいるのか」
「うん」
「そして」
一瞬。
目を細める。
「なぜ、この土地を欲しがっているのか」
セレナも。
真剣な顔になる。
「黒雷石を知っているのか」
「それとも」
「別の理由があるのか」
「できれば」
リーナは言う。
「そこまで知っておきたい」
「そうね」
セレナが頷いた。
「せっかく一度守っても」
「また別の誰かに狙われたら意味がないものね」
「うん」
そして。
セレナは。
契約書へ目を落とした。
「じゃあ」
静かに。
だが。
はっきりと言う。
「今度は」
顔を上げる。
「こっちから聞きに行きましょう」
(そうじゃな)
守るだけでは。
足りない。
誰が。
何のために。
この場所を欲しがっているのか。
黒雷石を。
何に使おうとしているのか。
それを知らなければ。
本当に。
この家を守ったことにはならない。
わしは。
皆の顔を見回す。
セレナ。
リーナ。
カラリン。
ライカ。
ロイ。
そして。
少し離れたところで。
大人しく座っているガルド。
(……やれやれ)
王都から戻ったばかりだというのに。
次の仕事が。
もう始まってしまったらしい。
(まあ)
孤児院を守るためなら。
(仕方ないかのう)
百十歳。
今度は。
我が家の土地を巡る交渉へ。
乗り出すことになりそうじゃ。




