第56話 百十歳、怪物の咆哮を聞きます
ガルドの太い尻尾が、ゆっくりと持ち上がった。
背中の大剣には、もう手をかけていない。
森の奥からは、錆びた剣や欠けた盾を手にしたスケルトンたちが次々と姿を現していた。ざっと見ただけでも三十体は下らない。
それでもガルドは、まるで道端の小石でも眺めているかのように、わずかにも動じていなかった。
「スケルトンごときには――」
丸太のような脚で大地を踏みしめる。
――ズン。
その重みに耐えきれず、土が僅かに沈んだ。
「こいつは役不足だな」
背負った大剣へ、ほんの一瞬だけ視線を送る。
そして次の瞬間。
――ブォンッ!
空気が鳴った。
「っ!?」
セレナが反射的に身を引く。
ガルドの尻尾が、地面すれすれを猛烈な勢いで薙ぎ払ったのだ。
先頭にいたスケルトンたちは、避ける暇すらなかった。
骨が砕け、鎧がひしゃげ、握られていた剣が宙を舞う。
ただ一度の薙ぎ払いで、十体近いスケルトンがまとめて吹き飛ばされた。
「…………」
(……おいおい)
わしは思わず目を見開いた。
「つ~よ~」
カラリンが、ぽつりと呟く。
まったくの同感である。
だが、驚くのはまだ早かったらしい。
仲間が粉々になったところで、スケルトンに恐怖などあるはずもない。
残った骨の兵士たちは、一斉にガルドへと殺到した。
正面から三体。
左右から二体ずつ。
錆びた剣を振り上げ、同時に襲いかかる。
それでもガルドは避けなかった。
むしろ自ら前へ踏み込んだ。
「ぬんっ!」
――ゴッ!
鈍い音が響いた。
兜に覆われたガルドの額が、真正面からスケルトンの頭蓋骨へ叩き込まれる。
頭突き。
ただ、それだけだった。
だというのに。
頭蓋骨は兜ごと粉々に砕け散った。
ガルドはその勢いのまま隣の一体へ向き直り、再び頭突きを叩き込む。
――バキン!
さらにもう一体。
――ゴシャッ!
まるで乾いた薪でも割るかのように、次々と頭蓋骨を打ち砕いていく。
(……何じゃ、こやつ)
昨日。
わしの頭を、あれほど慎重に撫でていた男と同一人物とは到底思えん。
『強い』
雷葬獣が、感心したように呟いた。
(見れば分かるわい)
その時。
ガルドの背後から二体のスケルトンが同時に飛びかかった。
「ガルド!」
セレナが叫ぶ。
だが、ガルドは振り返らない。
代わりに。
背中を覆っていたマントが大きく膨らんだ。
――バサァッ!
「……え?」
セレナの目が見開かれる。
マントの下から現れたのは、巨大な一対の翼だった。
深い緑色の鱗に覆われた、分厚く力強い翼。
それが一気に左右へ広がる。
(羽まであったんか!?)
わしまで驚いた。
大きく開かれた翼に弾かれ、背後から襲いかかっていた二体のスケルトンが宙を舞う。
そして。
ガルドは地面を踏みしめた。
太い脚が土を抉る。
セレナの胴ほどもある両腕を、左右へ大きく広げる。
「…………」
その瞬間。
空気が変わった。
何かが来る。
そう直感した。
ガルドは大きく息を吸い込む。
分厚い胸が大きく膨らみ――
「ウオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!」
咆哮。
森そのものが震えた。
木々の葉が一斉に揺れ、枝に止まっていた鳥たちが慌てて飛び去っていく。
馬たちも一瞬身体を強張らせた。
だが、不思議なことに暴れ出すことはなかった。
むしろ。
先ほどまで怯えていた馬たちの足が、次第に落ち着いていく。
「……何、これ」
セレナも目を丸くしている。
わしも同じだった。
胸の奥が、妙に熱い。
怖くない。
むしろ。
力が湧いてくる。
自分まで強くなったような錯覚すら覚えた。
『鼓舞だ』
雷葬獣が言う。
(鼓舞?)
『敵の戦意を削ぎ、味方を奮い立たせる』
(雄叫びだけでか?)
『おそらく、あの者の種族が持つ力だ』
敵の方を見る。
確かに。
スケルトンたちの動きが、一瞬だけ鈍っていた。
骨の兵士に恐怖心などないはずだ。
だが。
術者との繋がりが乱れたのか。
まるで操り糸が一瞬緩んだように、動きが止まっている。
「今だ」
ガルドが低く呟いた。
そして。
駆けた。
「……速っ」
セレナの口から、思わず声が漏れる。
巨体からは想像もできない速度だった。
大地を蹴るたびに土が跳ね上がる。
最初の一体へ拳を叩き込む。
――ゴシャッ!
胸骨が粉砕された。
次の一体の腕を掴むと、そのまま振り回し、別のスケルトンへ叩きつける。
――バキィッ!
二体まとめて崩れ落ちた。
さらに蹴り。
盾を構えた一体へは、避けることすらせず真正面から肩をぶつける。
――ゴンッ!
盾ごとスケルトンが吹き飛び、地面を転がった。
(……大剣)
わしは、ふとガルドの背中を見た。
ちゃんとある。
一度たりとも抜かれていない。
(本当に要らんかったのう……)
そこから先は。
もはや戦いとは呼べなかった。
一方的な蹂躙だった。
◇
「……任せていいみたいね」
セレナが、半ば呆れたように言った。
「地上はね」
マルタも杖を握ったまま、ガルドの暴れっぷりを眺めている。
「ありゃ、私らが混ざる方が邪魔だよ」
「そ~う~だ~ね~」
カラリンも素直に頷いた。
セレナは一度わしを見下ろし、すぐにカラリンへ視線を向けた。
「カラリン。レオンお願い」
「は~い~」
(おい)
わしはセレナの腕からカラリンへと渡される。
「だ~い~じょ~う~ぶ~」
(それは分かっとる)
カラリンに抱きかかえられながら、わしは少し不満だった。
だが。
その判断は正しかった。
直後。
空気が急激に冷えた。
「…………?」
わしは空を見上げる。
森の上。
木々の隙間。
そこに。
何かがいた。
半透明の人影。
黒い靄を全身にまとい。
顔すら判別できない。
それでも。
かつて人だった何かだということだけは分かる。
「レイス……!」
セレナの表情が引き締まった。
一体。
二体。
いや。
もっといる。
木々の上。
枝の隙間。
空中。
次々と半透明の影が浮かび上がっていく。
十。
二十。
それ以上。
「チッ」
マルタが舌打ちした。
「そっちが本命かい」
レイスたちは音もなく高度を落とし、こちらへ近づいてくる。
物理攻撃が通りにくい相手。
いくらガルドが強くとも、スケルトンと同じようにはいかない。
そのガルドも、地上の骨を粉砕しながら上空へ視線を向けた。
「幽体か」
「ガルド!」
マルタが叫ぶ。
「そっちは私らがやる! 地上を潰しな!」
「分かった」
短い返事。
ガルドは再びスケルトンの群れへ突っ込んでいく。
マルタは杖を掲げた。
「セレナ!」
「何!?」
「よく見な!」
その瞬間。
森を吹き抜けていた風とは違う。
清らかで。
澄み切った。
柔らかな風が巻き起こる。
「――清風よ」
マルタの声音が低くなる。
「穢れを剥がしな」
風がレイスたちを包み込んだ。
「ギィィィィィ……!」
耳障りな声が響く。
レイスの身体を包んでいた黒い靄が、少しずつ削ぎ落とされていく。
そして。
半透明の胸の奥。
小さな黒い塊が浮かび上がった。
「……見えた」
セレナが呟く。
「セレナ!」
マルタが叫ぶ。
「見えるね!?」
セレナは答えなかった。
弓を構える。
弦が張る。
そして。
――ヒュンッ!
放たれた矢は、一直線に空を裂いた。
レイスの胸。
その中心に浮かぶ核を正確に射抜く。
「ギャアアアアッ!」
絶叫。
半透明の身体が崩れ、空気へ溶けるように消えていった。
「見えてる!」
ようやくセレナが答える。
だが、その時にはもう二本目の矢を番えていた。
――ヒュッ!
二体目。
――ヒュン!
三体目。
一体ずつ。
確実に。
核だけを射抜いていく。
「う~ま~い~」
カラリンが感心したように言う。
(お前さんも見ている場合ではなかろう)
「わ~か~っ~て~る~」
(……聞こえたんか?)
そんなはずはないのだが。
カラリンはわしを馬車の中へ座らせると、その場で両手を地面へ向けた。
「こ~こ~に~い~て~ね~」
(嫌な予感がする言い方じゃな)
「つ~ち~よ~」
直後。
地面が震え始めた。
――ゴゴゴゴゴ……。
馬車の左右から土が盛り上がり、次々と壁を作っていく。
一枚。
二枚。
三枚。
完全に囲うわけではない。
馬が動けるだけの隙間を残しながら、盾のように配置していく。
「こ~れ~で~」
カラリンがにこりと笑う。
「だ~い~じょ~う~ぶ~」
(頼もしいのう)
確かに。
これなら馬車と馬は守れる。
だが。
問題が一つあった。
敵の数が。
あまりにも多い。
◇
地上ではガルドが圧倒している。
それでも。
森の奥からは、まだスケルトンが現れる。
どこからこれほどの骨を集めてきたのかと呆れるほどだ。
上空では。
セレナが一体ずつ確実にレイスを仕留めている。
しかし。
こちらも数が減らない。
「キリがない!」
セレナが矢を放ちながら叫ぶ。
「分かってるよ!」
マルタも清風を維持したまま周囲を睨む。
「術者がいる!」
「どこ!?」
「分かりゃ苦労しない!」
その時。
一体のレイスが大きく迂回し、土壁を越えて馬車へ迫った。
「カラリン!」
「は~い~!」
カラリンが地面へ手を向ける。
壁の一部がせり上がり、鋭い突起となってレイスの進路を塞ぐ。
実体を持たない相手。
倒せはしない。
だが。
一瞬。
動きを止めるには十分だった。
――ヒュンッ!
そこへセレナの矢が飛び。
レイスの核を射抜く。
「……っ」
カラリンが小さく息を吐いた。
額には、うっすらと汗が滲んでいる。
「カラリン?」
「だ~い~じょ~う~ぶ~」
そうは言うが。
無理をしている。
馬車。
馬。
罪人。
そしてわし。
全部を守りながら。
レイスへの対処までしている。
いくらカラリンでも負担が大きい。
(まずいのう)
わしは周囲を見回した。
ガルドは地上。
マルタはレイスを弱らせる風の維持。
セレナは射撃。
カラリンは防御。
全員。
手が塞がっている。
(……これは)
前世。
会社を経営していた頃の記憶が蘇る。
いくら優秀な人材を揃えても。
一人一人へ仕事を抱えさせすぎれば。
必ずどこかに穴ができる。
そして。
その穴を。
敵が見逃すはずもない。
ぞくり。
嫌な感覚が背筋を走った。
その頃。
馬車の反対側。
土壁が作り出した死角で。
黒い影が。
一つ。
動いた。
◇
「…………」
最初にそれへ気づいたのは、若い盗人だった。
鉄格子の向こう。
土壁と馬車の間にできた僅かな隙間。
そこを。
黒いローブ姿の男が静かに歩いてくる。
「おい」
盗人が声を上げる。
だが。
外では戦闘の音が響いている。
誰も気づかない。
「おいおい」
声を少し大きくする。
「お客さんだぞ」
その言葉に。
灰色の髪の女罪人がゆっくりと顔を上げた。
「…………」
黒いローブ。
一人。
さらに。
二人。
三人。
土壁の死角を利用して、こちらへ近づいてくる。
女の目が細くなる。
「……遅い」
小さく。
そう呟いた。
「随分苦労した」
先頭の男が低い声で答える。
「お前のせいでな」
「頼んでない」
「そう言うな」
男は懐から黒い針のようなものを取り出した。
鍵ではない。
もっと禍々しいものだ。
「その封印」
男の口元が歪む。
「外してやる」
「早くしろ」
盗人は、さっと牢の端へ身を寄せた。
「うわぁ……俺、関係ないからな」
「黙っていろ」
「はい」
素直である。
だが。
その場に。
一人だけ。
まったく反応しない者がいた。
老人。
「…………」
いつも通り。
ただ静かに座っている。
先頭のネクロマンサーは女の牢へ近づき、鉄格子へ手を伸ばした。
その時だった。
「…………?」
一人の男が。
ふと。
足を止めた。
「どうした」
仲間が振り返る。
返事はない。
男の視線は。
老人へ。
向いていた。
「……おい」
「何だ」
「あの爺さん」
その言葉に。
老人がゆっくりと顔を上げる。
ネクロマンサーと。
老人。
二人の目が合った。
「…………」
しばらく。
沈黙。
そして。
ネクロマンサーの顔から。
少しずつ。
表情が消えていった。
「……妙だ」
「何がだ」
男は答えない。
老人へ。
一歩。
近づく。
「生気が……ない」
「は?」
盗人が眉を寄せた。
女罪人も。
老人を見る。
ネクロマンサーはさらに目を細めた。
彼らは。
死を知っている。
死人を操る。
死霊を使役する。
だからこそ。
生きている者と。
死んでいる者の違いを。
誰よりもよく知っている。
「いや……」
男の声が。
僅かに震えた。
「違う」
「何が違う」
「死んでいるわけじゃない」
「何を言っている?」
老人は何も言わない。
ただ。
見ている。
「生きていない」
ネクロマンサーが呟く。
その場の空気が。
僅かに変わる。
「だが……」
一歩。
後ろへ下がる。
「死体でもない」
「…………」
老人は無言。
その瞳が。
ほんの僅かに。
細められた。
ネクロマンサーの喉が鳴る。
まるで。
信じたくない答えへ。
辿り着いてしまったかのように。
「まさか……」
そして。
ほとんど独り言のように。
呟いた。
「ホムンクルス……?」




