第48話 百十歳、未来から届いた手紙を読みます
守護者が告げた名前は、何度思い返しても聞き間違いとは思えなかった。
――ロイ。
わしはしばらく、その名を頭の中で転がしていた。
孤児院で誰よりもしっかり者で、ミナに振り回されながらも皆の面倒を見ている少年。
そのロイが。
失われた楔の一つを持っている。
(……どういうことじゃ)
セレナの腕の中から、わしは守護者を見上げた。
「あぅ」
「レオン?」
セレナが顔を覗き込む。
わしは孤児院のある方角を指差した。
「あぅ!」
「帰りたいの?」
違う。
首を振る。
もう一度、指差す。
「あぅ、あぅ!」
「何?」
(ロイじゃ!)
当然、伝わらない。
赤ん坊というものは、こういう時にひどく不便である。
必死に胸元を指し、次に孤児院の方角を示す。
何度か繰り返していると。
「……待ちな」
マルタが目を細めた。
どうやら何かを察したらしい。
「坊や」
わしを指差す。
「石?」
「あぅ!」
「孤児院?」
「あぅ!」
「……ロイ?」
「あぅっ!」
思わず両手を上げた。
「ロイ?」
セレナの顔色が変わる。
「どうしてロイが出てくるの?」
マルタは答えず、守護者へ向き直った。
「さっき言った所有者ってのは、ロイという名前なのかい?」
『肯定』
短い返答だった。
だが。
その一言で。
セレナの身体が僅かに強張った。
「……孤児院にいるロイ?」
『対象位置。北西方向』
一瞬。
守護者の兜の奥で青白い光が揺れる。
『距離情報。一致』
「…………」
セレナが唇を結んだ。
「帰るわ」
即答だった。
「今すぐ」
◇
「待ちな」
マルタが呼び止める。
「何よ」
「坊やを休ませる」
「でも」
「でもじゃない」
珍しく。
マルタの声には、有無を言わせない強さがあった。
「ここへ来てから、この子がどれだけ力を使ったと思ってるんだい」
雷葬獣との接続。
虚喰らいとの戦い。
失われた楔の補助。
そのどれも。
今のわしにとっては、身体へどれほど負担が掛かっているのか分からない。
「途中で倒れられたら、楔どころじゃなくなるよ」
「…………」
セレナは反論しなかった。
ただ。
わしを抱く腕を。
少しだけ強くした。
「……分かった」
(珍しく素直じゃな)
それだけ。
ロイのことが気になっているのだろう。
◇
出発の前。
リーナが自分の胸元へ手を伸ばした。
そこには。
百年以上、彼女と共にあった黒雷石が下がっている。
「これ」
外して。
セレナへ差し出す。
「預かって」
「私が?」
「うん」
セレナはすぐには受け取らなかった。
「あなたは?」
「ここに残る」
「……どうして?」
リーナの視線が。
禁域の奥へ向く。
地の底。
虚喰らい。
そして。
雷葬獣。
「ここを空けられないから」
「でも――」
「お姉ちゃん」
その呼び方に。
セレナの言葉が止まる。
「百年間」
リーナは穏やかに続けた。
「逃げてたわけじゃないの」
「…………」
「ずっと」
少し。
目を伏せる。
「あれが地上へ出ないように」
「できることをしてた」
セレナは。
長い間。
何も言わなかった。
百年。
あまりにも長い。
一人は。
罪人として森を追われ。
もう一人は。
自分の身体に入り込んだ何かと戦いながら。
帰ることすらできなかった。
「……帰ってきて」
セレナが言った。
「全部終わったら」
一拍。
「今度こそ」
リーナの目が。
僅かに揺れる。
「帰ってきて」
しばらくして。
「うん」
小さな返事が返った。
今度の約束だけは。
百年も待たせないでほしいものだ。
◇
森を戻る道は。
来た時よりも、ずっと短く感じた。
マルタが道を選び。
セレナが歩く。
カラリンも。
いつもの眠たげな足取りながら。
黙ってついてくる。
「し~しょ~」
「何だい」
「つ~か~れ~た~」
「歩きな」
「お~ん~ぶ~」
「嫌だよ」
「ご~ぶ~り~ん~に~も~じ~ん~け~ん~が~」
「あるなら足もあるだろ」
「ひ~ど~い~」
(いつもの調子じゃな)
少し。
安心した。
けれど。
森そのものは。
笑っていられる状態ではなかった。
◇
行きにはまだ残っていた光が。
明らかに減っている。
青。
緑。
金。
精霊たちの小さな光。
今は。
ほんの僅かしか見えない。
地面には。
黒い芽が。
所々から顔を出していた。
その近くへ来ると。
胸の奥が。
――トクン。
脈打つ。
もう。
首に黒雷石はない。
それでも。
わしと雷葬獣の繋がりは。
確かに残っている。
指先へ。
青白い雷が宿った。
――バチッ。
黒い芽へ落ちる。
小さな悲鳴。
そして。
中から。
淡い光が一つ。
飛び出した。
「せ~い~れ~い~」
カラリンが。
それを目で追う。
精霊は。
一度だけ。
わしの周りを回り。
そのまま森の外へ消えていった。
『我の力だ』
(分かっとる)
『少しは敬え』
(嫌じゃ)
『なぜだ』
(調子に乗るから)
『…………』
この巨大な守護獣。
思った以上に。
面倒くさい性格なのかもしれない。
◇
エルフの領域を抜けた頃には。
日が傾き始めていた。
境界を越えたあと。
セレナが。
一度だけ。
振り返る。
森の奥。
母親。
リーナ。
百年以上。
逃げ続けた場所。
そして。
今は。
守らなければならない場所。
「……行こう」
マルタが言った。
「ええ」
セレナは。
今度は振り返らなかった。
◇
夜。
街道脇で。
簡単な野営をすることになった。
焚き火。
乾いた肉。
少量の水。
それだけ。
セレナは。
わしを膝の上へ乗せたまま。
ほとんど食事へ手をつけていない。
「食べな」
マルタが言った。
「食べてる」
「三口しか食べてないだろ」
「数えてたの?」
「顔見りゃ分かる」
(それは無理があるじゃろ)
セレナは小さく息を吐いた。
「……ロイ」
「分かってるよ」
「何か知ってるのかな」
「本人に聞くしかない」
「もし」
セレナの声が止まる。
「もし、あの子に何かあったら」
「セレナ」
マルタが遮った。
「まだ何も起きてない」
「…………」
「楔と関わってる。それだけだ」
火の粉が。
小さく夜へ舞う。
「分からないものを」
マルタは静かに言った。
「勝手に最悪の形へ決めつけるんじゃないよ」
(……その通りじゃ)
百十年。
生きても。
不安というものは。
考えれば考えるほど。
勝手に大きくなる。
それを。
事実と間違えてはいけない。
◇
翌日。
昼を少し過ぎた頃。
「あ~」
カラリンが。
前を指差した。
「み~え~た~」
木々の向こう。
見慣れた。
古い屋根。
煙突。
庭。
(帰ったか)
不思議と。
胸の奥が軽くなった。
あれほど。
古く。
狭く。
雨漏りまでしていた建物。
それなのに。
今は。
他のどこより。
帰ってきた。
そう感じる。
「先生ー!」
ミナ。
声。
真っ先に。
飛んでくる。
「レオン!」
「早かった!」
後ろ。
ロイ。
リリ。
ライカ。
全員。
いる。
(無事じゃ)
それだけで。
一度。
息を吐いた。
◇
「先生?」
ロイが首を傾げた。
「どうした?」
セレナは。
何も言わず。
少年の前まで歩いた。
そして。
しゃがむ。
「……え?」
次の瞬間。
抱き締めた。
「ちょっ……先生!?」
「…………」
「苦しいって!」
「あ」
ようやく。
セレナが離れる。
「ごめん」
「何なんだよ……」
ロイの顔が。
少しだけ赤い。
(まあ)
無理もない。
セレナにしてみれば。
ついさっきまで。
この少年が。
世界の命運に関わる楔と繋がっている。
そんな話を聞かされていたのだから。
◇
「ロイ」
マルタが前へ出た。
「一つ聞きたい」
「俺?」
「ああ」
少年の顔を見る。
「黒い石」
その瞬間だった。
ロイの目が。
僅かに揺れた。
(……知っとる)
わしは。
見逃さなかった。
「心当たりがあるね?」
「…………」
「ロイ?」
セレナが呼ぶ。
少年は。
少し迷ったあと。
頷いた。
「ある」
食堂へ向かいかけていたミナまで。
足を止める。
「どこ?」
セレナが尋ねる。
「物置」
「……物置?」
「うん」
「いつから?」
「俺が来た時から」
その言葉で。
マルタの目が。
鋭くなった。
◇
物置。
古い棚。
乾いた薬草。
使わなくなった道具。
そして。
少し前。
ロイが壊れた椅子から落ちかけた。
あの場所。
(…………)
妙なものを感じた。
偶然。
だろうか。
あの日。
わしが初めて。
自分の意思で雷を放った場所。
そのすぐ近くに。
別の黒雷石が。
あった?
「ここ」
ロイが。
棚の下へしゃがむ。
床板の端へ。
指を差し込む。
ギィ。
古い板が持ち上がった。
「そんな場所……」
セレナが呟く。
床下。
小さな空間。
そこから。
ロイが。
一つ。
古びた箱を取り出した。
◇
黒い箱。
金具は錆び。
木も。
かなり古びている。
だが。
マルタの表情だけは。
すぐに変わった。
「待ちな」
「何?」
「触るんじゃない」
杖の先が。
箱へ近づく。
淡い光。
表面へ走る。
「……結界」
セレナが眉を寄せる。
「こんな箱に?」
「ああ」
「古い?」
「いや」
マルタは。
目を細めた。
「古く見せてある」
「…………」
空気。
少し。
重くなる。
「誰かが?」
「そうだろうね」
マルタの杖先。
ゆっくり。
箱の上をなぞる。
光の糸が。
一つ。
また一つ。
消えていく。
そして。
――カチ。
小さな音。
「開いたよ」
◇
ロイが。
ゆっくり。
蓋を上げた。
中。
黒い石があった。
(……楔)
見ただけで。
分かった。
以前。
わしが持っていたもの。
リーナが持っているもの。
同じ。
だが。
箱の中には。
もう一つ。
入っていた。
紙。
古びた。
一枚の紙。
「何これ」
セレナが手に取る。
「読める?」
マルタが尋ねる。
「ええ」
最初の行。
見た。
瞬間。
セレナの顔。
変わる。
「何て?」
短い沈黙。
そして。
読み上げる。
「――ロイへ」
少年が。
目を見開く。
「俺?」
「続きは?」
マルタが促す。
セレナは。
紙へ視線を戻す。
「いつか」
一拍。
「雷を纏う赤子が」
「ここへ来る」
「…………」
食堂でも。
森でもない。
薄暗い物置。
なのに。
その場にいる全員の。
呼吸が。
一瞬。
止まったように感じた。
(……わしじゃな)
考える必要すらない。
◇
「続き」
マルタの声が。
少し。
低くなる。
「その子が来るまで」
セレナが読む。
「楔を」
「誰にも渡すな」
次。
最後の一文。
そこで。
セレナの声が止まった。
「何?」
「…………」
「セレナ?」
紙を持つ指。
僅か。
強くなる。
「その子が来たら」
一拍。
「――逃げろ」
「…………」
(逃げろ?)
何から。
誰から。
なぜ。
雷を纏う赤子が来たら。
楔を守る役目は終わる。
そして。
逃げろ。
◇
「裏も見な」
マルタが言った。
「裏?」
セレナが紙を返す。
そこ。
小さな。
署名。
「……名前がある」
「誰の?」
セレナ。
黙る。
「知ってる名前?」
「ええ」
「誰だい」
セレナは。
ゆっくり。
顔を上げた。
その目。
真っ直ぐ。
マルタを見る。
「あなた」
「…………は?」
「マルタ」
今度は。
全員。
マルタを見る。
「何?」
「この手紙」
セレナが。
紙を差し出す。
「あなたの名前が書いてある」
◇
「貸しな」
マルタが。
紙を奪う。
まず。
署名。
見る。
次に。
本文。
目で追う。
最初は。
怪訝。
だった。
だが。
数行。
読むうちに。
その表情から。
少しずつ。
色が消えていく。
「……マルタ?」
セレナが呼ぶ。
返事はない。
老女の指。
紙を押さえたまま。
僅かに。
震えている。
「これ」
ようやく。
声が出た。
いつもの。
皮肉も。
軽口も。
何もない。
「……あたしの字だ」
◇
「でも」
セレナが尋ねる。
「書いた覚えは?」
「ない」
即答。
「ロイに会ったことは?」
「ない」
「この箱は?」
「知らない」
「結界は?」
「…………」
そこ。
マルタ。
一瞬。
黙る。
「どうしたの?」
「この術式」
もう一度。
箱。
見る。
「知ってる」
「あなたの?」
「……ああ」
「じゃあ」
「でも」
マルタが遮る。
顔。
険しい。
「今のあたしが使う形じゃない」
「どういうこと?」
「同じ術式でも」
杖。
箱。
触れる。
「少し癖が違う」
「誰かが真似した?」
「……いや」
長い。
沈黙。
「これも」
一拍。
「あたしだ」
(何じゃと?)
◇
胸の奥が。
――トクン。
脈打つ。
『レオン』
(なんじゃ)
雷葬獣。
声。
今までより。
低い。
『その紙』
(知っとるのか?)
『いや』
一拍。
『術を知っている』
(どんな術じゃ)
少し。
間。
『かつて』
『古の賢者が使った』
「…………」
(賢者?)
『遠い時へ』
一拍。
『記憶を送る術』
わしは。
紙を見る。
(待て)
なら。
この手紙。
今のマルタが書いたものではない。
もっと。
先。
未来。
何かを知った。
マルタ。
そこから。
過去へ。
送った。
◇
(……じゃあ)
文章。
もう一度。
思い出す。
雷を纏う赤子が来る。
それまで楔を守れ。
そして。
来たら。
逃げろ。
(予言じゃない)
知っている。
未来で。
実際に。
何かを見た。
マルタ。
その人物が。
過去へ。
警告を送った。
「…………」
背筋。
冷える。
何を。
見た。
未来のマルタは。
◇
「ロイ」
セレナが。
少年の肩へ手を置く。
「これを渡した人」
「覚えてない?」
ロイは。
首を振る。
「顔は?」
「……あんまり」
「男?」
「たぶん」
「女じゃない?」
「分からない」
「声は?」
「覚えてない」
ロイ。
顔。
曇る。
「でも」
「何?」
「変なこと言ってた」
マルタが顔を上げる。
「何て?」
ロイは。
記憶。
探す。
ように。
目を閉じた。
そして。
「もし」
一拍。
「俺が忘れても」
「箱だけは」
「捨てるなって」
(…………)
意図的に。
記憶。
消した?
そんな。
可能性。
浮かぶ。
◇
「……し~しょ~」
カラリンが。
珍しく。
マルタの袖。
そっと。
掴んだ。
「だ~い~じょ~う~ぶ~?」
「…………」
「し~しょ~?」
「大丈夫だよ」
返事。
少し遅い。
「ただ」
紙。
見つめる。
「気に入らないね」
「何が?」
セレナが聞く。
「未来のあたしが」
一拍。
「あたしに何も教えてないことがさ」
(そこかい)
いや。
マルタらしい。
だからこそ。
少しだけ。
いつもの彼女が戻った気がした。
◇
箱の中の楔。
わしは。
小さな手を伸ばした。
「レオン」
セレナ。
少し警戒。
「触る?」
(必要じゃろ)
指。
石へ。
触れる。
――トクン。
胸。
脈打つ。
次。
楔。
――トクン。
二つ。
鼓動。
重なる。
『二つ目』
(ああ)
必要な。
三つ。
うち。
二つ。
手に入った。
あと。
一つ。
たった。
一つ。
なのに。
安心。
できない。
◇
紙。
再び。
見る。
『その子が来たら、逃げろ』
未来のマルタ。
何から。
ロイを。
逃がそうとしている。
虚喰らい?
それなら。
楔を守れ。
とは。
おかしい。
誰か。
別。
いる。
(……またじゃ)
敵。
一つ。
思っていたら。
さらに。
奥。
何か。
いる。
わしは。
小さく。
息を吐く。
(人生二周目)
太く。
短く。
好きに。
生きる。
そう。
決めた。
だが。
(少し太すぎんかのう)
――トクン。
胸の中で。
雷葬獣が。
小さく。
笑った。
『今さらだ』
(うるさい)
それでも。
わしも。
少しだけ。
笑った。
そして。
もう一度。
未来から届いた。
手紙を見る。
その短い警告が。
なぜか。
虚喰らいの咆哮よりも。
ずっと。
不気味に思えた。




