第67話 百十歳、命に値段はつけられません
光が消えたあとも、しばらくの間、誰一人として動くことができなかった。
通路の床に残されていたのは、いくつもの柔らかな土の山だけだった。
つい先ほどまで、そこには確かに命があった。
人と獣を無理やり混ぜ合わせたような身体を与えられ、黒雷石から力を供給されなければ息をすることさえできなかった者たち。それでも彼らは「助けて」と願い、最後には自ら「殺してほしい」と口にした。
ガルドは床に触れていた大剣をゆっくりと持ち上げ、その刀身を静かに鞘へ収めた。
カチリ、と小さな音が響く。
それだけで、つい今しがたまで辺りを満たしていた神聖な空気が、夢だったかのように薄れていった。
わしは、何も言えなかった。
前世を含めれば、百十年以上を生きている。
人の死も、嫌というほど見てきた。
戦争が終わったあとの光景は、もっと酷かった。家族を失い、知人を失い、仕事を始めてからも、自分より遥かに若い者を何人も見送ってきた。
だから、死というものには少しくらい慣れているつもりだった。
だが。
(……慣れるようなものではないのう)
先ほどの者たちの最後の表情が、どうしても頭から離れない。
死ぬことを恐れていたのではない。
ようやく死ねることに、安心していた。
そんな生を、果たして「生きていた」と呼んでよいのだろうか。
『レオン』
胸の奥で、雷葬獣の声が響いた。
(なんじゃ)
『あれでよかった』
わしは、すぐには答えなかった。
『あの者たちは苦しんでいた』
(分かっとる)
『ならば――』
(分かっとるんじゃよ)
思わず、少し強い口調になった。
雷葬獣が黙る。
(……すまん)
『構わない』
短い返事のあと、雷葬獣は静かに続けた。
『我も長く生きた』
(そうじゃったな)
『だが、死にたいと願う命を見るのは嫌なものだ』
(……そうじゃのう)
長く生きた者同士。
そんなところまで似なくてもよいのに。
そう思いながら、わしはもう一度、床に残された土へ目を向けた。
◇
「我々の……成果が……」
呆然とした声が静寂を破った。
床に拘束されている仮面の者の一人だった。
男は、試作体たちが土へ還った場所を見つめながら、信じられないものを見たように震えている。
「何年かかったと思っている……」
「四十七号まで……」
「適合率を、ようやくここまで……」
「記録が……全部……」
次々と漏れる言葉を聞いて、わしの胸の奥が冷えていった。
誰一人として、あの者たちの死を悲しんではいない。
悔やんでいるのは、失われた研究成果。
費やした時間。
積み重ねてきた記録。
ただ、それだけだった。
セレナが、ゆっくりと仮面の者たちへ歩いていく。
「……あなたたち」
声は静かだった。
だが、わしには分かる。
(怒っとる)
それも、ものすごく怒っている。
「今、何て言ったの?」
「…………」
「成果?」
仮面の者は答えない。
「この子たちのことを言ってるの?」
「試作体だ」
一人が淡々と答えた。
「違う」
「正式な名称は――」
「違う!」
セレナの声が通路いっぱいに響いた。
わしまで思わず身体を縮める。
「あの子たちは喋った! 痛いって言った! 助けてって言った!」
一歩、また一歩と仮面の者たちへ近づいていく。
「最後には……ありがとうって言ったのよ……!」
その声は、怒りだけではなく悲しみにも震えていた。
「なんで物扱いできるのよ……」
仮面の者たちは何も答えない。
「答えなさい」
「感情の発現は確認されている」
一人が事務的な口調で答えた。
「だが、それは副次的な――」
――バシンッ!
乾いた破裂音が響いた。
「セ~レ~ナ~」
カラリンが、やや困ったように呼ぶ。
セレナの鞭は、男の顔のすぐ横にある石床を深く叩いていた。
「次にその子たちを物扱いしたら」
怖い。
ものすごく怖い。
「当てるから」
「…………」
(どこへ当てるつもりかは聞かん方がよさそうじゃ)
◇
「それよりさ」
重く沈んだ空気を、まるで読んでいない声が壊した。
「これ、どうする?」
盗人だった。
拘束された両手には、黒雷石が握られている。
黒い石の表面を、細い銀色の光が生き物のように走っていた。
わしらの視線が一斉に集まる。
「あ」
セレナも、そこでようやく思い出したらしい。
「それ……本物なの?」
『本物だ』
雷葬獣が即答した。
(間違いないか)
『我の力だ。間違えるものか』
その声と同時に、わしの胸の奥が僅かに熱を帯びる。
ずっと探していた。
王都へ来た理由の一つ。
雷葬獣が教えてくれた、失われた黒雷石。
――王の下。
まさか、こんな形で見つかるとは思ってもいなかった。
「これが……黒雷石……」
セレナが近づく。
すると盗人が、すっと手を引いた。
「何?」
「いや」
「渡して」
「これ、いくらくらいする?」
「…………」
「…………」
「渡して」
「いやいやいや! 聞いただけじゃん!」
「渡して」
「目が怖いって!」
盗人は慌てて黒雷石を差し出した。
(さすがじゃ)
盗人から盗品を取り返すのに、武力など必要ない。
セレナの視線一つで十分らしい。
セレナは黒雷石を受け取ると、しばらくその黒い表面を見つめた。
そして、カラリンの腕の中にいるわしへ視線を向ける。
「レオン」
「あぅ?」
「これ……どうすればいいの?」
(わしに聞かれても困るんじゃが)
『触れろ』
雷葬獣が言った。
(大丈夫なんじゃろうな)
『おそらく』
(おそらく!?)
『我もこのような状態になったのは初めてだ』
(お前さん、そういう大事なことは先に言わんか!)
『触れなければ分からない』
(実験台がわしなんじゃよ!)
とはいえ、ここまで来て触れないという選択肢もない。
「あぅ」
わしはカラリンの腕の中から、小さな手を伸ばした。
「触りたいの?」
「あぅ」
「……分かった」
セレナが慎重に黒雷石を近づける。
わしの指先が、その表面へ触れた。
瞬間。
――ドクン。
心臓が大きく跳ねた。
「レオン!?」
セレナが反射的に黒雷石を離そうとする。
『待て!』
(何じゃ!?)
『離すな!』
(どっちじゃ!)
「あぅ!」
わしはもう片方の手も伸ばし、カラリンに支えられながら黒雷石を掴んだ。
――ドクン。
もう一度。
今度は胸の奥まで響くように心臓が鳴る。
銀色の光が石から溢れ、わしの指先から腕へ、そして胸の奥へと流れ込んできた。
だが、以前とは違う。
苦しくない。
むしろ。
懐かしい。
そう表現するしかない、不思議な感覚だった。
『……戻ってきた』
雷葬獣が呟いた。
(何がじゃ)
『我の力だ』
その声が、僅かに震えている。
『長い間、切り離されていた』
次の瞬間。
黒雷石が強い銀光を放った。
そして、わしの意識へ見覚えのない光景が流れ込んできた。
◇
石造りの部屋だった。
壁は異様なほど滑らかに磨かれ、白く見えるほどだ。
何人かの人影がいる。
その服装は、今の時代とは明らかに違っていた。
(これは……)
『記憶だ』
雷葬獣が言う。
『石に残った記憶』
一人の人物が、黒雷石を台座へ置いた。
『出力安定』
『接続を確認』
『移送準備を開始する』
声は聞こえる。
だが、姿は霧に包まれたようにぼやけ、顔までは分からない。
『残存数は――』
雑音が混じった。
『――十二――』
別の人物が何かを答える。
続いて。
『必ず……守れ』
その一言を最後に。
景色が途切れた。
「レオン!」
「……あぅ?」
気がつけば、セレナの顔が目の前にあった。
「大丈夫!?」
「あぅ」
どうやら、ほんの数秒ほど意識が飛んでいたらしい。
(今のは……)
『我にも全ては分からない』
(古代の賢者か?)
『おそらく』
また、おそらく。
まあ、百年以上前の記憶なのだから仕方あるまい。
「何か分かった?」
セレナが心配そうに尋ねる。
(説明できれば楽なんじゃがのう)
「あぅ」
「……そうよね」
赤子。
非常に不便である。
◇
「その石を返せ」
床から低い声がした。
拘束された仮面の者だ。
その声音には、先ほどまでにはなかった焦りがはっきりと混じっている。
「それは我々の研究に必要なものだ」
セレナは黒雷石を自分の胸元へ引き寄せた。
「あなたたちの?」
「そうだ」
「誰から貰ったの?」
「…………」
「誰の許可で使ってるの?」
「…………」
「王様?」
その瞬間。
仮面の奥で、男の目が僅かに笑った。
本当に、一瞬だった。
だが。
(今の反応……)
わしは見逃さなかった。
そして、それはセレナも同じだったらしい。
「……少なくとも、王様から直接渡されたものじゃないのね?」
「…………」
男は答えなかった。
それ以上は分からない。
王宮が関わっているのか。
誰かが勝手に動いているのか。
今ここで決めつけられる材料は、まだ何もない。
ただ一つ。
この王都の地下で、表には出せない何かが行われている。
それだけは間違いなかった。
「誰の命令なの?」
セレナが問い詰める。
「我々は――」
仮面の者が口を開いた。
その時だった。
通路の奥から。
――カン、カン、カン。
硬質な音が三度響いた。
続いて、赤い光が壁際の装置に灯る。
「何?」
セレナが振り返った。
仮面の者たちの様子が変わった。
焦り。
それも、黒雷石を奪われた時とは違う種類の焦りだった。
『レオン』
雷葬獣が低く言った。
(どうした)
『老人の気配が遠ざかる』
(何!?)
『奥へ連れて行かれている』
わしは通路の先を見る。
(この騒ぎに気づいて、さらに奥へ移すつもりか)
『急げ』
「……あぅ!」
わしが声を上げると、カラリンが抱く腕に少し力を込めた。
セレナがすぐにこちらを見る。
「レオン?」
わしは必死に通路の奥を指差した。
「あぅ! あぅ!」
「……あっち?」
「あぅ!」
セレナの表情が変わる。
「お爺さん?」
「あぅ!」
「分かった」
すぐに立ち上がる。
「カラリン、行こう」
「は~い~」
「こ~い~つ~ら~は~?」
カラリンが、床に拘束された仮面の者たちを指差した。
「このまま拘束しておく。帰りに回収して、引き渡し施設の責任者に渡すわ」
「俺も?」
盗人が自分を指差す。
「あなたは来るの」
「ですよね」
もはや抵抗する気すらないらしい。
「ガルド」
「行く」
返事は早かった。
ガルドは先ほど使った大剣を背負い直す。
敵を斬るためではなく。
苦しみ続けた命を土へ還すために。
初めて抜いた剣。
(……ガルド)
わしは、その大きな背中を見つめた。
小さなものは守る。
あの男は最初から、それしか言っていなかった。
王都に着いても。
仕事が終わっても。
わしのそばに残った理由は、ただ一つ。
危ないから守る。
(本当に、そのままの男なんじゃな)
セレナは手元にある黒雷石を見下ろした。
「これは……」
「持っていく」
ガルドが言う。
「でも、またレオンに何かあったら……」
「石は必要だ」
『持っていけ』
雷葬獣も同意した。
(大丈夫なんじゃな)
『ああ』
今度は。
おそらく、ではなかった。
(なら、信じるか)
セレナは黒雷石を丁寧に布で包み、荷物の中へ大切にしまった。
「行こう」
そしてわしらは、研究施設のさらに奥へと足を進めた。
◇
しばらく進むと、周囲の景色はさらに異様なものへ変わっていった。
通路の両側に並ぶ扉が増え、その先にある部屋の数も多くなっている。
人の姿はなかった。
先ほどの警報を受け、奥へ退いたのかもしれない。
だが、そこで何が行われていたのかは、残されたものを見るだけでも十分に想像できた。
人間一人が丸ごと入れそうな巨大な透明容器。
中央に置かれた金属製の台には、身体を固定するためと思われる何本もの革帯が備え付けられている。
棚には色の違う薬品が並び、壁や床には無数の管が走っていた。
そして、壁面には所々に数字が記されている。
十二。
二十一。
三十五。
四十七。
(……試作体の番号か)
先ほどの試作体四十七号。
もし、この数字がそのまま実験に使われた者たちの番号を意味しているのなら。
(少なくとも四十七……いや、それすら分からんか)
番号が何を表しているのか。
何人がここで犠牲になったのか。
今のわしらには、まだ分からない。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
セレナも同じことを考えたのだろう。
進むほど、その顔が険しくなっていく。
「誰が……こんなことを……」
「し~しょ~が~い~た~ら~」
カラリンが呟いた。
「ぜ~っ~た~い~お~こ~る~」
(確かに)
マルタなら怒る。
それはもう、間違いなく。
そこで。
わしは、ふと一人の顔を思い浮かべた。
(ライカ……)
人が作った命。
ホムンクルス。
だが、ライカは笑う。
怒る。
食べる。
遊ぶ。
そして、これから成長していく。
わしらにとっては、もう家族だ。
では。
あの老人はどうなのだろう。
百年以上。
何かの命令に従うように生き続けている。
自分を。
果たして、生きていると思っているのだろうか。
そして。
先ほど土へ還った者たちは。
(作られた命は……誰のものなんじゃ)
作った者のものか。
命令した者のものか。
違う。
(本人のものに決まっとるじゃろ)
会社を作ったからといって、社員の人生まで所有できるわけではない。
親だからといって、子供の人生を好きにしていいわけでもない。
まして。
命を作ったからといって、その命まで作った者の所有物になるはずがない。
(……胸糞悪いのう)
心の底から、そう思った。
その時だった。
先頭を歩いていたガルドが、不意に足を止めた。
「いる」
全員が止まる。
「どこ?」
セレナが尋ねる。
ガルドは無言で通路の先を見た。
そこには、一枚の扉がある。
先ほどの巨大な金属扉ほどではない。
しかし、明らかに他の部屋より厳重な造りをしていた。
『レオン』
雷葬獣の声が響く。
『老人だ』
(この中か)
『ああ』
(さっき奥へ運ばれておったはずじゃが)
『ここで止まった』
どうやら。
わしらが追いついたらしい。
わしの表情を見たセレナも察した。
「お爺さんがいるのね?」
「あぅ」
ガルドが扉へ近づく。
今度の扉には錠前がない。
代わりに、壁面へ複雑な仕掛けのような装置が取り付けられていた。
「俺、見てみようか?」
盗人が言う。
「分かるの?」
「鍵なら」
盗人は装置を覗き込み、少しだけ首を傾げた。
「……たぶん」
「たぶん?」
盗人が装置へ手を伸ばす。
だが。
指先が触れる直前だった。
『待て!』
雷葬獣が叫んだ。
(何じゃ!?)
『下がれ!』
「あぅ!」
わしが声を上げる。
その瞬間。
扉の向こうから。
声が聞こえた。
「――待て」
「…………!」
聞き覚えがある。
老人の声だった。
「触るな」
盗人の手が止まる。
「罠だ」
「爺さん!」
盗人が扉へ向かって叫ぶ。
「生きてるのか!?」
短い沈黙のあと。
「……一応な」
返事が返ってきた。
(なんじゃ、その答えは)
少しだけ安心する。
だが。
その安堵は、次の言葉ですぐに消えた。
「私を助ける必要はない」
「何言ってんの?」
セレナが扉へ近づく。
「今、開けるから!」
「開けるな」
老人が強く言った。
これまで聞いたことがないほど、はっきりとした拒絶だった。
「なぜ?」
「私は……もう長くは動けない」
扉の向こうから、金属の軋む音が聞こえた。
身体を固定している拘束具か。
あるいは。
老人自身の身体から鳴った音なのか。
わしには分からない。
「だからって――」
「それより」
老人が言葉を遮る。
「黒雷石を持っているな」
わしらは顔を見合わせた。
「……どうして分かるの?」
セレナが尋ねる。
老人は答えなかった。
代わりに。
「赤子もいるな」
わしのことだ。
「あぅ」
「やはり」
老人の声が、ほんの僅かに柔らかくなった。
「来たか」
(何がじゃ)
「何の話?」
セレナが問う。
扉の向こうから、再び金属の軋む音がした。
「第一命令」
老人が、ゆっくりと言った。
「黒雷石を探せ」
そして。
「第二命令」
わしの胸が、理由もなくざわついた。
「守れ」
老人は静かに続ける。
「百年以上、私はその命令だけで動いてきた」
声が僅かに途切れる。
「だが……」
少し長い沈黙が落ちた。
「ようやく」
老人の声が再び響く。
その声音は、これまでよりほんの少しだけ柔らかかった。
「これで」
金属が小さく軋む。
「終わりにできる」
わしは何も言えなかった。
いや。
赤子なので、そもそも言えないのだが。
それとは別に。
この老人が。
初めて。
自分自身の言葉を口にしたような気がした。
「……開けるわよ」
セレナが静かに言った。
「必要ない」
「それは、あなたが決めることじゃないわ」
「私のことだ」
「そうね」
セレナは頷いた。
「だから、開けたあとでちゃんと話しましょう」
「…………」
老人が黙る。
セレナは盗人を見る。
「罠、どうにかできる?」
「爺さんが教えてくれりゃね」
「聞こえてる?」
老人から返事はない。
「お爺さん?」
少しの沈黙。
そして。
「……右側の壁」
老人が、観念したように言った。
「下から三つ目」
「素直じゃん」
「黙れ、盗人」
「はいはい」
盗人が壁へ向かう。
ガルドが、その横へ立つ。
セレナが身構える。
カラリンは、わしを抱いたまま少し前へ出た。
そして。
わしは。
閉ざされた扉を見つめていた。
百年以上。
命令だけを頼りに動いてきた老人。
その姿を。
わしらはまだ。
何も知らない。
ただ。
なぜだろう。
扉の向こうにいる老人を。
このまま置いて帰ってはいけない。
そんな気だけは。
妙に強くしていた。




