第44話 百十歳、世界の底を覗きます
――ドォォォォォン!!
足元が跳ねた。
セレナの腕の中で、わしの身体が大きく浮く。
「っ……!」
彼女は咄嗟にわしを胸へ抱き込み、その場に膝をついた。
遅れて、腹の底まで響くような轟音が押し寄せる。
天井から細かな石片が降り注ぎ、地下空間を走る銀色の紋様が激しく明滅した。
まるで。
この場所そのものが、悲鳴を上げているようだった。
「し~しょ~!」
「壁際から離れな!」
マルタの怒声が飛ぶ。
カラリンが慌てて身を翻した直後、背後の岩壁が轟音とともに崩れ落ちた。
舞い上がった砂埃の向こう。
雷葬獣が、地面へ四肢を深く食い込ませていた。
山と見紛うほどの巨体。
その全身から迸った銀雷が、床を、壁を、天井を這い、巨大な地下空間を幾筋にも駆け抜けている。
そして。
そのうちの一本が。
確かに。
わしの胸へ繋がっていた。
――トクン。
「…………」
無意識に、小さな手を胸元へ当てる。
そこに。
もう黒雷石はない。
つい先ほど。
砕けて。
銀色の光となって。
わしの中へ消えた。
なのに。
今まで石から聞こえていた鼓動は。
確かに。
わしの内側から鳴っている。
『レオン』
声がした。
近い。
これまでは、遠く離れた洞窟の向こうから聞こえてくるようだった。
だが今は違う。
まるで。
耳元で囁かれたように鮮明だった。
(……聞こえとるぞ)
『そうか』
(それだけか?)
『何がだ』
(いや、もう少しあるじゃろ。いきなり胸の中へ繋がれたんじゃぞ、わしは)
雷葬獣は少し黙った。
『我が望んだわけではない』
(わしも望んどらんわ)
『ならば、お互い様だ』
(腹立つのう……)
どうやら。
完全に繋がったことで。
声だけでなく、性格までよく分かるようになってしまったらしい。
「……レオン?」
セレナが心配そうに覗き込んでいた。
わしが一人で難しい顔でもしていたのだろう。
「あぅ」
「大丈夫?」
「あぅ」
「本当に?」
(たぶん)
そこだけは。
少し自信がなかった。
◇
「来るよ!」
マルタの声。
直後。
――ドクン。
今度は。
雷葬獣とは違う鼓動が。
さらに下から響いた。
「…………!」
空気が変わる。
地面へ。
細い亀裂が走った。
一本。
二本。
蜘蛛の巣のように、黒い線が足元へ広がっていく。
「下がって!」
リーナが叫ぶ。
セレナがわしを抱いたまま後方へ跳んだ。
次の瞬間。
亀裂から。
何かが溢れた。
――ズルッ。
黒い。
根のようなもの。
いや。
根ではない。
そう見えるだけだ。
表面には泥とも血ともつかない液体が蠢き、形そのものが絶えず揺らいでいる。
見る角度によって。
細く。
太く。
時には人の腕のようにすら見えた。
(気味が悪いのう……)
一本。
また一本。
地の裂け目から這い出してくる。
「またこれ……!」
セレナはわしを片腕へ抱き直した。
もう一方の手が腰へ伸びる。
弓ではない。
一本の矢を抜いた。
「セレナ?」
矢を。
地面へ突き刺す。
「――《穿樹》」
小さな声。
次の瞬間。
矢から淡い緑の光が溢れた。
地面を突き破るように何本もの蔓が伸び、迫ってきた黒い根へ絡みつく。
(そんな使い方もできるのか)
「弓なんて引けないもの」
(……心を読んだか?)
そんなはずはない。
たまたま独り言が合っただけだろう。
だが。
緑の蔓が黒い根へ触れた瞬間。
――ジュウウウウ……。
「っ……!」
色が変わった。
鮮やかな緑が。
触れた場所から。
黒へ。
「切りな!」
マルタの杖が閃いた。
白光。
蔓が根元から断ち切られる。
黒く侵食された部分が地面へ落ち。
数秒で。
跡形もなく崩れた。
「魔力を吸った……?」
セレナの声に。
「違う」
リーナが答える。
彼女の右手へ銀雷が集まり。
細い剣の形を取った。
「魔力だけじゃない」
踏み込む。
銀の軌跡が走る。
――バチィッ!
黒い根が真っ二つに断ち切られた。
「生命も」
切断面から。
黒煙が噴き出す。
「魔力も」
そして。
「そこにあるもの全部を、喰う」
その声だけは。
妙に静かだった。
(だから)
虚喰らい。
か。
随分と。
嫌な名前を付けたものだと思った。
◇
――ドクンッ!
地の底が。
また脈打った。
瞬間。
這い回っていた黒い根が。
一斉に止まった。
「…………」
嫌な予感がした。
次の瞬間。
全部が。
雷葬獣へ向いた。
『来る』
数える暇すらなかった。
何十。
いや。
何百。
黒い根が一斉に銀色の巨体へ飛びかかる。
「雷葬獣!」
セレナが叫んだ。
(避けろ!)
だが。
雷葬獣は。
動かなかった。
前脚へ。
首へ。
背中へ。
黒い根が絡みつく。
『避けられぬ』
(何じゃと?)
一本が。
傷だらけの身体へ食い込んだ。
銀雷が爆ぜる。
根が焼ける。
それでも。
雷葬獣は。
一歩たりとも。
そこから動かなかった。
『我が退けば』
地面へ。
爪を深く食い込ませる。
『開く』
(何が――)
問い終える前だった。
視界が。
消えた。
◇
「…………?」
暗い。
何も見えない。
(なんじゃ?)
セレナの温もりも。
マルタたちの声も。
一瞬。
遠くなる。
代わりに。
別の感覚が流れ込んできた。
大きい。
身体。
四本の脚。
岩盤を掴む爪。
身体を貫く痛み。
そして。
途方もない。
重さ。
(……雷葬獣?)
『繋がりが深くなった』
(まさか)
『我の目を』
銀色の光が。
暗闇の中へ浮かぶ。
『お前も使っている』
「…………」
(そういうことは先に言え)
そう思った。
だが。
すぐに。
そんな文句を言っている余裕は。
消えた。
◇
見えた。
銀色の線。
一本。
また一本。
わしらが立っている地下空間。
その床。
壁。
天井。
ありとあらゆる場所へ。
巨大な術式が刻まれている。
(これは……)
中心。
雷葬獣。
その巨体から。
無数の銀色の光が。
下へ。
伸びていた。
鎖。
そう見えた。
けれど。
雷葬獣を縛っているのではない。
逆だ。
雷葬獣から。
さらに深い場所へ。
鎖が。
突き刺さっている。
(お前……)
息を呑む。
(これは)
『そうだ』
雷葬獣の声が。
やけに静かだった。
『我は』
無数の銀鎖。
その先。
闇。
どこまでも深い。
底すら見えない。
『ここを』
一拍。
『閉じている』
◇
さらに。
視界が。
沈む。
岩盤を抜け。
もっと。
下へ。
「…………」
言葉を失った。
わしらがいた地下空間。
それだけでも。
相当に大きい。
雷葬獣ほどの巨体が横たわれるほどの場所だ。
だが。
そのさらに下に広がっていたものは。
そんなものではなかった。
(何じゃ……これは)
穴。
そう呼ぶには。
大きすぎる。
洞窟。
そう呼ぶには。
深すぎる。
街が入りそうだった。
いや。
もっとだ。
都市。
国。
どこまで続いているのか。
雷葬獣の目を借りても。
果てが見えない。
(地下に)
もう一つ。
世界がある。
そんな。
馬鹿げた言葉の方が。
まだしっくりきた。
そして。
その世界の中で。
何かが。
蠢いていた。
◇
最初。
わしは。
山だと思った。
真っ黒な。
巨大な岩山。
だが。
――ドクン。
それが。
脈打った。
「…………」
(嘘じゃろ)
山ではない。
黒い塊から。
無数の根が伸びている。
岩壁へ。
地面へ。
さらに。
見えない闇の奥へ。
どこまでが身体で。
どこからが地下なのか。
分からない。
そもそも。
身体という考え方そのものが。
通用するのかすら。
怪しかった。
(あれが……)
『虚喰らい』
雷葬獣が告げる。
(あれ全部か?)
『違う』
「…………」
今。
聞き間違えたかと思った。
(違う?)
『あれも』
一拍。
『一部にすぎぬ』
(…………)
笑えない。
目の前。
山より。
遥かに巨大な。
黒い何か。
それですら。
本体ではない。
『奴に』
雷葬獣の声が。
低く響く。
『我らに理解できる形などない』
(どういう意味じゃ)
『獣ではない』
闇。
そこに。
巨大な何かがある。
だが。
見れば見るほど。
輪郭が崩れていく。
『我らの目が』
一拍。
『理解できるものへ置き換えているだけだ』
(……気味の悪い話じゃな)
『同感だ』
(何千年も見といて慣れんのか)
『慣れると思うか』
(思わんな)
そこだけは。
意見が合った。
◇
――ドクン。
虚喰らいが。
もう一度。
脈打つ。
その時。
暗闇に。
赤い光が灯った。
一つ。
少し離れて。
もう一つ。
(目……)
そう思った。
前にも見た。
二つの赤い光。
それが。
虚喰らいの目だと。
だが。
違った。
――ポッ。
また。
一つ。
――ポッ。
さらに。
一つ。
十。
二十。
五十。
百。
数えることなど。
すぐに諦めた。
暗闇の。
ありとあらゆる場所。
赤い光。
(……全部、目なのか?)
『知らぬ』
(お前にも分からんのか)
『何千年見たところで』
雷葬獣は淡々と答えた。
『分からぬものは、分からぬ』
(百十年生きたわしにも刺さる言葉じゃな)
その直後。
無数の赤い光が。
一斉に。
こちらを向いた。
「――っ」
見られた。
雷葬獣を。
ではない。
(……わし?)
ぞくり。
背骨の中へ。
冷たいものが流れた。
そして。
声。
『――いた』
「…………」
(誰じゃ)
雷葬獣ではない。
声と呼べるものかすら分からない。
音ではなく。
頭の中へ。
直接。
何かを押し込まれたような感覚。
『――いた』
もう一度。
今度は。
はっきりと。
『――ようやく』
無数の赤い光が。
嬉しそうに。
細くなった。
『――見つけた』
◇
「レオン!」
「――あぅっ!」
視界が戻った。
最初に見えたのは。
青ざめたセレナの顔だった。
「レオン!」
「あ……ぅ……」
「息、止まってたのよ!」
(そんなにか)
自分では。
随分長い時間。
地下を見ていた気がした。
だが。
こちらでは。
ほんの数秒だったらしい。
「何があった?」
マルタが近づいてくる。
答えたい。
非常に。
答えたい。
「あぅ」
「……分からないね」
(じゃろうな)
「見たの?」
リーナ。
「何を?」
セレナが聞く。
リーナは。
わしではなく。
雷葬獣へ目を向けた。
「下」
「…………」
わしはリーナを見る。
(こいつ)
知っている。
全部ではない。
それでも。
今見たものを。
多少は。
「……見たんだね」
リーナの声に。
僅かな翳りがあった。
「あぅ」
「そう」
ほんの少し。
目を伏せる。
「じゃあ」
雷葬獣の足元を見る。
「もう分かるよね」
「何が?」
セレナの問いに。
リーナはしばらく答えなかった。
やがて。
「ここは」
静かに言う。
「虚喰らいを閉じ込めるための場所じゃない」
マルタが眉を寄せた。
「何?」
「正確には」
リーナは足元へ視線を落とす。
「もっと下にあるものと」
一拍。
「私たちがいる世界を」
「切り離すための場所」
◇
「待ちな」
マルタが杖の先で床を軽く叩いた。
「その言い方じゃ」
顔を上げる。
「この下に、別の世界でもあるみたいじゃないか」
「分からない」
「は?」
「誰も分からないの」
リーナは首を振った。
「古の賢者たちも」
次。
「雷葬獣も」
「私たちも」
誰も。
「この下が何なのか」
知らない。
「でも」
――ドクン。
また。
地下から。
重い鼓動。
「一つだけ」
リーナは。
今度こそ。
はっきりと言った。
「下から来るものを」
一拍。
「地上へ出してはいけない」
◇
――バキンッ!
銀色の光が。
一つ。
消えた。
『……っ!』
雷葬獣の身体が。
大きく沈む。
(どうした!)
『楔だ』
(また壊れたのか!?)
『違う』
銀色の牙が。
強く噛み締められる。
『八つ目』
一拍。
『繋がりが完全に切れた』
直後。
足元の亀裂が。
大きく。
開いた。
「来る!」
リーナの声。
次の瞬間。
黒い根が。
噴き出した。
今までとは。
桁が違った。
十。
百。
視界が。
一瞬で黒く染まる。
「マルタ!」
「分かってる!」
杖が振り抜かれる。
白い光の壁。
「カラリン!」
「う~ん!」
精霊たちが集まり。
薄い光の膜が。
重なる。
リーナも。
銀雷の剣を構える。
それでも。
足りない。
黒い根は。
光の壁へ。
銀色の術式へ。
雷葬獣へ。
そして。
わしへ。
一斉に伸びてくる。
「レオン!」
セレナが。
わしを胸へ抱き込んだ。
(まずい)
『レオン』
(分かっとる!)
『違う』
(何がじゃ!)
『今までのように』
雷葬獣の声は。
不思議なほど。
落ち着いていた。
『我へ力を送るな』
「…………」
(なら)
迫る。
黒。
その向こう。
雷葬獣を見る。
(どうする)
『逆だ』
◇
――トクン。
胸。
――トクン。
雷葬獣。
二つ。
同時。
『我の力を』
巨大な銀の瞳が。
わしを見る。
『お前が使え』
(…………)
『お前は』
一拍。
『我を入れる器ではない』
黒い根が。
さらに近づく。
『我を縛る楔でもない』
マルタの結界へ。
亀裂が走る。
「っ……!」
『我を制御する者ですらない』
(なら)
雷葬獣の声が。
わしの胸の奥へ。
落ちた。
『共に戦う者なのだろう』
「…………」
そうじゃった。
わしは。
小さな手を。
前へ伸ばした。
「レオン?」
セレナの声。
震えている。
(大丈夫じゃ)
もちろん。
確証などない。
何をすればいいかも。
分からない。
でも。
(借りるぞ)
『好きに使え』
(後から返せと言うなよ)
『善処する』
(そこは断言せんか!)
胸の奥。
何かが。
開いた。
◇
音が。
消えた。
「…………」
一瞬。
世界が。
銀色になる。
次の瞬間。
雷が。
生まれた。
――轟ッ!!
「っ……!」
セレナの銀髪が激しく揺れる。
わしの指先から。
ではない。
胸から。
腕から。
身体全体から。
銀雷が。
溢れ出す。
雷葬獣から。
わしへ。
そして。
わしから。
世界へ。
(行け!)
――バチィィィィィン!!
最初の黒い根へ。
直撃。
燃える。
次。
さらに。
十。
百。
銀雷は。
意思を持つように枝分かれし。
地下空間を埋め尽くした黒を。
次々と焼き払っていく。
――ギィィィィィィィッ!!
虚喰らい。
悲鳴。
耳ではない。
頭の中へ響く。
だが。
止めない。
(押し返せ!)
『応!』
二つの意思が。
重なった。
銀雷が。
古代術式へ流れ込む。
消えかけていた線が。
一つ。
また一つ。
光を取り戻す。
残る楔へ。
壁へ。
床へ。
銀の鎖へ。
力が。
戻っていく。
そして。
――ドォォォォン!!
黒い根が。
一斉に。
地の裂け目へ引き戻された。
◇
静寂が。
落ちた。
「…………」
焼けた空気。
微かに漂う黒煙。
地下空間の至るところを走る。
銀色の光。
わしは。
小さな手を見つめた。
(今の……)
『我らがやった』
「…………」
(そうじゃな)
なぜだろう。
その言葉が。
少しだけ。
嬉しかった。
◇
だが。
終わりではない。
――ドクン。
遥か。
下。
虚喰らい。
今までより。
少し。
遠い。
(押し返しただけ……か)
『あれを倒すという考えは捨てろ』
(無理なのか)
『今はな』
(今は?)
『未来は知らぬ』
(随分と前向きじゃのう)
『お前に言われたくはない』
また。
少し。
腹が立った。
◇
『レオン』
(なんじゃ)
『聞こえたか』
雷葬獣の声が。
低くなる。
(…………)
やはり。
あれは。
わしだけの聞き間違いではなかったらしい。
(ああ)
『何と』
(見つけた)
そう。
言った。
『誰をだ』
(知らん)
ただ。
あの赤い光。
全部。
わしへ向いていた。
(……たぶん)
嫌だが。
(わしじゃ)
雷葬獣は。
何も答えなかった。
その沈黙が。
妙に。
気になった。
◇
「レオン!」
ぎゅっと。
抱き締められた。
「…………」
セレナ。
顔。
近い。
「本当に!」
声が。
少し震えている。
「本当に、もう無茶しないで!」
(善処する)
「あぅ」
「今、適当に返事したでしょ」
「…………」
(何で分かるんじゃ)
「まったく……」
セレナは。
怒っているような。
泣きそうな。
何とも言えない顔をしていた。
その横で。
マルタが小さく笑う。
「随分と息が合ってきたじゃないか」
「笑い事じゃない!」
「はいはい」
「し~しょ~」
「何だい」
「わ~ら~っ~て~る~」
「うるさいよ」
少しだけ。
空気が緩んだ。
ほんの。
僅かに。
だったけれど。
◇
だが。
リーナだけは。
笑っていなかった。
「……おかしい」
ぽつり。
「何が?」
セレナが振り返る。
リーナの視線は。
わしへ向いていた。
「虚喰らいが」
一拍。
「レオンを知ってる」
「…………」
「どういう意味?」
「虚喰らいは」
リーナが。
言葉を選ぶ。
「地上にいるものを」
「一つ一つ区別しない」
「人間も」
「エルフも」
「魔物も」
「精霊も」
静かに。
「全部」
一拍。
「餌だから」
(随分な言われようじゃな)
「なのに」
リーナは。
わしを見る。
「今」
「レオンを見た」
「それだけじゃない」
声。
僅かに。
掠れる。
「探してた」
――ドクン。
その時だった。
地下。
遥か。
遠く。
虚喰らいが。
また。
脈打った。
『――やっと』
「…………」
わしの身体が。
固まる。
今度は。
雷葬獣を通してではない。
直接。
頭の中。
『――帰ってきた』
(……何?)
誰が。
返事は。
ない。
代わりに。
次の言葉。
それだけが。
あまりにも。
鮮明に。
響いた。
『――源一郎』
「――――」
息が止まった。
◇
あり得ない。
その名を。
この世界で。
知っている者など。
いるはずがない。
神崎源一郎。
百十年。
生きて。
死んだ。
前世の。
わしの名前。
「レオン?」
セレナが。
心配そうに覗き込む。
「どうしたの?」
「あ……ぅ……」
声が。
出ない。
いや。
もともと。
まともに喋れない。
でも。
今は。
それとは違う。
(なぜじゃ)
虚喰らい。
地の底。
何千年。
いや。
もっと。
遥か昔から。
この世界の下にいた。
何か。
(なぜ)
お前が。
わしの名を知っている。
――ドクン。
返事の代わりに。
地の底で。
何かが。
脈打った。
妙に。
楽しそうに。
◇
『レオン』
雷葬獣の声。
いつの間にか。
先ほどまでの軽さが。
消えていた。
(…………)
『今』
一拍。
『何と呼ばれた』
答えるべきか。
一瞬。
迷った。
その名を。
口にしたら。
何か。
戻れないところまで。
話が進んでしまう。
そんな。
嫌な予感がした。
だが。
(……源一郎)
雷葬獣が。
沈黙する。
(わしの)
一度。
息を吸う。
(前の名前じゃ)
『前……?』
(死ぬ前の)
そして。
簡潔に。
(前世の名じゃ)
「…………」
今度は。
長い。
沈黙。
(何じゃ)
『いや』
(何か知っとるのか?)
『知らぬ』
即答。
(なら何じゃ、その間は)
『考えていた』
(何を)
雷葬獣は。
答えない。
銀色の瞳が。
ゆっくり。
地面。
そのさらに。
奥へ向く。
やがて。
『これで』
一拍。
『一つだけ』
低い声。
『確かなことがある』
(何じゃ)
地下。
――ドクン。
まるで。
答えを急かすように。
虚喰らいが。
脈打った。
そして。
『お前が』
一拍。
『この世界へ来たことは』
銀色の瞳が。
わしへ向く。
『偶然ではない』
◇
「…………」
何も。
言えなかった。
人生二周目。
そう思っていた。
死んだ。
目を覚ました。
赤ん坊だった。
神にも会った。
妙な力ももらった。
だから。
転生。
そういうものなのだと。
深く考えることは。
やめていた。
だが。
もし。
違うのなら。
(わしは)
ただ。
生まれ変わったのではない?
古の賢者。
雷葬獣。
十二の楔。
存在しないはずだった。
第十三。
そして。
わしの前世の名前を知る。
虚喰らい。
(…………)
嫌なものが。
全部。
一つの場所へ。
集まり始めている。
そんな気がした。
わしは。
セレナの胸元へ。
小さく身体を預けた。
「レオン?」
「あぅ……」
「疲れた?」
(まあ)
それもある。
だが。
それ以上に。
(ちと、考える時間が欲しいのう)
太く。
短く。
好きに生きる。
それだけで。
よかったはずだった。
会社も。
金も。
立場も。
全部。
前世へ置いてきた。
今度こそ。
好き勝手に。
面白い人生を。
そう思っていた。
なのに。
人生二周目は。
始まったばかりだというのに。
どうやら。
わしが思っていたより。
ずっと昔から。
誰かに。
待たれていたらしい。




