第57話 百十歳、敵の目的が変わる瞬間を見ます
「ホムンクルス……?」
黒衣の男が呟いたその言葉に、周囲の空気がわずかに張りつめた。
女罪人の拘束具へ黒い針を差し込もうとしていた男が、ゆっくりと振り返る。
「馬鹿な」
声には、明らかな動揺が滲んでいた。
「こんなところにいるはずがない」
「だが、見ろ」
老人を見つめたまま、もう一人のネクロマンサーが低く言う。
「生気がない。だが、魂が抜け落ちた死体とも違う。死霊でも屍人でもない」
老人は何も言わない。
ただ。
牢の中に静かに腰掛け、目の前の男たちを見返している。
怯えもない。
怒りもない。
そこにあるのは、あまりにも静かな反応だけだった。
その無機質さが。
かえって男たちの疑念を深めているようにも見えた。
「おい」
若い盗人が、恐る恐る口を挟む。
「何か知らんけどさ。爺さんがそんなに珍しいなら、あとでゆっくり話せばいいんじゃないか?」
「黙れ」
「はい」
即座に引っ込む。
素直である。
だが。
灰色の髪の女罪人は違った。
「何をしている」
低い声。
先ほどまでほとんど動かなかった彼女が、鉄格子へ歩み寄った。
「私を出せ」
その視線は、ネクロマンサーたちを鋭く射抜いている。
「そのために来たんでしょう」
「…………」
「早くしろ」
命令するような口調だった。
先頭の男は彼女を見る。
次に。
老人へ視線を移した。
そして、僅かに眉を寄せる。
「予定を変更する」
「……は?」
女の目が鋭くなる。
「何を言っている」
「こいつのことを報告する」
「先に私を出せ!」
「時間がない」
「ふざけるな!」
初めて。
女の声に、はっきりとした感情が宿った。
鉄格子を掴む。
魔封じの拘束具が鈍い音を立てた。
「ここまで来て、私を置いていくつもり?」
「命令の優先順位が変わった」
「そんな命令、私は知らない!」
「お前が知らなくても、こちらにはある」
ネクロマンサーの声は冷たい。
女罪人の顔が歪んだ。
怒り。
そして。
ほんの僅かに混じる、別の感情。
恐怖。
「……誰に報告するつもり」
「お前には関係ない」
「ある!」
女が吐き捨てるように言う。
「そいつが何なのか知らないけど、余計なところに知られたら面倒なことになる!」
「もうなっている」
男は老人から目を離さない。
「もし本物ならな」
「…………」
老人は。
やはり。
何も言わない。
ただ。
右手の指先が。
僅かに動いた。
握る。
開く。
それだけの仕草。
まるで。
自分の手がまだ動くことを。
確かめるように。
ネクロマンサーは。
その小さな動きを見逃さなかった。
「……やはり」
声が低くなる。
「人間じゃない」
◇
その頃。
「十九!」
セレナの放った矢が、レイスの胸に浮かぶ黒い核を正確に射抜いた。
半透明の身体が大きく歪み、耳障りな悲鳴を上げながら黒い霧へと崩れていく。
「次! 右上だ!」
「見えてる!」
マルタの声に応じ、セレナは素早く次の矢を番える。
清らかな風がレイスの身体を覆う瘴気を削ぎ落とし、その内側に潜む核を露出させる。
そこを。
セレナが射抜く。
二人の連携は見事だった。
とはいえ。
楽な戦いではない。
「まだ来るよ!」
「分かってる!」
森の上空には。
次から次へとレイスが浮かび上がってくる。
一方。
地上では。
――ゴシャッ!
ガルドの拳が、また一体のスケルトンを粉砕した。
――ブォンッ!
太い尻尾が一閃し、三体ほどの骨兵がまとめて森へ吹き飛ぶ。
それでも。
まだ出てくる。
(いくら何でも多すぎるじゃろ)
わしは馬車の中から戦況を眺めていた。
カラリンの作った土壁に守られているとはいえ、とても安心できる状況ではない。
(これだけの数を操っているとなれば、術者も一人や二人ではなさそうじゃな)
『近くにいる』
雷葬獣の声が頭の中へ響く。
(分かるのか?)
『濁った気配が複数ある』
(場所は?)
『そこまでは分からぬ』
(惜しいのう)
『何がだ』
(何でもない)
わしは再び戦場へ目を戻した。
ガルドは問題ない。
というより、あそこだけ別の戦場である。
マルタも清風を維持している。
額に僅かな汗は滲んでいるが、まだ余力はありそうだ。
問題は。
セレナ。
(矢が少なくなってきたな)
矢筒へ手を伸ばす動きが。
先ほどより目立ち始めている。
そして。
カラリン。
「……っ」
地面へ両手を向けながら、僅かに息を吐いた。
額には汗。
呼吸も。
少しだけ荒い。
馬車を守る。
馬を守る。
罪人を守る。
わしを守る。
その上で、突破してくるレイスの足止めまでしている。
さすがに負担が大きい。
(長引くとまずいのう)
そう思った。
まさに。
その時だった。
――ふっ。
「…………?」
セレナが狙っていたレイスの輪郭が。
突然。
薄くなった。
「え?」
弓を構えたまま。
セレナが目を見開く。
レイスの姿が霧のように揺らぎ。
そのまま消えた。
一体だけではない。
二体。
三体。
上空にいたレイスたちが。
次々に消えていく。
「なに……?」
マルタも異変に気づき、杖を僅かに下げる。
同時に。
地上でも。
異変が起きた。
ガルドの拳が振り下ろされる直前。
一体のスケルトンが、突然崩れ落ちた。
骨が。
からからと。
地面へ散らばる。
次の一体。
その次。
次々に。
立っていた骨の兵士たちが、ただの骨へと戻っていく。
「…………」
ガルドが拳を止めた。
ほんの数秒。
それだけで。
あれほど街道を埋め尽くしていた敵が。
消えた。
残ったのは。
散乱する骨。
倒れた武器。
そして。
不自然なほどの静けさ。
「……終わった?」
セレナが弓を下ろす。
「違うね」
マルタが即座に否定する。
「逃げたんだ」
「術者が?」
「ああ」
セレナは森を見回した。
「でも……どうして?」
こっちは。
まだ誰一人倒れていない。
ガルドはむしろ元気そうだし。
マルタにも。
セレナにも。
カラリンにも。
致命的な消耗はない。
「だから変なんだよ」
マルタの目が鋭くなる。
「あれだけの数を用意しておいて、何の成果もないまま退くと思うかい?」
ガルドが森へ視線を向けた。
「追うか」
「やめときな」
マルタは即答した。
「森の中にどれだけいるか分からない。こっちは護送中だ」
「分かった」
ガルドは素直に引く。
セレナも弓を下ろした。
だが。
表情は晴れない。
「……何が目的だったの?」
「それを確かめるのが先だね」
マルタの視線が。
護送馬車へ向く。
「カラリン」
「は~い~」
「壁を下げな」
「わ~か~っ~た~」
カラリンが両手をゆっくり下ろす。
すると。
馬車の左右を守っていた土壁が崩れ始めた。
固く盛り上がっていた土が、地面へ戻っていく。
その向こう。
「……あれ?」
元監視員が眉を寄せた。
馬車の脇。
土が。
妙に踏み荒らされている。
一人分ではない。
複数人分。
さらに。
黒く細い何かが地面へ落ちていた。
マルタが手を伸ばす。
「針?」
「触るな!」
元監視員が叫ぶ。
「分かってるよ」
マルタは直接触れず、魔力でそれを浮かせた。
細い。
黒い。
金属製の針。
先端には、僅かに紫色の液体が付着している。
マルタの表情が変わった。
「……呪具だね」
「何の?」
セレナが聞く。
「拘束を壊すためのものさ」
その言葉に。
全員の視線が。
馬車の中へ向いた。
マルタは。
灰色の髪の女罪人を見る。
「なるほどね」
静かな声。
「狙いはあんただったか」
「…………」
女は何も答えない。
「違うかい?」
「…………」
「まあ、答える義理はないか」
「あります」
元監視員が低く言った。
「俺には」
そう言って馬車へ近づく。
「何があった」
若い盗人が。
すぐに答えた。
「黒いローブの連中が来た」
「何人だ」
「三……いや、四人だったかな」
「何をした?」
「そこの姉ちゃんを助けようとしてた」
女罪人が。
盗人を睨む。
「余計なことを言うな」
「俺は国家に協力する善良な犯罪者なんでね」
「善良な犯罪者って何だ!」
元監視員が頭を抱える。
盗人は肩をすくめた。
「で?」
「で?」
「その後だ。どうなった」
「ああ……」
そこで。
盗人の顔から。
少しだけ。
軽さが消えた。
「途中でやめた」
「……何?」
「姉ちゃんを出すのを」
「どうしてだ」
「それが……」
盗人は言い淀む。
そして。
ちらりと。
老人を見る。
「そこの爺さんを見てからだ」
「…………」
その場の視線が。
一斉に。
老人へ集まった。
セレナが小さく呟く。
「お爺さんを?」
盗人が口を開きかけた。
だが。
それより早く。
「何もない」
声がした。
老人だ。
「…………」
場が静まる。
元監視員が老人を見る。
「何もない?」
「奴らは」
老人は淡々と言った。
「私を見て」
僅かな間。
「去った」
「何を見た」
「私だ」
短い答え。
セレナの顔が強張る。
マルタも目を細めた。
「それだけで?」
「それだけだ」
「助けに来た相手を置いて逃げたっていうのかい」
マルタは女罪人へ視線を移す。
「ずいぶん薄情な連中じゃないか」
「仲間じゃない」
女が吐き捨てるように言った。
「……何?」
「私とあいつらは仲間じゃない」
「じゃあ何だい」
「…………」
答えはなかった。
ただ。
女は唇を強く噛んだ。
(何かあるな)
あのネクロマンサーたちは。
確かに女を助けようとしていた。
だが。
老人を見た瞬間。
目的を変えた。
(あの老人の何を見た?)
『レオン』
雷葬獣の声。
(何じゃ)
『奴らが近づいた時』
僅かな間。
『あの老人の気配が変わった』
(どういうことじゃ)
『ほんの一瞬だ』
雷葬獣が続ける。
『眠っていた何かが、起きたように感じた』
「…………」
わしは。
老人を見る。
老人も。
こちらを見る。
目が合う。
(やはり)
普通の老人ではない。
それだけは。
もはや間違いない。
◇
街道へ散らばった骨を道の端へ寄せ。
壊れた荷具を直し。
馬を落ち着かせ。
再び出発できるようになるまで。
思った以上に時間がかかった。
「矢、かなり使っちゃった……」
セレナが矢筒を覗き込み、困った顔をする。
「次の宿場で補充しな」
マルタが言う。
「売ってるかな」
「街道沿いならあるだろ」
「なかったら?」
マルタはガルドを指差した。
「全部あいつに殴ってもらう」
「任せろ」
「即答しないでよ」
セレナが苦笑する。
「だ~い~じょ~う~ぶ~」
カラリンもガルドを見上げる。
「け~ん~も~あ~る~し~」
「使わん」
「な~ん~で~」
「弱い」
「敵が?」
「そうだ」
(あの大剣の出番はいつ来るんじゃ)
ドワーフが鍛え。
ノームが宿り。
マルタ曰く国宝級。
だというのに。
未だ一度も。
鞘から抜かれてすらいない。
(……本気であれを使う相手が出た時の方が怖いのう)
そんなことを考えていると。
セレナがわしを抱き上げた。
「怖かった?」
(全然)
「怖かったよね」
(決めつけるでない)
「よしよし」
(聞け)
頭を撫でられる。
仕方ない。
黙って受け入れる。
しかし。
途中で。
セレナの手が止まった。
視線。
老人へ。
「……レオン」
(何じゃ)
「近づいちゃ駄目だからね」
(分かっとる)
「絶対よ」
(分かっとるわい)
セレナは。
わしの返事が分かったかのように。
小さく頷いた。
「出るぞ!」
元監視員が御者台から声を上げる。
馬車が。
再び動き出した。
骨だらけの街道を離れ。
王都へ向けて。
ゆっくりと進んでいく。
誰も。
気づかなかった。
その頃。
街道から少し離れた森の奥を。
四つの黒い影が。
足早に走っていた。
◇
「急げ」
先頭の男が低く言う。
「予定を変更する」
「女はどうする」
「後回しだ」
「随分怒るぞ」
「知るか」
木々の間を。
黒衣が走る。
「それより」
一人が息を切らせながら言った。
「本当に、あれが……」
「間違いない」
「だが、あんなものが残っているなんて……」
「だからこそ報告する」
先頭の男の手には。
小さな黒い石板が握られていた。
指を滑らせる。
淡い紫色の文字が浮かび上がる。
――古い人造生命体を確認。
男は一度指を止めた。
そして。
もう一文。
――稼働状態にある。
「……送るぞ」
短い言葉。
石板が。
僅かに光る。
そして。
文字が消えた。
「これでいい」
「連中が動くな」
「ああ」
男は一度だけ振り返る。
すでに。
街道は見えない。
木々の向こう。
さらにその先。
護送馬車は。
王都へ向かっている。
「面白くなってきた」
誰に聞かせるでもなく。
男が呟く。
「百年以上動き続ける人造生命体……」
口元が。
僅かに。
歪む。
「欲しがらない奴の方が少ない」
その声は。
深い森の中へ溶けて。
消えていった。




