第70話 二つ名のマルタ、夜更けに手紙を書きます
長い階段を上りきった先で待っていたのは、茜色に染まった王都の空だった。
地下へ潜っていた時間は、それほど長くなかったはずだ。それなのに、カラリンに抱かれたまま久しぶりの風を頬に受けた瞬間、わしは何日も地上を離れていたような気分になった。
(……やっと出られたのう)
思い切り息を吸い込む。
薬品と腐臭が混じった地下の空気ではない。土の匂い、人の匂い、どこかの家で夕食でも作っているのだろう、肉の焼ける香ばしい匂いまで漂ってくる。
どれも、ありふれた地上の匂いだ。
『……風がある』
胸の奥で、雷葬獣が呟いた。
(当たり前じゃろう)
『そうか』
それきり、雷葬獣は黙った。
わしも、それ以上は何も言わなかった。
当たり前のことなのだ。
地上には風が吹く。
空がある。
陽の光がある。
けれど、あの地下で生まれ、番号で呼ばれ、最後には土へと還っていった者たちは、その当たり前をどれだけ知っていたのだろう。
「し~しょ~?」
不意にカラリンが声を上げた。
その声に顔を上げると、通りの向こうから一人の老婆が歩いてくるところだった。
見慣れた杖に、見慣れたローブ。
王城へ向かった時より少し疲れた顔をしているが、間違いない。
「し~しょ~!」
「おや」
向こうもこちらに気づいたらしい。
マルタは足を止めると、こちらを上から下まで眺めた。
「……随分とひどい有り様じゃないか」
「マルタ!」
セレナも声を上げる。
「ちょうどよかったよ。あたしも宿へ戻るところだったんだ」
そう言いながら、マルタの視線が一人ずつ確認するように動いた。
セレナ。
カラリン。
その腕の中にいる、わし。
ガルド。
盗人。
そして最後に、一人の老人。
そこでマルタの目が止まる。
「……その爺さん」
「話すと長いわ」
セレナが疲れたように答えた。
マルタは一度だけ夕暮れの空を見上げた。
「そうかい。なら、歩きながら聞こうじゃないか」
◇
「――なるほどねえ」
一通りの報告を聞き終えたマルタが、深々と息を吐いた。
王都の地下に隠されていた研究施設。
そこで行われていた、人造生命体を作り出すための研究。
番号で管理されていた実験体。
彼らを生かすための力として使われていた黒雷石。
そして、国家反逆罪で捕らえられていた老人が、古代の賢者たちによって造られたホムンクルスだったこと。
マルタは途中から一度も口を挟まなかった。
ただ、話が進むにつれて眉間の皺だけが深くなっていった。
「……それで」
話が終わると、マルタは盗人を見る。
「あんたが黒雷石を盗んだ、と」
「おう」
盗人はなぜか胸を張った。
「しかも、誰にも気づかれずにな」
「そこは誇るところなのかい?」
「俺の仕事だからな」
「その仕事で捕まって王都まで運ばれてきたんだろうが」
「…………」
盗人が目を逸らした。
(正論じゃな)
次にマルタの視線が老人へ移った。
「あんたが、古代の賢者たちに造られたホムンクルスかい」
「…………」
老人は答えなかった。
ただ静かに、マルタを見返す。
地下で見つけた時よりも、さらに弱っているように見えた。歩くたびに関節の奥から小さな軋みが聞こえ、頬の一部には裂けた人工皮膚の奥から、人の肉とは違う何かが覗いている。
「あと、どれくらい動ける?」
「……不明」
今度は答えた。
「そうかい」
マルタはそれ以上尋ねなかった。
ただ老人の身体を頭から足元まで眺めた。
その目には同情も嫌悪もなかった。
かといって、珍しい研究材料を見る錬金術師の目とも違う。
ライカを造った者として。
一つの命を造り出した者として。
何かを確かめているように、わしには見えた。
「それで、どうするの?」
セレナが尋ねる。
「この二人よ」
老人と盗人。
マルタは少し考えてから答えた。
「ひとまず、正式な手続きを踏んで国へ引き渡しな」
「でも――」
「分かってるよ」
セレナの言葉を、マルタが遮った。
「この爺さんが国家反逆罪に問われていることも、地下で何があったのかもね。だから、あたしに任せな」
「…………」
「悪いようにはしないよ」
セレナはしばらくマルタの顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……分かった。あなたを信じる」
「最初からそうしな」
「調子に乗らないで」
「はいはい」
マルタは今度は盗人を見る。
「あんたもだよ」
「俺も?」
「当たり前だろう。あんた、元々罪人じゃないか」
「いやあ、せっかく自由になれたと思ったんだけどな」
「誰が自由にしたんだい」
「まあ、いいさ」
盗人は悪びれることもなく、にやりと笑った。
「なかなか楽しかったぜ」
「…………」
「牢屋にぶち込まれて、馬車で運ばれて、途中で襲われて、王都の地下に潜って、変な化け物を見て、最後には国の秘密まで見ちまった。普通に生きてたら、なかなかできねえ経験だろ?」
「その前向きさだけは認めてやるよ」
「だろ?」
「褒めてない」
盗人が笑う。
対照的に、老人は何も言わなかった。
ただ、わしたちを静かに見つめている。
何を考えているのかは分からない。
黒雷石を探し、守る。
百年以上も、その命令だけで動き続けてきたという老人。
その命令を果たした今。
この老人の中には、一体何が残っているのだろう。
「さて」
マルタが杖で軽く地面を叩いた。
「今日はもう休みな」
「でも――」
「地下であれだけ動いたんだ。疲れてないわけがないだろう。面倒事は明日になっても逃げやしないよ」
確かに、言われてみれば身体が重い。
(わし、ほとんど抱っこされておったんじゃがのう)
『疲れている』
(お主がか?)
『お前がだ』
(……そうか)
百十歳にもなって、身体の心配までされるとは。
しかも相手は雷葬獣である。
「老人と盗人については、あたしから引き渡し施設の責任者にも話を通しておく。今夜すぐにどうこうされることはないようにするさ」
マルタが宿の方角へ杖を向ける。
「ほら。帰るよ」
◇
その夜。
宿の灯りが一つ、また一つと消え、王都の喧騒も遠くなった頃。
マルタは一人、部屋の机に向かっていた。
窓の外には夜の王都が広がっている。
机の上には一枚の便箋とインク壺。
マルタは羽根ペンを手に取ると、少し考えてから文字を書き始めた。
『賢者アマンダ殿』
そこまで書いて、止まる。
「……堅苦しいね」
線を引いて消した。
『アマンダへ』
「これでいいか」
今から書くのは、王国の賢者に対する正式な報告書ではない。
昔の弟子への手紙だ。
まずは、自分の士官について。
『王宮へ仕える時期についてだが、来春からにさせてもらいたい。こちらにも片付けなければならないことが山ほどある。研究道具もそうだが、放っておけない連中もいる。陛下にはそう伝えておくれ』
マルタは一度読み返してから、続きを書いた。
『それと、王都地下について』
ペン先が僅かに止まる。
『今日、王都地下に存在する施設が発見された。そこで、人造生命体に関する非合法と思われる研究が行われていた。場所は調査すればあんたならすぐわかるだろう』
『国家反逆罪で捕らえられていた老人についても確認した。あの老人は、古代の賢者たちによって造られた人造生命体だ』
『詳しい事情については改めて報告する。ただ、少なくとも今確認できている事実を見る限り、国家に対して真に責任を追及されるべき者は、あの老人ではなく地下にいる』
地下施設にいた研究者たち。
彼らが何者なのか。
誰の命令で動いていたのか。
そこまでは、まだ分からない。
だから断定はしない。
だが。
『老人については、あたしが後見人になる』
マルタは迷わず書いた。
『身元と今後について、必要ならあたしが責任を負う。国家反逆罪について再調査した上で、冤罪が確認されたなら釈放してほしい』
続いて、盗人についても書く。
『もう一人。罪人として王都へ運ばれてきた盗人についてだ』
『あいつの罪そのものを無かったことにしろとは言わない。ただ、あいつがいなければ地下への侵入は難しかっただろう。今回の件を解決へ進めた立役者の一人であることは間違いない』
『どうか、その功績を考慮した寛大な処置を願いたい』
そこまで書いて、マルタは小さく笑った。
「これで減刑されても、また盗みそうだけどねえ」
まあ。
その時は、その時だ。
そして。
『もう一つ、頼みがある』
マルタの表情から笑みが消えた。
『地下施設に、土が残されている』
今日、カラリンたちから聞いた話が蘇る。
人とも獣ともつかない姿へ変えられ、番号だけを与えられ、生きることさえ苦痛になっていた者たち。
彼らは最後に、自ら死を望んだという。
そしてガルドは剣を抜いた。
敵を斬るためではない。
彼らを土へ還すために。
『その土を、地下へ置いたままにしないでほしい』
『地上へ運び出して、風の強い日に大地へ撒いてやってくれ』
ペン先が、僅かに震えた。
『あいつらは、ずっと地下にいたらしい』
『せめて最後くらい、風に乗って好きなところへ旅をさせてやってほしい』
「…………」
マルタはペンを置いた。
これで書くべきことは、だいたい書いた。
「あとは――」
その言葉と同時に。
一人の女の顔が脳裏に浮かんだ。
アマンダ。
かつての弟子。
今や王の傍らに立つ、現代王国の賢者。
(……あんたは、どこまで考えていた?)
マルタは椅子へ深く腰掛けた。
ギシッ、と古い椅子が鳴る。
地下に存在したホムンクルスの研究施設。
アマンダは、あれに関わっているのか。
「……いや」
恐らく。
それはない。
少なくとも、アマンダが主導した研究とは思えなかった。
警護が薄すぎる。
設備も研究者も、確かに並のものではなかったのだろう。
だが。
(あの子がやったにしちゃ、雑すぎる)
今のアマンダなら。
もっと上手くやる。
もっと徹底する。
そもそも王の傍らに立つ賢者ともなれば、必要な研究なら堂々と予算と人員を引き出すこともできるはずだ。わざわざあれほど中途半端な形で地下に隠す必要がない。
では。
本当に知らなかったのか。
「…………」
それも。
どうだろう。
マルタの指が机を叩く。
トン。
トン。
(もしかして……)
(知っていて、放置した?)
誰かが地下でホムンクルスを研究している。
違法かもしれない。
成功する可能性も低い。
だが。
もし完成したら?
その時になって国が研究成果を接収する。
あるいは、研究そのものを奪い取る。
(……あり得ない話じゃない)
国という巨大な組織の中で生きてきた今のアマンダなら、その程度の冷徹な判断を下しても不思議ではない。
もちろん。
これも推測だ。
証拠は何一つない。
だが、一つ疑い始めれば、別の疑問まで頭をもたげてくる。
今回。
自分は王宮へ仕えることになった。
その発端は、孤児院だった。
立ち退きを迫られ。
金が必要になった。
そのために王都へ来た。
そして。
アマンダと再会した。
孤児院。
黒雷石。
封印。
王都地下。
ホムンクルス。
王宮からの招聘。
そして。
自分。
今まで別々に見えていたものが。
一瞬だけ。
一本の線に繋がったような気がした。
(……まさかね)
土地の立ち退きを迫ったのも。
黒雷石を巡って一騒動起きたのも。
結果として自分が王都へ来ることになったのも。
全部――。
「…………」
マルタはしばらく考えた後、首を振った。
「飛躍しすぎだね」
証拠がない。
偶然を並べて線を引けば、どんな陰謀だって作れてしまう。
ましてや黒雷石の封印に関する一連の騒動は、百年前から続く問題だ。
いくらアマンダでも。
そこまで全てを操れるはずがない。
(……ただ)
一つだけ。
可能性が高そうなものがある。
(あたしの動きは、見られていたかもしれないね)
アマンダは今日、自分が王都へ来る途中で騒動に巻き込まれたことを知っていた。
ゴブリンとエルフを連れていることも。
それ自体は、王国の情報網を使えば調べられる範囲だろう。
王都へ入った時点で情報が上がった可能性だってある。
だが。
もし。
もっと前から見られていたとしたら?
(誰が、どこから?)
マルタは知っている顔を一人ずつ思い浮かべた。
だが、すぐに考えるのをやめた。
仲間の中に内通者がいるとは限らない。
王国の役人。
冒険者ギルド。
街道の宿。
王都の門番。
情報を集める方法など、いくらでもある。
「……答えは出ないね」
マルタは天井を見上げた。
「やめだ」
今は考えるための材料が少なすぎる。
疑うのは簡単だ。
だが、疑いだけで人を決めつけるほど、マルタは若くなかった。
「……ピィ」
小さく呼ぶ。
すると、机の隅に置いていた小さな止まり木の上へ、淡い光が集まり始めた。
光は少しずつ形を変え。
やがて、手のひらに乗るほどの小さな鳥になった。
「ピィ!」
澄んだ鳴き声。
霊鳥ピィ。
マルタがまだ「二つ名のマルタ」などと呼ばれるより遥か昔。
初めて契約した、小さな使い魔だった。
「久しぶりに仕事だよ」
「ピィ!」
マルタは書き上げた手紙を丸め、小さな筒へ収める。
それをピィの脚へ取り付けた。
「これをアマンダに」
「ピィ!」
「他の奴には渡すんじゃないよ」
「ピィ!」
「……本当に分かってるんだろうね?」
「ピィ!」
「まあ、いいか」
窓を開ける。
冷たい夜風が、部屋へ入り込んだ。
「行っといで」
「ピィ!」
小さな翼が広がった。
ピィは窓から飛び出すと、夜の王都へ舞い上がっていく。
月明かりの下。
その小さな姿は、王城の方角へと遠ざかっていった。
「…………」
マルタは窓辺に立ったまま、しばらく夜空を見ていた。
思えば。
自分は随分と好き勝手に生きてきた。
小さな町で好きな研究をして、好きなものを作り、関わりたい者たちとだけ関わってきた。
誰かに命令されることも。
国の都合に振り回されることも。
ずっと避けてきた。
一方。
アマンダは王国に残った。
王の傍らに立ち。
巨大な権力が生み出す光と、その裏側にある闇。
その両方に揉まれながら。
今も、成長し続けている。
「……差もつくわけだ」
ギシッ。
古い椅子へ腰を下ろす。
マルタは天井を見上げ、小さく笑った。
「まったく。弟子ってのは、師匠が見てないところで勝手に育つもんだねえ」
窓の外。
小さな光が、王城へ向かって飛んでいく。
「……だからって」
マルタの目が細くなる。
「二度も一本取られてやる気はないけどね」
◇
同じ頃。
王城の一室では、まだ灯りが消えていなかった。
机の上には、いくつもの書類が積み上げられている。
その前に座っていたのは、アマンダだった。
「…………」
一枚に目を通し。
署名する。
次の書類へ手を伸ばす。
王国の賢者ともなれば、仕事は魔術や研究だけではない。
報告書。
研究予算。
各地から届く陳情。
王へ上げるべき案件の選別。
仕事はいくらでも湧いてくる。
その時だった。
コツン。
窓から、小さな音がした。
「……?」
アマンダが顔を上げる。
コツン。
もう一度。
窓硝子の向こうに。
小さな鳥がいた。
「…………」
アマンダの目が僅かに見開かれる。
立ち上がり。
窓へ向かう。
鍵を外して開けると。
「ピィ!」
小さな霊鳥が、当たり前のように部屋へ飛び込んできた。
「…………ピィ?」
「ピィ!」
その瞬間。
王の前でも。
マルタを追い詰めた時でさえ。
ほとんど崩れなかったアマンダの表情が。
ほんの少しだけ。
柔らかくなった。
「……まだ元気だったのですね」
「ピィ!」
ピィは得意げに胸を張った。
その仕草を見て。
アマンダは。
ほんの僅かに微笑んだ。
昔。
まだ自分が何者でもなかった頃。
師匠の研究室へ行けば。
いつもそこにいた。
小さな霊鳥。
「懐かしいですね」
アマンダはピィの脚に取り付けられた筒へ気づいた。
「師匠からですか?」
「ピィ!」
筒を外す。
中から取り出した手紙を開き。
最初の一行を見る。
『アマンダへ』
「…………」
また。
少しだけ。
アマンダが笑った。
王国の賢者ではない。
王の側近でもない。
ほんの一瞬だけ。
昔の弟子の顔に戻って。
「まったく……」
小さく呟く。
「相変わらずですね」
そして。
アマンダは。
師から届いた手紙を。
ゆっくりと読み始めた。




