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第41話 百十歳、封じられた怪物の正体を知ります

 ――パキッ。


 乾いた音が、暗い穴の底に響いた。


 小さな音だった。


 だが、その場にいた全員が同時に息を呑んだ。


「……まずいね」


 マルタが低く呟き、杖を握り直す。


 穴の周囲に残された五本の黒い楔。


 そのうち一本に、細い亀裂が走っていた。


 髪の毛ほどだった亀裂は、まるで生き物のように枝分かれし、じわじわと石の表面を侵食していく。


「マルタ……」


 セレナの声が強張る。


「あれが壊れたら……」


「八本目だ」


 マルタは楔から目を逸らさない。


「残るのは四本。……さすがに、笑えないね」


 その直後。


 ――ドクン。


 足元よりも、さらに深いところから。


 地面そのものを内側から叩くような、重い鼓動が響いた。


「っ……!」


 セレナが反射的にわしを抱き寄せる。


 微かな振動が地面を伝い、足元の小石が跳ねた。


 そして。


 それに応じるように。


 ――トクンッ!


 穴の底に横たわる雷葬獣の全身へ、銀色の雷が走った。


(……やはり違う)


 わしは息を殺して耳を澄ませた。


 二つの鼓動。


 一つは地の底から響く、重く濁った音。


 そしてもう一つは、雷葬獣から伝わってくる、澄んだ鼓動。


 同じものではない。


 むしろ。


 一方が動くたびに、もう一方がそれを押し返している。


 そんなふうにすら感じられた。


『――急げ』


 不意に。


 頭の奥へ声が響いた。


 雷葬獣の声。


 以前よりも、明らかに弱っている。


『――我を……返せ』


(この黒雷石をか?)


 わしは胸元の石を握りながら問いかける。


 返事はすぐに返ってきた。


『――そうだ』


(返したら、どうなる)


 一瞬の沈黙。


 やがて。


『――保つ』


(何をじゃ)


『――下を』


 背筋に、冷たいものが走った。


(下を……保つ?)


 その言葉の意味を考えようとしたところで。


「レオン?」


 セレナがわしの顔を覗き込んだ。


「また……何か聞こえてるの?」


「あぅ……」


 わしは大きく頷いた。


「何て言ってるの?」


(それを伝えられれば苦労せんのじゃがな)


 言葉を持たない自分が、これほどもどかしいと思ったことはない。


 仕方なく。


 わしは雷葬獣を指差した。


「あぅ!」


「雷葬獣?」


 頷く。


 次に。


 穴の底。


「下?」


 さらに頷く。


 そして両手を前へ出し。


 何かを押さえ込むように動かした。


「……押さえてる?」


(それじゃ!)


「あぅ!」


 思わず身体ごと大きく反応する。


 セレナの顔から、すっと血の気が引いた。


「まさか……」


 彼女はゆっくりと穴の底を見る。


「雷葬獣が、地下にいる何かを……押さえてるって言いたいの?」


「あぅ!」


「…………」


 今度は。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 マルタが、これまでとは違う目で雷葬獣を見る。


「《封じられている》のか」


 独り言のように呟く。


「それとも――《封じている》のか」


 古文書に残されていた、曖昧な一文。


 今になって。


 その違いが、恐ろしいほど大きな意味を持ち始めていた。


     ◇


「し~しょ~」


 カラリンが、小さな声でマルタを呼んだ。


「何だい」


「ら~い~そ~う~じゅ~う~」


 大きな杖を胸へ抱きながら。


 彼女は雷葬獣を見つめる。


「こ~わ~く~な~い~」


 マルタの目が細くなった。


「精霊がそう言ってるのかい?」


「う~ん~」


 カラリンは目を閉じた。


 何か遠くの声を聞くように。


「せ~い~れ~い~た~ち~」


 少し間を置いて。


「こ~の~こ~の~こ~と~」


「き~ら~い~じゃ~な~い~」


「じゃあ、どう思ってる?」


 カラリンの眉が僅かに寄る。


「……か~な~し~い~」


「悲しい?」


「う~ん~」


 そして。


 カラリンは、これまでで一番小さな声で言った。


「ど~う~し~て~」


「ひ~と~り~で~」


「ず~っ~と~」


「が~ん~ば~っ~て~る~の~って~」


 誰も。


 返事をしなかった。


 わしは穴の底にいる巨大な獣を見る。


 全身へ巻きついた銀色の鎖。


 傷だらけの身体。


 そのさらに下から伸びる、黒い根のようなもの。


(……待て)


 今まで。


 あの鎖も。


 黒い根も。


 全部。


 雷葬獣を拘束するものだと思っていた。


 だが。


 よく見ると。


 違う。


 銀色の鎖は、確かに雷葬獣をこの場へ縛りつけている。


 しかし黒い根は。


 地下から這い上がり。


 雷葬獣の脚へ。


 胴へ。


 首へ。


 絡みついている。


(こいつを……引きずり込もうとしておる?)


 そう思った瞬間。


 ――ドクンッ!!


「っ!」


 地下の鼓動が。


 今までよりも強く響いた。


 同時に。


 黒い根が、一斉に蠢いた。


 何十。


 何百。


 穴の底から湧き上がるように伸び。


 雷葬獣の巨体へ絡みつく。


『――グ……ッ!』


 初めて。


 雷葬獣が苦悶の声を漏らした。


 銀光が弾ける。


 ――バリバリバリッ!


 黒い根が焼け。


 千切れ。


 炭のように崩れ落ちる。


 だが。


 次から次へと新しい根が這い上がってくる。


「これ……」


 セレナが息を呑んだ。


「雷葬獣を……襲ってる?」


「そう見えるね」


 マルタの声も低かった。


 その瞬間。


 また。


 ――パキンッ!


「楔!」


 セレナが叫ぶ。


 亀裂の入っていた黒い楔が、大きく揺れた。


 マルタが駆け寄る。


「来るんじゃない!」


 杖を楔へ押し当てる。


 淡い魔力が広がった。


 だが。


 ジュッ、と嫌な音がする。


「くっ……!」


 杖の先が。


 黒く変色した。


 その根元。


 小さな黒い芽。


 あの。


 森で何度も見てきたもの。


「こいつ……!」


 マルタが歯を食いしばる。


「楔の魔力を吸ってる!」


「じゃあ」


 セレナが息を呑む。


「楔は、勝手に壊れてるんじゃない……?」


「ああ」


 マルタは黒い芽を睨みつけた。


「誰かが外から壊してるわけでもない」


 そして。


 地面へ視線を落とす。


「下から喰われてるんだ」


     ◇


 その言葉で。


 わしの中に散らばっていたものが。


 一つ。


 繋がった。


 森から消えた魔力。


 枯れた精霊樹。


 捕らわれた精霊。


 逃げ出した獣と魔物。


 誰もいなくなった村。


(……全部)


 吸われている。


 地の底の。


 何かに。


『――返せ』


 再び雷葬獣の声。


(この石をか)


『――そうだ』


(返せば、お前の封印が解けるんじゃないのか)


 しばらく。


 答えはなかった。


 やがて。


『――違う』


(何が違う)


『――楔は』


 一拍。


『――我を封じるものではない』


「…………!」


 わしの身体が固まった。


(なら)


『――我と』


『――地上を繋ぐもの』


 その瞬間。


 視界が白く染まった。


     ◇


 知らない景色が。


 頭の中へ流れ込んでくる。


 森ではない。


 荒れ果てた大地。


 空は暗く。


 地面には巨大な亀裂が走っていた。


 そして。


 その亀裂の奥から。


 黒いものが溢れている。


 根。


 霧。


 泥。


 どれにも見える。


 触れた草は枯れ。


 木は黒く染まり。


 逃げ遅れた獣が、音もなく地面へ崩れ落ちる。


(……吸われとる)


 命を。


 魔力を。


 区別なく。


 すべて。


 地の底へ。


 その前に。


 一頭の巨大な獣が立っていた。


 銀色の角。


 黒い毛。


 全身を包む雷。


 雷葬獣。


 今よりも若く。


 傷一つない。


 その周囲には。


 十数人の人間。


 長い杖を持った者。


 剣を持つ者。


 そして。


 一人の老人。


 真っ白な髪。


 深い皺。


 だが。


 眼だけは異様なほど強い。


『これでは駄目だ』


 老人が言った。


 誰かが答える。


『ならば雷葬獣ごと封じるしかない』


『違う』


 老人は即座に否定した。


『こやつまで封じれば』


 裂け目を見る。


『誰が“下”を抑える』


(…………)


 わしは息を呑んだ。


 老人は雷葬獣へ歩み寄る。


 巨大な頭へ。


 手を置いた。


『すまぬ』


 雷葬獣が低く唸る。


 だが。


 逃げなかった。


『お前の力を借りる』


 その言葉と同時に。


 仲間たちが動き始める。


 黒い石。


 十二。


 それらを。


 雷葬獣を囲むように地面へ配置していく。


『楔を十二』


『地上へ置く』


『お前の力を、ここから森へ巡らせる』


 老人が杖を掲げた。


 瞬間。


 雷葬獣の身体から。


 銀色の雷が伸びた。


 十二本の黒い楔へ。


 そして。


 楔から楔へ。


 網のように。


 大地へ。


 森へ。


 広がっていく。


(アンテナ……)


 前世の知識が。


 そんな言葉を思い浮かばせた。


 黒い楔は。


 雷葬獣を縛るためのものではない。


 その力を。


 地上へ伝え。


 広げるための。


 中継点。


『だが』


 老人の隣にいた男が言う。


『こやつの力は強すぎる。誰にも御せぬ』


『だから封じる』


『やはり雷葬獣を?』


『違う』


 老人は首を振った。


『こやつの力を分けて封じる』


 十二の黒石を見る。


『こやつ自身を自由にしておけば、力が強すぎる』


『だからここへ留める』


『だが』


 一拍。


『殺してはならぬ』


 誰かが尋ねる。


『なぜだ』


 老人が。


 地の裂け目を見る。


『こやつが死ねば』


 ――ドクン。


 地の底で。


 何かが動いた。


 雷葬獣より。


 遥かに。


 大きい。


 形は見えない。


 ただ。


 存在だけで。


 空気が腐るような。


 嫌なもの。


『次に目覚めるのは』


 老人が静かに言った。


『――下だ』


     ◇


「――あぅっ!」


「レオン!」


 気づけば。


 現実へ戻っていた。


 息が荒い。


 胸元が焼けるように熱い。


 黒雷石は。


 眩しいほどの銀色の光を放っている。


「レオン、どうしたの!?」


 セレナが顔を覗き込む。


(今のは……)


 お前の記憶か。


 そう問いかける。


 すると。


『――違う』


(何?)


『――楔の記憶だ』


 わしは黒雷石へ視線を落とした。


(……こいつ)


 単なる石ではない。


 封印具ですらない。


 雷葬獣と地上を繋ぎ。


 その力を蓄え。


 そして。


 長い時間の出来事まで。


 記録していた。


     ◇


「レオン」


 セレナが不安そうにわしを見る。


「何を見たの?」


(全部伝えたい)


 心からそう思った。


 今。


 ここで。


 雷葬獣は敵ではない。


 あれは。


 地下の何かを抑えている。


 そう言わなければいけない。


 だが。


「あぅ!」


 口から出るのは。


 やはり。


 赤ん坊の声だけ。


(くそっ)


 仕方なく。


 必死に身振りで伝える。


 雷葬獣。


 黒雷石。


 地面。


 森。


 そして。


 繋げる。


「……石と」


 セレナがわしの動きを追う。


「雷葬獣が……繋がってる?」


「あぅ!」


「黒雷石が?」


 頷く。


「雷葬獣を封じてるんじゃない?」


 さらに強く頷く。


 そこで。


 マルタが動きを止めた。


「……待ちな」


 穴の周囲。


 残された楔。


 そして。


 わしの胸元。


「まさか」


 ゆっくりと。


 考える。


「楔は」


 一拍。


「雷葬獣の力を地上へ流すためのものなのか?」


「あぅ!!」


 わしは両手を上げた。


「…………」


 マルタの顔が変わる。


「だから」


 彼女は地面へ視線を落とした。


「楔が消えるたび、森の魔力が薄くなった」


「精霊樹も弱った」


「魔物たちも逃げ出した」


 セレナの瞳が揺れる。


「雷葬獣の力が……森へ届かなくなってる?」


「まだ推測だ」


 マルタは言った。


 けれど。


 その声には。


 自分でも答えに近づいているという確信が滲んでいた。


     ◇


「じゃあ」


 セレナが。


 穴の底にいる雷葬獣を見る。


 その声は。


 少しだけ震えていた。


「この子は」


 一拍。


「ここに封じられたんじゃなくて」


 巨大な獣の銀色の瞳が。


 ゆっくりとセレナへ向く。


「ここに……残されたの?」


 ――トクン。


 静かな鼓動。


 まるで。


 それが。


 答えのようだった。


     ◇


『――戻せ』


 雷葬獣の声が。


 再びわしへ届く。


(黒雷石を?)


『――そうだ』


(戻せばどうなる)


『――繋がる』


(十二本が?)


『――再び』


 なるほど。


 失われた楔は七本。


 そのうち一本。


 わしが持っている。


 戻せば。


 少なくとも。


 一本分。


 雷葬獣の力を地上へ戻すことができる。


 だが。


(どうやって返す)


 黒雷石は。


 わしから離れようとしない。


 以前。


 外そうとしただけで。


 熱を発した。


 すると。


『――来い』


(だからここにおるじゃろ)


『――もっと』


「…………」


(何?)


 銀色の瞳が。


 わしだけを見る。


『――近くへ』


(無茶を言うな)


 穴の底までは。


 遥かに深い。


 今のわしは赤ん坊。


 歩くことすらできない。


 そう思った時だった。


 ――ゴゴゴゴ……。


「何!?」


 セレナが一歩下がる。


 穴の壁。


 岩が動く。


 土が崩れ。


 やがて。


 壁の一部から。


 石の道が。


 ゆっくりとせり出してきた。


 螺旋を描きながら。


 穴の底へ。


「……階段?」


 マルタが目を見開く。


「雷葬獣が作ったのかい?」


「た~ぶ~ん~」


 カラリンも。


 珍しく目を丸くしている。


(そんなことまでできるなら最初からやれ)


 そう思った。


 その直後。


 ――ドクンッ!!


 今までで最大の鼓動が。


 地の底から響いた。


     ◇


 穴全体が大きく揺れる。


「きゃっ!」


 セレナが膝をついた。


 マルタは杖を地面へ突き立て。


 カラリンは尻餅をつく。


 そして。


 雷葬獣の下。


 黒い何かが。


 一気に膨れ上がった。


『――グァァァァッ!!』


 雷葬獣が初めて。


 咆哮した。


 穴一面を埋め尽くす銀雷。


 黒い根が。


 次々と焼けていく。


 だが。


 数が多すぎる。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 黒い根が。


 雷葬獣の脚へ絡みつく。


『――急げ!』


 頭の中。


 雷葬獣の声が響く。


 今までで。


 一番強く。


『――器よ!』


(器?)


 わしのことか?


 その瞬間。


 胸元の黒雷石が。


 焼けるような熱を放った。


「おぎゃああああっ!」


「レオン!」


 セレナがわしを抱き締める。


 七本の銀線。


 一斉に光る。


 そして。


 わしの小さな右手から。


 雷が生まれた。


 だが。


 攻撃ではない。


 細い一本の光。


 それが。


 穴の底。


 雷葬獣へ向かって伸びる。


 ――バチンッ!


「っ……!」


 繋がった。


 その瞬間。


 途方もない力が。


 わしの身体へ流れ込んできた。


(待て待て待て!)


 多すぎる。


 赤ん坊。


 一人。


 受け止められる量ではない。


『――耐えろ』


(無茶を言うな!)


『――まだ』


 雷葬獣の声。


『――お前しか』


 一拍。


『――我を繋げぬ』


「…………」


 器。


 昔。


 セレナの母親が言った。


 雷葬獣は。


 力を預ける相手を選ぶ。


(……まさか)


 わしが。


 選ばれたのか。


     ◇


「レオン!」


 セレナの悲鳴に近い声が響く。


「マルタ! 止めて!」


「無理だ!」


「何で!」


「坊やと黒雷石が直接繋がってる!」


 マルタの顔から。


 いつもの余裕が完全に消えている。


「今無理に切れば、坊やの方がどうなるか分からない!」


「そんな……!」


「し~しょ~!」


「カラリン!」


 マルタが叫ぶ。


「結界を張れ!」


「せ~い~れ~い~が~!」


「頼め!」


「…………!」


 カラリンが杖を両手で握った。


「お~ね~が~い~!」


 声が震える。


「ちょ~っ~と~だ~け~!」


「ち~か~ら~か~し~て~!」


 一瞬。


 何も起こらなかった。


 だが。


 森の中。


 小さな。


 青い光が。


 一つ。


 戻ってくる。


 次に。


 緑。


 金。


 赤。


 かつて黒い芽から解放された精霊たちが。


 一つ。


 また一つ。


 カラリンの周囲へ集まり始めた。


「……あ~り~が~と~」


 カラリンの目から。


 涙が落ちる。


 杖を掲げる。


「ま~も~っ~て~!」


 淡い光が。


 わしらを包んだ。


 雷の奔流が。


 僅かに。


 和らぐ。


(……これなら)


 まだ。


 耐えられる。


     ◇


『――来い』


 雷葬獣が。


 再び呼ぶ。


 石の階段。


 穴の底へ続く。


 セレナは。


 わしを抱いたまま。


 その先を見下ろした。


 怖い。


 背中越しでも。


 分かる。


 手が。


 震えている。


 それでも。


「行く」


 セレナが一歩。


 石段へ足を乗せた。


「セレナ」


 マルタが呼ぶ。


「この子だけ、一人で行かせると思う?」


「…………」


「それに」


 セレナは穴の底の雷葬獣を見る。


「私も」


 一歩。


「自分の目で確かめる」


 さらに一歩。


「あなたが」


 一拍。


「本当に敵なのか」


 雷葬獣の銀色の目が。


 僅かに細くなる。


『――好きにしろ』


(意外と話が早いのう)


 こんな時なのに。


 少し笑いそうになった。


     ◇


 マルタが続く。


 カラリンも。


 精霊たちを連れて。


 その後ろへ。


 わしらは。


 暗い穴の底へ。


 ゆっくりと降りていった。


 一段。


 また一段。


 雷葬獣が。


 近づいてくる。


 その間にも。


 ――ドクン。


 地下の何かが動く。


 ――トクン。


 雷葬獣が押し返す。


 さらに下りる。


 やがて。


 わしにも。


 はっきり見えた。


 雷葬獣の腹の下。


 巨大な亀裂。


 その奥。


 黒い。


 何か。


 いる。


「…………」


 形が。


 分からない。


 目もない。


 口もない。


 身体すら。


 どこからどこまでなのか分からない。


 だが。


 見た瞬間。


 理屈ではない。


 本能が。


 叫んだ。


(あれは駄目じゃ)


 地上へ。


 出してはいけない。


     ◇


「マルタ」


 セレナが小さく呼ぶ。


「私……」


 その声が。


 僅かに震えている。


「あれ、嫌」


「奇遇だね」


 マルタも。


 青い顔で裂け目を見ていた。


「あたしもだよ」


 カラリンは。


 杖を胸へ抱く。


「せ~い~れ~い~た~ち~」


「何て?」


「み~な~い~で~って~」


「…………」


「お~も~い~だ~し~た~く~な~い~って~」


(精霊たちは……知っておる)


 ずっと。


 昔から。


 地の底の。


 あれを。


     ◇


 ――パキン。


 乾いた音が。


 遥か上から響いた。


 全員が。


 顔を上げる。


 残っていた楔。


 一本。


 砕けた。


 その瞬間。


 胸元の黒雷石に。


 新しい銀色の線が浮かび上がる。


 八本目。


 ――ドクンッ!!


 地下。


 何かが。


 大きく動く。


 雷葬獣の巨体が。


 僅かに沈んだ。


『――急げ!!』


 声が。


 頭を揺らす。


 近い。


 苦しい。


 それでも。


 今なら。


 分かる。


 雷葬獣は。


 外へ出たいわけではない。


 逃げたいわけでもない。


 長い。


 長い時間。


 ずっと。


 ここに残り。


 誰にも知られず。


 誰にも褒められず。


 ただ。


 地下の何かを。


 地上へ出さないために。


 一人で。


 押さえ続けていた。


(……孤王)


 ふと。


 自分のギフトの名を思い出した。


 一人で戦う時ほど。


 強くなる。


 力。


(まさか)


 こんな場所で。


 わし以上に。


 一人で戦っとる馬鹿に会うとはのう。


     ◇


 やがて。


 最後の一段。


 セレナの足が。


 穴の底へ着いた。


 目の前。


 雷葬獣。


 近くで見ると。


 さらに巨大だった。


 呼吸一つで。


 風が生まれる。


 銀色の瞳。


 その視線が。


 真っ直ぐ。


 わしへ向けられた。


『――器』


(わしには名前がある)


 一瞬。


 沈黙。


 そして。


『――レオン』


「…………」


(知っとるんかい)


 思わず。


 心の中で突っ込んだ。


 雷葬獣が。


 巨大な鼻先を。


 ゆっくり。


 近づけてくる。


 セレナの身体が。


 即座に強張った。


「レオンに触らないで」


『――害さぬ』


「信用できない」


『――好きにしろ』


(この二人、相性悪そうじゃな)


 だが。


 次に。


 雷葬獣が発した言葉で。


 そんな軽口は。


 一瞬で消えた。


『――人の子よ』


 銀色の瞳が。


 セレナ。


 マルタ。


 カラリンへ向く。


『――我を恐れるな』


 一拍。


 巨大な頭が。


 ゆっくりと。


 地の裂け目へ向く。


『――恐れるべきは』


 ――ドクン。


『――我が下にいる』


 地の底。


 何かが。


 大きく脈打つ。


『――あれだ』


     ◇


 裂け目の奥。


 闇が。


 膨らんだ。


 次の瞬間。


 黒い。


 巨大な。


 指。


 一本。


 地の底から。


 ゆっくりと伸びてきた。


「…………」


 それは。


 指だった。


 たった。


 一本。


 なのに。


 雷葬獣の前脚ほどもある。


 表面には。


 無数の黒い芽。


 びっしり。


 生えていた。


 ――ドクン。


 指が動く。


 その瞬間。


 雷葬獣が咆哮した。


 銀雷が。


 地の底へ叩きつけられる。


 ――ドォン!!


 光。


 轟音。


 黒い指が焼ける。


 それでも。


 完全には消えない。


 ゆっくりと。


 裂け目の奥へ。


 引っ込んでいくだけだった。


(…………)


 そこで。


 ようやく。


 わしは理解した。


 雷葬獣。


 巨大。


 恐ろしい。


 殺せない。


 だから。


 封じた。


 ずっと。


 そう思っていた。


(違う)


 こいつは。


 災厄ではない。


 ――番犬じゃ。


 地下の。


 本当の災厄が。


 地上へ出てこないように。


 ここへ繋がれ。


 自分の力を削られながら。


 それでも。


 何百年。


 一人で戦い続けてきた。


 守り手。


     ◇


 雷葬獣の銀色の瞳が。


 再び。


 わしへ向いた。


『――レオン』


(なんじゃ)


『――選べ』


「…………」


『――我へ楔を返すか』


 一拍。


 地下から。


 ――ドクン。


『――このまま』


 黒い気配が。


 再び蠢く。


『――下を目覚めさせるか』


(ずるい聞き方をするのう)


 そんなの。


 答えは決まっている。


 だが。


 その前に。


 一つ。


 聞かなければならない。


(黒雷石を返したら、お前はどうなる)


 初めて。


 雷葬獣が。


 黙った。


(答えろ)


 長い。


 沈黙。


 やがて。


『――分からぬ』


(何?)


『――楔は七つ失われた』


『――我も』


 一拍。


『――すでに弱った』


 その声は。


 驚くほど。


 静かだった。


『――楔を戻せば』


『――封は強まる』


(お前は助かるのか)


 再び。


 沈黙。


『――保証はできぬ』


「…………」


 なるほど。


 黒雷石を戻せば。


 地下の何かを。


 再び押さえられる可能性がある。


 だが。


 雷葬獣が。


 その後。


 生きられる保証はない。


(そうか)


 わしは。


 胸元の黒雷石を握った。


 熱い。


 生き物のように。


 脈打っている。


 世界。


 森。


 雷葬獣。


 地下の何か。


 選択は。


 とてつもなく大きい。


 それでも。


 不思議と。


 考えることは。


 単純だった。


(まず)


 目の前。


 助ける。


 それから。


 次。


 考える。


 百十年。


 会社をやってきた。


 問題なんぞ。


 一度に全部。


 片づけられるものではない。


 なら。


 一つずつ。


     ◇


 わしは黒雷石を握ったまま。


 雷葬獣を見る。


「あぅ」


 情けない。


 声。


 それでも。


 何を言いたいのか。


 伝わったらしい。


 雷葬獣の銀色の瞳が。


 僅かに細くなった。


『――そうか』


 次の瞬間。


 黒雷石が。


 眩い銀色の光を放った。


「レオン!」


 セレナの声が聞こえる。


 だが。


 遠い。


 銀色の雷が。


 わしと。


 雷葬獣を繋ぐ。


 地下では。


 ――ドクンッ!!


 本当の災厄が。


 目覚めようとしている。


 そして。


 頭の奥。


 雷葬獣の声が響いた。


『――では』


 一拍。


『――共に』


 銀雷が。


 地の底を照らす。


『――奴を眠らせるぞ』


 わしは。


 その言葉を聞いて。


 一つだけ。


 思った。


(その前に)


 黒い裂け目を睨む。


(あいつの名前くらい教えてくれんかのう)


 だが。


 どうやら。


 そんな余裕は。


 もう。


 残されていないらしい。


 胸元の黒雷石。


 八本目の銀線が。


 静かに。


 完全な形となって。


 浮かび上がった。

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