第62話 百十歳、王都の地下へ潜ります
王都の北側を離れ、盗人に案内されるまま進んでいくと、街の景色は少しずつ変わっていった。
人通りの多い大通りや、色鮮やかな看板を掲げた商店は次第に姿を消し、代わりに増えてきたのは古びた倉庫や工房、荷車の待機所だった。建物と建物の間を縫う細い路地には黒い泥がこびりつき、昼間だというのにどこか薄暗い。
「本当にこっちなの?」
セレナが何度目か分からない確認をすると、先頭を歩いていた盗人が肩越しに振り返った。
「たぶんね」
「たぶん?」
セレナの眉がぴくりと動く。
「言っとくけど、俺が見たのは地図だからな。全部の道を実際に歩いたわけじゃない」
「それ、先に言ってよ!」
「聞かれなかったし」
悪びれる様子もない。
(こやつ、本当に案内役として大丈夫なんじゃろうな)
『信用しているのか』
雷葬獣が頭の奥で尋ねてきた。
(しておらん)
『ならば、なぜ付いていく』
(他に地下道を知っとる奴がおらんからじゃ)
少しの沈黙。
『なるほど』
(妙に納得するな)
とはいえ、世の中は信用できる相手とだけ仕事をしていれば済むほど単純ではない。
前世で会社を経営していた頃もそうだった。
相手の人格まで信用しているわけではない。それでも、その分野の技術や知識が必要なら頼らざるを得ないことがある。
(人を見る目と、能力を見る目は別じゃからのう)
「こっち」
盗人が路地を曲がった。
その先に並んでいたのは、ひときわ古い倉庫群だった。
石壁は黒ずみ、屋根はところどころ崩れている。木製の扉は傾き、長い間まともに使われていないことが一目で分かった。
「昔は軍の物資置き場だったらしい」
盗人が言う。
「今は?」
「知らない」
「知らないこと多くない?」
「泥棒は歴史家じゃないからね」
セレナが深いため息を吐いた。
その一方で、カラリンは路地へ入ってからずっと足元や壁を見回している。
「カラリン、どうしたの?」
「ん~」
彼女は地面をじっと見つめ、首を傾げた。
「つ~ち~が~、へ~ん~」
「変?」
「し~た~に~、な~ん~か~あ~る~」
その言葉を聞き、わしはガルドへ目を向けた。
ガルドもすでに何か感じていたらしく、背負った大剣へ手を添えている。
「ノーム」
短く呼びかける。
返事は聞こえない。
少なくとも、わしには。
だが、大剣の鍔近くに埋め込まれた石が、ほんの僅かに震えた。
「いる」
ガルドが言う。
「何が?」
「空洞」
太い指で足元を指した。
「広い」
盗人が目を丸くする。
「本当に分かるのか?」
「ノームが言っている」
「便利だな、その剣」
「剣ではない」
「え?」
「ノームが便利だ」
「そこ訂正するんだ」
(妙なところで律儀じゃのう)
だが、これはありがたい。
盗人の記憶だけに頼るより、地下に実際の空間があるかどうかを確かめながら進める方が、遥かに安全だ。
「入口は、この辺りのはずなんだけどな」
盗人は周囲を見回しながら歩き始めた。
「確か、屋根の欠けた倉庫の横に古井戸があって、その向かいに――」
そこで足が止まる。
「あれ?」
「何?」
「井戸がない」
セレナの表情が引きつった。
「ちょっと」
「いや、待って。昔の地図なんだから、今も同じとは限らないだろ?」
「それも先に言って!」
「仕方ないじゃん。百年単位で古い可能性だってあるんだから」
(百年?)
わしはその言葉に引っかかった。
「地図って、そんなに古かったの?」
「正確には分からない。でも紙はかなり傷んでたな。下手に触ったら破れそうなくらい」
「それを盗んだの?」
「大事そうだったから」
「本当に泥棒ね……」
なぜか盗人は少し誇らしげだった。
◇
それからしばらく、わしらは倉庫街を探し回った。
古井戸は見つからない。
屋根の欠けた倉庫は三つもある。
そして、肝心の地下への入口らしきものはどこにもなかった。
「本当にここなの?」
セレナの声に、徐々に圧が増していく。
「いや、地図では……」
「では?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「ちょっと待ってって!」
さすがの盗人も焦り始める。
その時だった。
「こ~れ~」
カラリンが一つの倉庫の壁を指差した。
「何?」
「か~べ~、あ~た~ら~し~い~」
言われてみれば、確かにそこだけ石の色が違っている。
周囲の壁は長い年月で黒ずんでいるのに、その部分だけ僅かに明るい。石の継ぎ目も、他より新しく見えた。
「塞がれてる?」
セレナが近づく。
ガルドも壁へ手のひらを当て、しばらく黙っていた。
「後から作った」
「それもノームが?」
「そうだ」
盗人も壁をじっと見つめる。
そして、しばらくして目を見開いた。
「……ここだ」
「え?」
「地図だと、この辺に地下へ降りる階段があった」
セレナが壁を見る。
「じゃあ、誰かが入口を塞いだってこと?」
「たぶん」
(また“たぶん”か)
古くなって崩れたので補修しただけかもしれない。
だが。
わざわざ地下への入口だけを塞いだと考える方が自然にも思える。
『隠したのかもしれぬ』
(わしも同じことを考えとった)
セレナが壁を軽く叩いた。
鈍い音が返ってくる。
「壊せる?」
「できる」
ガルドが前へ出た。
そして。
背中の大剣へ手を伸ばす。
(おっ)
わしの胸が少し高鳴った。
ついに。
スケルトンの群れを前にしても抜かなかった、あの大剣を使う時が来たのか。
セレナも。
カラリンも。
なぜか盗人まで。
少し期待するようにガルドの手元を見ていた。
ガルドは柄を握り。
少し考えてから。
手を離した。
「拳でいい」
「使わないのかよ!」
盗人が叫ぶ。
(わしもそう思うぞ!)
ガルドは気にした様子もなく壁の前に立った。
「離れろ」
全員が数歩下がる。
腰を落とし、拳を引く。
「ふん」
――ドンッ!
倉庫全体が揺れた。
石壁に大きな亀裂が走る。
「うわっ!」
盗人が慌ててさらに下がる。
二撃目。
亀裂が一気に広がった。
三撃目。
石壁の一部が音を立てて崩れ落ちる。
大量の埃が舞い上がった。
「ごほっ……!」
セレナがわしの顔を胸元へ隠す。
「レオン、吸わないでね」
(それより前が見えん)
しばらくして埃が収まる。
崩れた壁の向こう。
そこに。
暗闇へ向かって降りていく石の階段があった。
「……本当にあった」
セレナが小さく呟く。
盗人は得意げに鼻を鳴らした。
「だから言っただろ?」
「見つけたの、カラリンとガルドだけどね」
「案内したのは俺!」
「入~り~ぐ~ち~、み~つ~け~た~の~カ~ラ~リ~ン~」
「はいはい。みんな偉いわよ」
(子供の喧嘩じゃないんじゃから)
◇
階段を降り始めると、空気が一変した。
地上の暑さが嘘のように消え、冷たい湿気が肌へまとわりついてくる。
苔。
古い石。
僅かに淀んだ水。
地下特有の匂いが鼻についた。
一段。
また一段。
降りるたびに。
王都の喧騒が遠ざかっていく。
先頭はガルド。
その後ろを盗人。
続いてカラリン。
最後にセレナと、抱かれたわし。
「暗いね」
セレナが呟く。
「ひ~か~り~」
カラリンが指先を掲げると、小さな光が生まれた。
淡い光が石壁を照らし、長い階段の先へ伸びていく。
(便利じゃのう)
「あぅ」
「レオンもそう思う?」
(うむ)
階段は想像以上に長かった。
何十段。
いや、百段近いかもしれない。
そして。
降りるほどに。
石造りが変わっていく。
地上に近い部分は、比較的新しい。
だが。
深くなるにつれ。
石は大きくなり。
継ぎ目は少なくなり。
加工そのものが違って見えた。
「古いな」
盗人もそれに気づいたらしい。
「俺が見た地図より、ずっと古く見える」
「地図より?」
「うん。たぶん、地図が作られた時点でもう遺跡みたいな扱いだったんじゃないかな」
(ということは)
わしは照らされた壁を見つめる。
(古代の賢者の時代まで遡る可能性もあるか)
『匂いがする』
雷葬獣が言った。
(何のじゃ)
『古い力』
(お前さんのか?)
『少し似ている』
胸の奥が、小さく脈打つ。
(黒雷石か?)
『まだ遠い』
(なら何じゃ)
『分からぬ』
(相変わらず肝心なところで曖昧じゃのう)
『お前はよくそれを言う』
(事実じゃからな)
やがて。
長い階段が終わった。
その先には、左右へ伸びる石造りの通路があった。
「どっち?」
セレナが盗人を見る。
「右」
今度は即答だった。
「自信あるの?」
「ある」
「珍しい」
「信用なさすぎない?」
「今までの積み重ねよ」
盗人は不満そうにしながら右へ進む。
ところが。
十数歩も進まないうちに。
足を止めた。
「……変だな」
「何が?」
「道が違う」
セレナの眉が上がる。
「おい」
「いや、本当だって。地図ではここは真っ直ぐだったんだよ」
だが、前方には。
通路を塞ぐ石壁があった。
「また塞がれてる」
セレナが言う。
「意図的に?」
「たぶん」
ガルドが壁へ近づき、大剣へ手を添える。
しばらくして。
「向こうに空間がある」
「じゃあ、また壊す?」
セレナが尋ねる。
「待って」
盗人が壁の端へ近づいた。
「こっちに道がある」
人一人がやっと通れるほどの細い隙間。
元々の造りとは明らかに違う。
後から作られた脇道に見えた。
「こんなの、地図にはなかった」
「新しく作られたってこと?」
「少なくとも、地図が描かれた後だろうね」
(さて)
わしは雷葬獣へ意識を向ける。
(老人の気配は?)
『そちらだ』
(この細い道の先か)
『そうだ』
なら。
進むしかない。
◇
脇道はさらに狭かった。
ガルドなど、肩を少し斜めにしなければ通れないほどだ。
「狭い」
「ガルドがでかいんだよ」
「そうか」
「納得するんだ」
盗人とガルドの妙な会話を聞きながら進んでいると、不意に鼻を突く匂いがした。
「……何、この匂い」
セレナが顔をしかめる。
甘い。
薬のようでもある。
だが。
その奥に。
何か腐ったような臭いが混じっている。
「知ってる?」
「俺は知らない」
「本当に地下道しか知らないのね」
「だから案内役だって言ってるだろ!」
カラリンが壁の前で足を止めた。
「な~ん~か~、つ~い~て~る~」
「触らないでね」
「わ~か~っ~た~」
彼女が光を近づける。
最初は。
ただの汚れに見えた。
壁に残った。
黒い。
細い線。
だが。
光が当たるにつれて。
形が。
はっきりする。
三本の線。
それぞれが。
繋がっている。
「…………」
セレナの表情が強張った。
盗人も黙る。
わしも。
すぐに思い出した。
灰色の髪の女罪人が。
別れ際に言った言葉を。
――地下へ入るなら、一つだけ覚えておいて。
――壁に黒い三角形が描かれている場所を見つけても、その先には行かないこと。
カラリンの光が。
壁の印を。
はっきりと照らし出す。
黒い。
三角形。
「……本当にあったわね」
セレナが小さく呟いた。
誰もすぐには動かなかった。
あの女が。
何を知っていたのか。
なぜ、これほど強く警告したのか。
わしらにはまだ分からない。
ただ。
甘く腐った匂いだけが。
奥から。
ゆっくりと流れてくる。
ガルドが無言で前方の暗闇を見つめた。
その時。
雷葬獣の声が。
頭の奥へ静かに響く。
『老人は』
短い間。
『この先だ』
わしは壁に描かれた黒い三角形を見上げた。
(引き返せと言われた道の先に、爺さんがおるわけか)
嫌な予感しかしない。
だが。
ここまで来て。
引き返すわけにもいかない。
(……まったく)
前世なら。
危険と書かれた扉をわざわざ開ける奴を見て。
何を考えとるんじゃ。
そう呆れていたはずなのに。
(いざ自分が物語の中に入ると、開けるしかない時もあるもんじゃのう)
黒い三角形。
その先に続く暗闇。
王都の地下に隠された。
誰も近づくなと警告された場所。
その入口で。
わしらは。
しばらく。
静かに立ち尽くしていた。




