第50話 百十歳、師匠を売ることになりそうです
孤児院へ戻った頃には、空はすっかり夜の色に沈んでいた。
長い一日だった。
雷葬獣。
虚喰らい。
十二の楔。
百年以上前から続く因縁。
そして、古代の鎧が最後に差し出した、自らの心臓。
あの模造黒雷石のおかげで、封印はひとまず安定した。
もっとも、安心できるような状況ではない。
古の賢者が作った模造品は、本物の黒雷石ほど強くない。いつ砕けるかも分からず、雷葬獣からも「早急に次の楔を探せ」と念を押されている。
それでも。
少なくとも今すぐ世界が終わる、という状況からは抜け出した。
だからこそ。
孤児院へ戻ってきた瞬間。
わしらは、もう一つの問題を思い出すことになった。
「…………」
食堂の机の上に、一枚の紙が置かれている。
立ち退き通知。
セレナは椅子に腰を下ろしたまま、随分と長い間それを見つめていた。
「……完全に忘れてた」
ぽつりと呟く。
(まあ、世界が滅びかけとったからのう)
無理もない。
だが。
だからといって放っておける話でもなかった。
ここはただの古びた建物ではない。
ロイがいて。
ミナがいて。
リリがいて。
ライカがいる。
そして。
わしらが帰ってくる場所だ。
「期限は?」
マルタが尋ねた。
「あと十日」
「買い取るなら?」
「……金貨三十枚」
「手持ちは?」
「三枚」
「…………」
マルタが鼻から長く息を吐いた。
「あと二十七枚か」
「分かってるわよ」
「聞いただけだよ」
セレナは露骨に嫌そうな顔をした。
(それでも十分厳しいのう)
金貨三十枚。
以前より遥かに現実的な数字ではある。
だが。
十日で二十七枚を用意しろと言われれば、やはり簡単な話ではない。
◇
「でもさ」
ロイが机へ身を乗り出した。
「本当に、金さえ払えばここに残れるんだろ?」
「今のところはね」
セレナが答える。
「だったら何とかすればいいじゃん」
「簡単に言わないで」
「俺も働く」
「十日で金貨二十七枚稼げる仕事を知ってるなら、あたしにも紹介しな」
マルタの言葉に。
ロイは口を閉じた。
「……ないの?」
「あると思うかい?」
「…………」
静かに座り直した。
ミナも不安そうに通知書を見ている。
リリはライカの隣へぴったりと寄り添っていた。
そんな子供たちを見て。
セレナの表情が僅かに曇る。
「……なんとかするから」
その言葉は。
子供たちへ向けたものというより。
自分自身へ言い聞かせているように聞こえた。
◇
「その前に、一つ確認しておきたい」
リーナが静かに口を開いた。
全員の視線が彼女へ集まる。
「この土地が狙われたの、本当に偶然だと思う?」
「どういう意味?」
セレナが眉を寄せた。
「地下よ」
一言。
それだけで。
食堂の空気が変わった。
(やはりそこか)
孤児院の地下。
そこには、黒雷石の原石が眠っている。
ただし。
掘り出しただけでは楔として使えない。
古の賢者が施していた加工が必要で、今のわしらにはその方法が分からない。
「加工できないなら」
セレナが言った。
「今は使えないんでしょ?」
「ああ」
マルタが頷く。
「だからって、価値がないわけじゃない」
「…………」
「加工法が見つかるかもしれない。別の使い道が分かるかもしれない。それに何より」
そこで。
マルタの声が少し低くなった。
「あたしたちの手元にあること自体が、向こうにとって都合が悪い」
セレナの顔つきが変わる。
「向こうって……」
「立ち退きを進めていたエルフどもの、その後ろにいる奴らさ」
◇
思い返してみれば。
最初から妙だった。
孤児院そのものに、そこまで価値があるとは思えない。
建物は古い。
土地だって。
この辺りでは特別広いわけでもない。
それなのに。
わざわざセレナたちを立ち退かせようとしていた。
(目的は建物ではない)
地下。
そこにある黒雷石の原石。
おそらく。
そちらが本命だ。
「じゃあ」
ロイが不安そうに聞く。
「立ち退かせに来た奴らは、エルフの里の内通者の仲間ってこと?」
「使い走りかもしれないけどね」
マルタが答える。
「少なくとも、単独で動いてるとは考えにくい」
「何のために?」
「そこは推測になる」
マルタは、そこで一度言葉を切った。
「ただ」
机へ指を置く。
「楔を減らしたがっている奴がいる」
一つ。
「雷葬獣の封印を崩したがっている」
二つ。
「虚喰らいを地上へ近づけたい」
三つ。
「そして」
少しだけ。
目を細める。
「雷葬獣と虚喰らいをぶつけたい」
部屋が静まり返った。
「……世界を滅ぼしたいの?」
セレナが聞く。
「さあね」
マルタは肩を竦める。
「純粋な破滅願望かもしれない」
「あるいは」
リーナが続けた。
「二つを戦わせて、弱ったところで何かをするつもりなのかも」
「戦争を起こしたいのかもしれないし」
マルタが言う。
「混乱そのものが目的なのかもしれない」
(まだそこまでは分からんか)
だが。
一つだけ。
はっきりした。
(孤児院を手放すわけにはいかん)
◇
「……絶対に渡さない」
セレナが通知書を握った。
「ここは守る」
「金貨三十枚」
マルタが即座に返す。
「分かってるわよ」
「あと二十七枚」
「だから分かってるって!」
(現実は厳しい)
世界を救う話。
虚喰らいをどうするか。
黒雷石をどこで探すか。
それだけでも頭が痛いのに。
今度は。
金貨二十七枚。
前世なら。
資金繰り。
銀行。
取引先。
色々と方法はあった。
しかし。
赤ん坊の今。
(銀行も会社もないからのう)
困った。
その時だった。
「まあ」
マルタが。
やけにあっさりした声で言った。
「金なら作れるけどね」
「本当!?」
セレナが顔を上げる。
「ああ」
「どうやって?」
「簡単だよ」
マルタが。
ある一点へ視線を向けた。
全員。
つられる。
「…………?」
そこにいたのは。
ライカだった。
◇
「こいつを売る」
「「「はあ!?」」」
セレナ。
ロイ。
ミナ。
三人の声が見事に重なった。
「絶対ダメ!」
ロイが椅子を蹴る勢いで立ち上がる。
「ライカは家族だ!」
「そうよ!」
ミナも負けじと叫ぶ。
リリに至っては。
ライカへ飛びついた。
「だめ!」
「ちょっと待ちな!」
今度はマルタが慌てる。
「誰も本当に売るとは言ってないだろ!」
「今言った!」
「値段の話だよ!」
「同じでしょ!」
セレナまで加勢する。
「違う!」
「同じよ!」
(珍しくマルタが劣勢じゃ)
ライカ本人だけは。
何が起きているのか分からないように。
自分を指差した。
「ワタシヲ、ウリマスカ?」
「ああ」
「マルタ!」
「だから最後まで聞きな!」
マルタが苛立ったように頭を掻く。
「完成型のホムンクルスなんて、今じゃ滅多に存在しないんだよ」
ライカを見る。
「自律思考」
「魔力炉の安定」
「自己学習」
「身体変形」
「これだけ揃った個体なら」
一拍。
「金貨百枚でも安い」
「…………」
食堂が静かになった。
(そんなにするのか)
わしも。
少し驚いた。
マルタは鼻を鳴らす。
「だから、資産価値の話をしただけだ」
「でも」
リリが。
ライカを抱き締めたまま。
マルタを見る。
「売らない?」
「売らないよ」
「絶対?」
「絶対」
「……よかった」
リリが。
さらに強く。
ライカへ抱きつく。
「…………」
ライカは。
ほんの少しだけ。
目を伏せた。
そして。
リリの頭へ。
ゆっくり。
手を置いた。
(こいつも随分変わったのう)
最初は。
命令しか理解しなかった。
今は。
家族。
というものを。
少しずつ。
覚えている。
◇
「し~しょ~」
騒ぎが。
ようやく収まりかけた頃。
カラリンが。
ぽつりと声を上げた。
「何だい」
「そ~う~だ~」
ぽん。
と。
小さな手を合わせる。
「売~ろ~う~!」
「絶対ダメ!」
ロイが即座に叫んだ。
「い~や~」
カラリンが首を振る。
「ラ~イ~カ~じ~ゃ~な~い~」
「じゃあ何を売るのよ」
セレナが尋ねる。
カラリンは。
ゆっくり。
ある人物へ。
顔を向けた。
「し~しょ~」
「…………」
マルタ。
固まる。
「……は?」
セレナ。
ロイ。
ミナ。
リーナ。
ライカ。
リリ。
そして。
わし。
全員の視線が。
マルタへ集まった。
「何であたしを見るんだい」
「し~しょ~を~」
カラリンは。
にっこり笑う。
「売~ろ~う~」
「お前、人を何だと思ってるんだい!」
(お前が言うか)
今度こそ。
全員。
同じことを思ったらしい。
何とも言えない視線が。
マルタへ集まる。
「何だい、その目は!」
「いや」
セレナが。
若干引き気味に。
「さっきライカを……」
「あれは価値の話だ!」
「ラ~イ~カ~は~」
カラリンが聞く。
「物~?」
「…………」
マルタ。
止まる。
「家~族~?」
「…………家族だよ」
「じゃ~あ~」
満足そうに。
カラリンが頷く。
「し~しょ~も~家~族~」
「だから何で売るんだい!」
(この師弟)
強い。
色々な意味で。
◇
「でも」
リーナが首を傾げた。
「マルタを売るって、誰に?」
「王~都~」
「王都?」
「う~ん~」
カラリンは。
マルタを見る。
「し~しょ~」
「王~都~か~ら~」
「士~官~の~は~な~し~」
「来~て~た~よ~ね~?」
「…………」
マルタの表情が。
完全に止まった。
(ほう)
初耳だった。
「士官?」
セレナも。
目を丸くする。
「違う」
マルタが即答した。
「で~も~」
「違う」
「手~紙~」
「来~て~た~」
「来てない」
「三~通~」
「…………」
「今~年~だ~け~で~」
「三~通~」
「カラリン」
「は~い~」
「お前、あたしの手紙を勝手に読んだね?」
「机~の~う~え~に~」
「あ~っ~た~よ~」
「それを勝手に読むって言うんだよ!」
◇
「ちょっと待って」
セレナが。
揉め始めた師弟の間へ入る。
「本当に王都があなたを欲しがってるの?」
「まあね」
「何で断ってるの?」
「宮仕えなんて面倒だからだよ」
即答だった。
「研究時間は減る」
一つ。
「どうでもいい会議が増える」
二つ。
「貴族の相手」
三つ。
「式典」
四つ。
「報告書」
五つ。
そこで。
マルタは顔をしかめた。
「地獄じゃないか」
(分からんでもない)
会社が大きくなれば。
自由になる。
昔は。
そう思っていた。
実際には。
仕事が。
もっと増えた。
立場が上がれば。
好き勝手できる。
そんな単純な話ではない。
◇
「で~も~」
カラリンが続ける。
「王~都~は~」
「し~しょ~が~」
「ほ~し~い~」
「……まあね」
「こ~っ~ち~は~」
「お~か~ね~」
「ほ~し~い~」
「…………」
「だ~か~ら~」
カラリンが。
何でもないことのように。
言った。
「交~換~」
「…………」
(なるほど)
わしは。
思わず。
カラリンを見る。
(こやつ)
意外と。
商売の才能が。
あるのではなかろうか。
「仮に士官するとしても」
マルタが嫌そうに言う。
「給料が出るのは働いてからだ」
「だ~か~ら~」
カラリン。
にっこり。
「前~払~い~」
「…………は?」
「士~官~す~る~」
「条~件~に~」
一拍。
「給~料~」
「前~払~い~」
「し~て~も~ら~お~う~」
マルタの口が。
少し。
開いた。
「お、お前」
カラリン。
さらに続ける。
「金~貨~」
「三~十~ま~い~」
「も~ら~っ~て~」
「孤~児~院~」
「買~お~う~」
「…………」
食堂。
完全な。
静寂。
◇
全員が。
ゆっくり。
マルタを見る。
「…………」
マルタも。
全員を見る。
「…………」
誰も。
何も言わない。
だが。
視線だけは。
あまりにも雄弁だった。
――いけるのでは?
「ちょっと待ちな」
マルタが。
一歩。
後ろへ下がる。
「何だい、その顔」
「マルタ」
セレナが。
ゆっくり。
近づく。
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「言わなくても分かる!」
「マルタさん」
ロイまで。
立ち上がる。
「来るんじゃないよ!」
「マルタさん……」
ミナの目が。
妙に。
きらきらしている。
「その目をやめな!」
リリ。
「マルタ」
「お前まで!」
ライカまで。
首を傾げた。
「マルタヲ、ウリマスカ?」
「売らないよ!!」
◇
(しかし)
わしは。
その喧騒の中で。
一人。
真面目に考えていた。
悪くない。
いや。
かなり。
筋は通っている。
王都は。
マルタの技術を欲しがっている。
こちらは。
金貨三十枚が必要。
なら。
交渉すればいい。
(ただし)
売る必要はない。
期間限定。
研究環境。
権限。
待遇。
そして。
前金。
こちらが条件を出す。
(相手が欲しがっとる時こそ)
値段は。
こちらが。
決める。
前世。
何度も。
やってきた。
交渉。
それなら。
わしにも。
出番がある。
(まあ)
問題は。
本人が。
首を縦に振るか。
だが。
◇
「絶対嫌だからね!」
案の定。
マルタが叫んだ。
「王都なんて行かないよ!」
「し~しょ~」
「何だい!」
「孤~児~院~」
「…………」
止まった。
カラリン。
一歩。
「無~く~な~る~よ~」
「…………」
「子~ど~も~た~ち~」
「家~」
「無~く~な~る~」
「…………」
「地~下~の~」
「黒~雷~石~」
「取~ら~れ~る~か~も~」
「…………」
「世~界~」
「困~る~よ~」
「…………」
(効いとる)
見事に。
効いている。
マルタの眉が。
ぴくぴくしている。
「し~しょ~」
カラリン。
最後。
満面。
笑顔。
「王~都~」
「行~こ~う~?」
長い。
本当に。
長い。
沈黙。
そして。
「…………ちくしょう」
小さな声。
「え?」
セレナが聞き返す。
「何て?」
「聞こえなかったのかい!」
マルタが。
顔を上げた。
「行けばいいんだろ!」
「…………」
一瞬。
誰も。
意味を理解できなかった。
そして。
「ええええええええええっ!?」
孤児院中に。
声が響いた。
◇
世界を救うため。
黒雷石を探す。
孤児院を守るため。
金貨三十枚を用意する。
そのために。
なぜか。
マルタを王都へ売り込む。
(どうしてこうなった)
少し前まで。
虚喰らい。
雷葬獣。
世界の命運。
そんな話を。
していたはずなのだが。
マルタは。
頭を抱えたまま。
ぼそりと呟いた。
「……前払いなんて」
一拍。
「本当に通ると思ってるのかい」
カラリンが。
にっこり笑った。
「だ~い~じょ~う~ぶ~」
「何がだい」
「し~しょ~」
一拍。
「高~い~か~ら~」
「人を値札みたいに言うんじゃないよ!」
その声に。
久しぶりに。
食堂へ。
子供たちの笑い声が広がった。
そして。
わしは。
その騒ぎの中で。
一つ。
思う。
(悪くない)
金貨三十枚。
十日。
王都からの士官話。
相手は。
マルタを欲しがっている。
なら。
(ふっかける余地は)
十分にある。
明日から。
始まるのは。
剣でも。
魔法でもない。
ある意味。
わしにとって。
最も馴染みのある戦い。
(さて)
久しぶりに。
(交渉といこうかのう)
孤児院を巡る。
金貨三十枚の大勝負が。
静かに。
始まろうとしていた。




