第71話 百十歳、我が家へ帰ります
翌朝、わしが目を覚まして最初に見たものは、見慣れない木目の天井だった。
薄いカーテンの隙間から朝日が差し込み、廊下の向こうから食器の触れ合う音が聞こえてくる。一瞬だけ自分がどこにいるのか分からなかったが、隣から聞こえてきた妙に間延びした寝息で、すぐに思い出した。
「す~……す~……」
(……そうじゃった。王都の宿か)
視線を横へ向けると、カラリンがベッドの上で大の字になって眠っていた。いつも被っている尖り帽子は床に転がり、布団も半分ほど蹴飛ばされている。
(寝相が悪いのう)
『起きたか』
胸の奥から雷葬獣の声が聞こえた。
(お主は起きておったのか?)
『寝ていない』
(……便利じゃのう)
『そうか?』
(たぶん)
最近、こやつとの会話が妙に自然になってきた。
最初は何を考えているのか分からない巨大な古代獣だったというのに、今では朝一番に会話する相手である。人生とは分からないものだ。まあ、わしの場合は一度死んで赤子になっている時点で、今さら何が起きても驚くべきではないのかもしれんが。
そんなことを考えていると、カラリンが「ん~……」と唸りながら寝返りを打った。
その身体がベッドの端を越える。
ドサッ。
「い~た~い~……」
(何をやっとるんじゃ)
昨日、王都の地下で命懸けの探索をしていたゴブリンメイジとは思えない姿である。
だが、それを見ていると少し安心した。
黒雷石。
地下施設。
そこで造られていた者たち。
ガルドが初めて抜いた大剣。
そして、百年以上もたった二つの命令に従い続けてきた老人。
昨日はあまりにも多くのことがあった。
だからこそ、カラリンがいつも通り床に落ちて「痛い」と言っていることすら、今はありがたく思えた。
(……あの爺さん、どうなるんじゃろうな)
国家反逆罪。
そんな重い罪を着せられたままなのだ。
地下で起きたことが明らかになったからといって、今日すぐ自由になれるとは思えない。
その辺りは、マルタが何とかすると言っていたが――。
「お~は~よ~、レ~オ~ン~」
床からカラリンの顔が生えてきた。
「あぅ」
「よ~く~ね~む~れ~た~?」
「あぅ」
(お主ほどではないがのう)
◇
朝食を終えて宿の外へ出ると、そこには一台の馬車が用意されていた。
「し~しょ~?」
カラリンが首を傾げる。
馬車の横にはマルタが立っていた。昨日と同じ杖にローブという格好だが、その目元には僅かに疲れが残っている。
「師匠、寝た~?」
「余計なお世話だよ」
即答だった。
どうやら、あまり寝ていないらしい。
セレナも気づいたようだが、あえて何も言わなかった。
「帰りはこれを使いな」
マルタが杖で馬車を示す。
「馬車?」
「まさか歩いて帰るつもりだったのかい?」
「そのつもりだったけど」
「やめときな。王都まで来た時とは違って、帰りは護送する罪人もいないんだ。馬車でさっさと帰った方がいい。二日もあれば着くだろうさ」
ありがたい話である。
わし自身は誰かに運んでもらうだけなのだが、セレナたちの負担が減るに越したことはない。
「マルタは?」
セレナが尋ねる。
「あたしは、もう少し王都に残るよ」
「まだ何かあるの?」
「山ほどあるさ」
マルタはうんざりしたように肩を竦めた。
「あの爺さんと盗人の処遇を知っておきたいし、地下に縛り上げてきた研究者たちも正式に引き渡す必要があるし、施設そのものだって調べなきゃならない。あんなもんが王都の地下にあったんだ。誰が作ったのか、誰が金を出していたのか、どこまで繋がっているのか――何も分かっちゃいないからね」
「…………」
セレナの表情が曇った。
わしも同じだった。
あの研究者たちだけを捕らえて終わり。
そんな単純な話ではないだろう。
むしろ、ここから先こそ王国が調べなければならない領域なのかもしれない。
「お爺さん、大丈夫なの?」
「今すぐどうこうはされないさ。そこから先は、あたしが何とかする」
マルタが言うなら。
少なくとも、何も分からないわしたちが王都に残って騒ぐよりはいい。
「だから、お前らは先に帰りな。あたしも片付けるものを片付けたら追いつくよ」
「し~しょ~……」
「そんな顔するんじゃないよ。今生の別れじゃあるまいし」
マルタは苦笑した。
「ああ。それと――」
何かを思い出したように、懐へ手を入れる。
「これを持って帰りな」
セレナへ差し出されたのは、ずしりと重そうな革袋と、一枚の証書だった。
「何これ?」
「金貨五十枚。それと金貨百枚分の換金証書」
「…………」
セレナが固まった。
カラリンも固まった。
そして、わしも固まった。
「ひゃ、百五十――」
「馬鹿!」
マルタが慌ててセレナの口を塞いだ。
「こんな往来で大金持ってますって宣伝する奴があるか!」
「んんんっ!」
「分かったら声を落としな!」
セレナが何度も頷く。
ようやく解放されると、周囲を気にしながら小声で尋ねた。
「……本当に、百五十枚?」
「そうだよ。金貨の方はすぐ使えるように昨夜のうちに換えておいた。証書は王国公認の換金所なら金貨百枚と交換できる」
昨夜のうちに。
ということは、あの後もマルタは動き回っていたらしい。
(そりゃ寝不足にもなるわい)
「でも、孤児院を買い戻すのに足りないのは二十七枚よ?」
「知ってるよ」
マルタは鼻を鳴らした。
「あの建物を見て、本当に二十七枚だけで済むと思ってるのかい? 屋根も直した方がいい。壁だって冬になる前に一度見てもらいな。それに、あれだけ子供がいるんだ。食費も服も必要だろう」
「でも……」
「余ったら取っときな。金なんてものは、必要になってから慌てて集めるより、ある時に持っておいた方がいいんだよ」
セレナは革袋を握りしめた。
何か言いたそうに唇を動かしたものの、結局出てきたのは短い一言だけだった。
「……ありがとう」
「礼ならカラリンに言いな」
「え~?」
突然名前を出され、カラリンが自分を指差す。
「あ~た~し~?」
「あんたが王宮で働けなんて言い出さなきゃ、あたしは今頃こんな面倒なことしてないんだからね」
「し~しょ~、え~ら~い~」
「誰のせいだと思ってんだい」
そう言いながらも。
マルタは少し笑っていた。
◇
荷物を馬車へ積み終えると、マルタがガルドへ顔を向けた。
「さて。ガルド、あんたはどうする?」
「…………」
巨大なリザードマンはすぐには答えなかった。
その金色の瞳がゆっくりと動き――なぜかわしのところで止まる。
「…………」
(なんじゃ)
じぃ……。
(なんでそんなに見る)
相変わらず顔が近い。
深緑色の鱗に覆われた二メートルを超える巨体で真正面から見つめられると、いくら中身が百十歳でも少々圧を感じる。
やがて、ガルドが口を開いた。
「俺も」
一度、言葉を切る。
「ついて行っていいか」
「…………」
セレナが目を瞬かせた。
ガルドは、珍しく少し言いにくそうに続ける。
「迷惑でなければ」
「もちろんよ」
セレナは即答した。
「迷惑なわけないじゃない。一緒に行きましょう」
「……そうか」
ガルドが頷く。
たったそれだけ。
けれど、ほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
(そうか)
王都へ来るまで、ガルドは何度も言っていた。
『守る』
『王都まで』
王都へ着いた後も、危険が残っているから守ると言って地下までついてきた。
だが。
もう護衛の仕事は終わった。
罪人を運ぶ必要もない。
依頼でもない。
それでも。
今度は自分の意思で、わしたちと一緒に行きたいと言ったのだ。
(なんじゃ。可愛いところもあるではないか)
その瞬間、ガルドがこちらを見た。
「?」
(……聞こえとらんよな?)
『聞こえていない』
(お主には全部聞こえとるがな)
◇
いよいよ出発というところで、カラリンがマルタの前に立った。
「し~しょ~」
「なんだい」
「…………」
何か言おうとして。
やめたらしい。
そのままマルタの腰へ抱きついた。
「おっと」
不意を突かれたマルタが僅かによろめく。
「なんだい、本当に。すぐ追いつくって言っただろう?」
「……う~ん~」
それでもカラリンは離れなかった。
マルタは困ったように息を吐く。
だが、その顔は優しかった。
カラリンの尖り帽子を少し持ち上げ、その下の頭へ手を置く。
「また後でね」
「……う~ん」
ゆっくりと頭を撫でる。
カラリンが目を細めた。
その姿を見ていると、こう思う。
(……親子みたいなもんじゃな)
『親子?』
雷葬獣が反応した。
(血が繋がっておらんでも、そういう関係はあるんじゃよ)
『……そうか』
少し考えてから。
『覚えておく』
雷葬獣はそう答えた。
◇
帰りの旅は、拍子抜けするほど平和だった。
考えてみれば、王都へ向かう時の方が異常だったのだ。
罪人三人を護送し、途中でスケルトンやレイスに襲われた。王都へ着いたと思えば老人を攫われ、そのまま地下へ潜り、最後には黒雷石まで見つけた。
(……よく無事だったのう、わしら)
それに比べれば、帰りは気楽なものだった。
護送対象はいない。
誰かに追われているわけでもない。
しかも、マルタが用意してくれた馬車がある。
馬車は王都を離れ、街道をのんびりと進んでいった。
窓の外を流れていくのは、畑や森、小さな村。
時々すれ違う旅人。
それだけだった。
何も起こらない。
実に素晴らしい。
(旅とは本来こういうもんでいいんじゃ)
『退屈だ』
(馬鹿者。平和とは退屈なものなんじゃよ)
『そうなのか』
(そして、その退屈を守るために、皆が苦労するんじゃ)
雷葬獣はしばらく黙っていた。
『人間は難しい』
(わしも百十年生きたが、そう思う)
ガタゴトと一定の調子で揺れる馬車の中。
カラリンに抱かれながら窓の外を眺めていると、いつの間にかわしは眠っていた。
地下で身体を酷使したわけではない。
だが。
精神の方は、自分で思っていた以上に疲れていたらしい。
◇
二日目の夕方。
「見えてきたわ!」
セレナの声で目を覚ました。
(……ん?)
目を擦ることもできず、ぼんやりと窓の外を見る。
遠くに。
見覚えのある町があった。
王都とは比べものにならないほど小さい。
巨大な城壁もない。
道だって綺麗に整えられているわけではない。
高い塔も、壮麗な王城もない。
けれど。
(……帰ってきた)
自然と。
そう思った。
馬車が町へ入る。
見慣れた店。
見慣れた道。
見覚えのある人々。
そして、その先に。
古びた建物が見えてきた。
「孤児院だよ~!」
カラリンが嬉しそうに声を上げた。
傷んだ屋根。
古びた壁。
決して大きくはない建物。
王城を見た後では、余計に小さく、みすぼらしく見える。
それなのに。
(……不思議じゃのう)
今のわしには。
あの巨大な王城よりも、ずっと立派に見えた。
馬車が孤児院の前でゆっくりと止まる。
車輪の音に気づいたのか、扉が勢いよく開いた。
「……あっ!」
最初に飛び出してきたのはリリだった。
「レオンー!」
その後ろからミナ。
ロイ。
さらに少し遅れて、ライカも姿を見せる。
「おかえり!」
「おかえりなさい!」
「遅いよ!」
「レオン!」
一斉に声が飛んできた。
「あぅ!」
(ただいま)
言葉にはできない。
けれど。
そう答えた。
誰かに命令されたわけでもない。
何かの役目があるわけでもない。
ただ、わしたちが帰ってきたから。
嬉しそうに走ってくる。
その中に。
ライカがいる。
「おかえり、レオン」
ライカが笑った。
「…………」
その顔を見て。
わしは王都に残してきた老人を思い出した。
『第一命令――黒雷石を探せ』
『第二命令――守れ』
百年以上。
ただ命令に従い続けてきた。
古代のホムンクルス。
対して。
目の前には、同じく人の手によって生み出された命がいる。
ライカは笑う。
怒る。
学ぶ。
自分で考える。
子供たちと遊び。
誰かを心配し。
自分の意思で生きている。
(……爺さん)
わしは一瞬だけ、王都の方角へ目を向けた。
(お主にも、見せてやりたいのう)
命令を果たした後にも。
生きる時間があることを。
造られた目的とは関係なく。
自分で生き方を選んでいいということを。
そして。
血が繋がっていなくても。
人間でなくても。
エルフでも。
ゴブリンでも。
ホムンクルスでも。
帰ってきた時に「おかえり」と言ってくれる者たちがいることを。
もう一度。
孤児院を見る。
古くて。
狭くて。
ボロボロで。
おまけに金貨三十枚も要求されている。
(……やっぱり高いんじゃよ)
そこだけは、どうしても納得できん。
それでも。
わしはこの場所を。
随分と好きになってしまったらしい。
(ただいま)
百十年生きて。
一度死んで。
赤子になって。
もう一度そう思える場所ができるとは。
人生というものは。
本当に分からんものじゃ。




