第63話 百十歳、王都の地下で新しいものを見つけます
黒い三角形の前で、わしらはしばらく足を止めていた。
ただの落書きだと言われれば、それまでの印だった。粗い黒線を三本つないだだけで、何か特別な術式が刻まれているようにも見えない。
それでも、あの灰色の髪の女罪人の様子を思い出せば、簡単に無視することはできなかった。
――その先は、人が入る場所じゃない。
あの言葉が、妙に耳へ残っている。
「どうする?」
セレナが小さな声で尋ねた。腕の中のわしを抱き直しながらも、視線は黒い三角形の先にある暗闇へ向けたままだ。
『老人はこの先だ』
頭の奥へ雷葬獣の声が響く。
(まだ動いとるか?)
『遅いが、動いている。さらに奥へ運ばれているようだ』
(どれくらい先じゃ)
『分からぬ』
(相変わらず肝心なところは分からんのう)
『地下が乱れている』
その返事に、わしは少し意識を向けた。
(乱れている?)
『石が多すぎる。それに、我の力に似たものが混じっている』
(黒雷石か?)
『分からぬ。似た力はある。だが、同じではないものも混じっている』
どうにも嫌な言い方だった。
黒雷石そのものなら、まだ話は単純だ。ところが、雷葬獣の力に似て非なる何かまで存在しているという。
わしが考え込んでいると、ガルドが静かに前へ出た。
「行く」
セレナが彼を見上げる。
「大丈夫なの?」
「分からん」
「分からないのに?」
「老人がいる」
ガルドはそれだけ言うと、一度わしへ視線を落とした。
「行く」
(単純じゃが、こういう時は頼もしいのう)
一方、盗人は黒い三角形を見つめたまま、明らかに嫌そうな顔をしていた。
「……俺、ここまで案内したんだし、もう十分じゃない?」
「駄目よ」
セレナが即答する。
「ですよね」
「地図はこの先も覚えてるんでしょう?」
「途中まではね。ただ、この先は地図に載ってた道と違う可能性もある」
「だったら、その途中までは来てもらうわ」
「はい」
妙に素直な返事だった。
理由はすぐに分かった。
横でカラリンがにこにこしている。
「に~げ~た~ら~」
「分かってる! 土に埋めるんだろ!」
「わ~か~っ~て~き~た~ね~」
(教育が進んどる)
盗人の扱いについては少々思うところもあるが、少なくとも逃亡の心配はなさそうだった。
わしらは黒い三角形の前を通り過ぎ、その先へ進んだ。
◇
印を越えた途端、空気が変わった。
最初に気づいたのは匂いだった。
先ほどから漂っていた甘い薬品のような臭気が急に濃くなり、その奥に、何かが腐ったような生臭さが混じり始める。
「何、この匂い……」
セレナが顔をしかめた。
「く~さ~い~」
カラリンは素直に鼻をつまんでいる。
ガルドだけは表情を変えなかったが、歩みを少しだけ遅くしていた。
通路そのものは、これまでと同じ古い石造りだった。
大きな石材を隙間なく積み上げた壁。何十年、あるいは何百年という時間を経たことが分かる摩耗した床。カラリンの灯りに照らされるたび、表面に刻まれた細かな傷が浮かび上がる。
だが、少し進んだところで、わしは妙なものに気づいた。
(……なんじゃ、あれは)
古い石壁の表面を、細い金属製の管が這っていた。
一本だけではない。
二本、三本と束になり、壁へ金具で固定され、そのまま通路の奥まで伸びている。
「これ……新しいわよね?」
セレナも気づいたらしい。
盗人が顔を近づけようとしたところで、ガルドが片手を出した。
「触るな」
「分かってるよ」
盗人は拘束具のついた両手を持ち上げる。
「そもそも触りにくいし」
カラリンが光を近づけ、金属管をじっと見た。
「ま~りょ~く~、と~お~っ~て~る~」
「魔力が?」
「う~ん。でも、へ~ん~」
「どう変なの?」
「ま~ほ~う~じ~ん~み~た~い~だ~け~ど~、ち~が~う~」
(説明を聞いても分からんのう)
それでも、一つだけはっきりした。
この場所は、ただ放置されている古代遺跡ではない。
誰かが後から手を入れている。
しかも、かなり最近まで。
さらに奥へ進むほど、その違和感は強くなっていった。
古い石壁の一部に鉄板が当てられ、新しい支柱で補強されている場所がある。天井近くには見たことのない器具が取り付けられ、所々には小さな金属箱まで設置されていた。
古代の遺構の中へ、まったく別の時代のものが無理やり差し込まれている。
そのちぐはぐさが、何とも気味が悪い。
「……誰か、ここを使ってるね」
盗人が呟いた。
いつもの軽い調子が、少し消えている。
「住んでるっていうより、施設として使ってる感じね」
セレナも周囲を見回す。
(わしも同感じゃ)
前世で言えば、古い建物の地下へ勝手に設備を増設していったようなものだ。
表からは見えない。
だが、内部には人の手が入り続けている。
隠し事をする場所としては、実に都合がいい。
◇
さらに先へ進んだところで、ガルドが片手を上げた。
「止まれ」
全員が足を止める。
床に何か落ちていた。
掌ほどの大きさをした黒い金属片だった。
セレナが目を細める。
「これ……」
わしにも見覚えがある。
老人が攫われた時、襲撃者たちが使っていた黒い転移装置。その破片によく似ている。
「転移の道具?」
「たぶんね」
盗人がしゃがみ込もうとすると、またガルドが制した。
「触るな」
「分かってるって。さっきも言われたよ」
盗人が不満そうに言った、そのすぐ先には、床を擦ったような痕が残っていた。
何か重いものを引きずった跡だ。
その脇には、黒い鎖の欠片まで落ちている。
「老人を運んだ跡かもしれない」
セレナの顔から柔らかさが消えた。
『近い』
雷葬獣が言った。
(さっきより分かるか?)
『気配が強くなっている』
(生きとるんじゃろうな)
少し間があった。
『動いてはいる』
(なら、まだ間に合う)
そう考えたところで、別の疑問が浮かんだ。
老人を攫った連中は、あまりにも準備が良すぎた。
短距離転移の道具。
特殊な拘束具。
魔力を弱める杭。
そして、老人の身体だけを狂わせた黒い棒。
どれも偶然持っていたとは考えにくい。
(爺さんがホムンクルスだと知った後、急いで用意したにしては出来すぎとる)
老人の構造を知っていた。
あるいは。
似たものを扱った経験がある。
そう考えた方が自然だった。
(……どうにも嫌な話じゃ)
前世でも、外からは普通に見える会社や組織の中に、妙な部署というものは存在した。
もっとも、ここまで物騒なものではなかったが。
隠したいことがある者ほど、見える場所は綺麗に取り繕う。
それは世界が変わっても、案外同じなのかもしれない。
◇
「し~しょ~」
不意に、カラリンが呟いた。
「あ」
すぐに自分で気づく。
「マルタはいないわよ?」
セレナが苦笑する。
「……そ~だ~っ~た~」
「寂しくなったの?」
「ち~が~う~」
カラリンは頬を膨らませると、今度は真面目な顔になって周囲を見回した。
「せ~い~れ~い~が~、い~な~い~」
「いない?」
「さ~っ~き~ま~で~、ち~っ~ちゃ~い~の~い~た~」
「土の精霊?」
「そ~う~」
その言葉を聞いた瞬間、ガルドも背中の大剣へ手を添えた。
「ノーム」
短く呼びかける。
しばらく何も起きなかった。
だが。
ガルドの眉が僅かに動く。
「嫌がっている」
セレナが振り返った。
「何を?」
「この先だ」
「ノームが?」
「そうだ」
ガルドは大剣の柄へ手を置いたまま、暗い通路の奥を見つめる。
「行きたくないと言っている」
盗人の顔色が一気に変わった。
「ちょっと待って。精霊って、危ない場所も分かるの?」
「分かる」
「じゃあ帰ろう」
「駄目」
「即答やめてよ」
盗人の提案は無視された。
だが、わしも心の中では少し引っかかっていた。
ガルドの大剣に宿るノームは、長い間彼と行動している。
スケルトンの大群を前にしても。
レイスが空を埋めても。
あれほど嫌がる様子はなかった。
その精霊が、進みたくないと言っている。
(この先に、一体何がある)
『……嫌なものだ』
雷葬獣の声まで低くなる。
(分かるのか?)
『詳しくは分からぬ』
(お前さんもそればっかりじゃな)
『だが、生き物の気配が多すぎる』
(多すぎる?)
『人間がいる。獣もいる。それだけではない』
雷葬獣はそこで少し言葉を切った。
『混ざっている』
その一言で。
わしの背中に、嫌な寒気が走った。
◇
通路は、やがて一枚の大きな扉の前で途切れた。
それを見た瞬間、全員が無言になる。
扉は石ではなかった。
分厚い金属製。
しかも周囲の遺構とは比べものにならないほど新しい。
滑らかな銀色の表面には複雑な文様が刻まれ、脇には小さな箱状の装置まで取り付けられていた。
何百年も前の地下通路に、そこだけ異物のように存在している。
「地図には?」
セレナが盗人へ尋ねた。
盗人はゆっくりと首を振る。
「ない。少なくとも、俺が見た地図にはこんな扉はなかった」
「じゃあ、やっぱり後から作られたのね」
「そうだろうね」
ガルドが扉へ近づいた。
すると。
背中の大剣から、カタッ、と小さな音がした。
カラリンが目を丸くする。
「ノ~ー~ム~?」
ガルドは静かに頷いた。
「石を感じている」
その直後。
わしの胸の奥でも、何かが強く脈打った。
『レオン』
雷葬獣の声が響く。
(なんじゃ)
『黒雷石だ』
今度は。
迷いがなかった。
(この先にあるのか?)
『近い』
そして。
『老人もいる』
わしは目の前の金属扉を見上げた。
ようやく。
別々に見えていたものが、一か所へ集まり始めている。
攫われた老人。
黒雷石。
王都の地下。
古代の通路。
そして、後から造られた施設。
この扉の向こうに。
何かがある。
「ガルド」
セレナが呼ぶ。
「壊せる?」
ガルドはしばらく扉を見つめたあと、ゆっくりと背中へ手を伸ばした。
そして。
ついに。
大剣の柄を握る。
(おお)
わしの胸が少し高鳴った。
スケルトンの群れを前にしても。
石壁を壊す時ですら。
使わなかった剣。
それが。
今。
ほんの僅かに。
鞘から抜かれる。
低い音が地下へ響き。
カラリンが息を呑んだ。
ノームの気配が、一気に濃くなる。
(ついに抜くか……!)
だが。
その瞬間。
扉の向こうから。
凄まじい衝撃音が響いた。
何か巨大なものが、壁へ叩きつけられたような音だった。
続いて。
低い唸り声。
人間とも。
獣とも。
判別できない。
盗人が一歩後ろへ下がる。
「……今の、何?」
誰も。
答えられなかった。
◇
同じ頃。
扉のさらに奥。
白い光に照らされた部屋で。
老人は金属製の椅子へ固定されていた。
両腕。
両足。
首。
胸。
身体の各所を黒い拘束具が押さえつけ、僅かな動きさえ許していない。
その右手が。
小さく震える。
ギギ、と。
古い金属が擦れるような音がした。
「稼働率……十九パーセント」
老人の口から、掠れた声が漏れる。
その前に立つ白衣の男は、興味深そうに老人を覗き込んでいた。
「まだ十九パーセントも残っているのか」
男の声には。
驚きより。
喜びがあった。
「百年以上前の個体が、これだけ損耗してなお自律稼働を続けている。素晴らしい」
老人は何も答えない。
ただ。
ゆっくりと。
口を動かした。
「第一命令」
白衣の男が耳を傾ける。
「黒雷石を探せ」
「まだ命令を維持しているのか」
老人の瞳は。
どこも見ていない。
「第二命令」
男の口元が僅かに持ち上がる。
「守れ」
「何を守る?」
返事はない。
「黒雷石か?」
沈黙。
「古代の賢者たちは、お前に何を守らせた?」
沈黙。
「王都の地下に黒雷石があることを、なぜ知っていた?」
その問いに。
老人の瞳がほんの僅かに動いた。
そして。
部屋の奥で。
低い音が鳴った。
白衣の男が振り返る。
「何だ?」
壁際にいた研究員が、慌てて装置へ目を向けた。
「外部通路で反応があります」
「王都兵か?」
「違います」
「では誰だ」
研究員は表示を確認しながら、少しずつ顔を強張らせていく。
「大きな生体反応が一つ。ほかにも複数」
「数は?」
「まだ特定できません」
白衣の男が眉を寄せた。
その時。
拘束されていた老人の瞳が。
ゆっくりと。
扉のある方向へ動いた。
「接近……確認」
白衣の男が振り返る。
「何?」
老人の声は弱い。
それでも。
確かに。
何かを認識していた。
「誰が来る」
問いかけに。
老人はすぐには答えなかった。
ただ。
百年以上。
同じ命令を守り続けてきた身体の奥で。
何かが。
僅かに。
動いた。
「対象」
老人が呟く。
そして。
「――来る」




