第38話 百十歳、百年越しの再会を見ます
里の奥へ進むにつれて、セレナの口数は目に見えて減っていった。
先ほどまでは、昔と変わらない景色を見つけるたびに、小さく何かを呟いていた。あの木はまだ残っているだとか、この道は昔より狭くなっただとか、そんな他愛もないことばかりだった。
けれど、隊長から「母親が生きている」と聞かされてからというもの、セレナはほとんど何も話さなくなった。
わしを背負う肩だけが、時折わずかに強張る。
(無理もないのう)
百年以上。
死んだと思っていた母親が生きている。
それだけでも十分に頭が追いつかない話だ。
まして、その死そのものが誰かによって作られた嘘だったというのだから、何を思えばいいのかすら分からないだろう。
「この先です」
前を歩いていた隊長が足を止めた。
そこには、周囲のものより一回り大きな古木が立っていた。幹の一部をくり抜くようにして家が作られており、窓辺には小さな花が並んでいる。
派手さはない。
けれど、長い年月を丁寧に暮らしてきたことだけは伝わってくる家だった。
「……ここに」
セレナの声が掠れた。
「母さんが?」
「はい」
隊長はそれ以上何も言わなかった。
セレナも動かない。
扉までは、ほんの数歩。
それなのに。
その距離が、ひどく遠いように見えた。
「セレナ」
マルタが静かに呼ぶ。
「無理なら、あたしが先に入るよ」
セレナは小さく首を振った。
「……大丈夫」
そう言って。
ようやく一歩を踏み出した。
◇
コン、コン。
隊長が扉を叩く。
少しして。
「入って」
中から、老いた女性の声が返ってきた。
その瞬間。
セレナの手が止まった。
「…………」
顔は見えない。
けれど、分かった。
知っている声なのだ。
百年以上という時間が過ぎても。
忘れられなかった声。
セレナは一度だけ深く息を吸うと、扉へ手をかけた。
ゆっくりと開く。
◇
部屋の中は質素だった。
木の机。
椅子。
本棚。
壁際には乾燥させた薬草が吊るされ、小さな炉の上では湯が静かに沸いている。
その奥。
一人の老女が座っていた。
細い身体。
長い銀髪。
深い皺。
けれど、その瞳だけは驚くほど澄んでいた。
老女が顔を上げる。
そして。
セレナを見る。
「…………」
時間が止まったようだった。
やがて。
老女の唇が、ゆっくりと震えた。
「……セレナ」
名前を呼ばれただけだった。
それだけで。
セレナの身体が大きく揺れた。
「…………母さん?」
声が小さい。
今まで聞いたことがないほど。
幼い声だった。
「ええ」
老女の目に涙が溜まっていく。
「そうよ」
そして。
笑った。
「おかえりなさい」
「…………」
セレナは答えなかった。
答えられなかったのだと思う。
一歩。
また一歩。
確かめるように近づいていく。
やがて、老女の前で止まった。
「……どうして」
声が震える。
「どうして、生きてるの」
老女は何も言わなかった。
「私……死んだって聞いた」
「知ってる」
「嘘だったの?」
「……ええ」
その答えを聞いた瞬間。
セレナの表情が崩れた。
「どうして……」
最初は小さかった声が。
次第に強くなる。
「どうして!」
部屋の中へ響いた。
「百年以上よ!」
握り締められた拳が震えている。
「百年以上、あなたが死んだと思ってた!」
誰も止めなかった。
止められるはずもなかった。
「私……」
声が詰まる。
「帰る場所なんてないって思ってた」
「誰も待ってないって」
「もう何も残ってないって……!」
老女は黙って聞いていた。
ただ。
その目から。
涙だけが落ちていく。
「それなのに……」
セレナの声が潰れる。
「生きてるなら……」
その先は。
言葉にならなかった。
老女が立ち上がる。
細い腕で。
セレナを抱き締めた。
「ごめんなさい」
「……っ」
「本当に、ごめんなさい」
セレナは最初。
腕を下ろしたまま固まっていた。
だが。
やがて。
ゆっくりと。
母親の背中へ手を回した。
「……母さん」
「うん」
「母さん……」
「うん」
それしか言えなかった。
けれど。
それで十分なのだと思う。
百年以上。
失われていた時間。
そんなものが。
言葉の一つや二つで埋まるはずがない。
それでも。
少なくとも。
今。
二人は同じ場所にいる。
(百年経っても)
親子というのは。
こういうものなのかもしれない。
◇
しばらくして。
ようやく二人は離れた。
セレナは目元を袖で拭いながら、わしらの方を見る。
「……最悪」
「何がだい」
マルタが尋ねる。
「こんなところ見られた」
「今さらだね」
「ひ~さ~し~ぶ~り~に~あ~え~た~ん~だ~か~ら~い~い~じゃ~ん~」
カラリンが何でもないように言う。
(その通りじゃな)
セレナは少しだけ顔を赤くした。
そんな娘を見る母親の表情は、ひどく穏やかだった。
そして。
その視線が。
わしへ移る。
「その子は?」
「レオン」
セレナがすぐに答える。
「私が育ててる」
「あなたの子?」
「違う!」
即答だった。
(そこまで強く否定せんでも)
「拾ったの!」
「そう」
老女は微笑む。
「可愛い子ね」
(またそれか)
「あぅ」
頭を撫でられる。
だが。
その指が。
途中で止まった。
「…………」
(ん?)
老女の目が。
わしの胸元へ向いている。
黒雷石。
「その石……」
セレナの表情が変わった。
「知ってるの?」
老女はすぐには答えなかった。
ただ。
長い時間。
黒雷石を見つめている。
やがて。
「……まだ、残っていたのね」
小さく呟いた。
部屋の空気が。
少しだけ変わった。
◇
「知ってるなら話して」
セレナが言った。
「全部」
「セレナ」
「もう隠されるのは嫌」
その声には。
先ほどまでの弱さはなかった。
老女はしばらく娘を見つめていた。
やがて。
諦めたように椅子へ座る。
「分かったわ」
その一言で。
全員が自然と席についた。
そして。
老女はゆっくりと話し始めた。
「あなたが追放された日」
セレナの顔が強張る。
「禁域の楔が一本、消えた」
「……知ってる」
「あなたが犯人にされた」
「ええ」
「でも」
老女は。
はっきりと言った。
「あなたじゃない」
セレナの目が見開かれる。
「……どういうこと?」
「あなたが禁域へ入る前に」
老女は続けた。
「すでに一本、抜かれていたの」
沈黙。
「それ……」
セレナの声が低くなる。
「知ってたの?」
「あとから知ったわ」
「いつ」
「あなたが追放された後」
「…………」
その言葉。
セレナの中で。
何かを切ったらしい。
「じゃあ」
立ち上がる。
「私が犯人じゃないって分かってたの?」
「……ええ」
「だったら!」
声がまた大きくなる。
「どうして追放を取り消さなかったの!」
指が。
切り落とされた耳へ触れる。
「こんなことまでされて!」
「セレナ」
「どうして!」
老女は顔を伏せた。
「できなかったの」
「何で!」
「できなかったんじゃない」
そこで。
マルタが口を挟んだ。
「させてもらえなかったんだろう?」
老女がゆっくり顔を上げる。
「……やっぱり、あなたには分かるのね」
「長生きしてるからね」
(便利な言葉じゃ)
「何があったの?」
セレナの声に。
今度は怒りだけでなく。
恐怖が混じっている。
母親は少し迷った。
それでも。
話し始めた。
「長老会の中に」
一拍。
「あなたを追放したがっていた者がいた」
「私を?」
「違う」
首を振る。
「あなた自身じゃない」
そして。
視線が。
黒雷石へ。
向く。
「禁域について」
「これ以上」
「調べてほしくなかったの」
◇
セレナは戸惑っていた。
「でも、私……何も知らなかった」
「だからこそよ」
「どういう意味?」
「あなたはあの日」
老女の声が低くなる。
「禁域で」
「見てはいけないものを見た」
「中心にあったもの?」
「それだけじゃない」
「……何?」
母親は。
慎重に尋ねる。
「人を見なかった?」
「人?」
「禁域で」
「誰かを」
セレナが目を閉じた。
百年以上前。
遠い。
遠い。
記憶。
「…………」
やがて。
「いた……気がする」
小さな声。
「誰か」
「顔は?」
「覚えてない」
「服は?」
「……黒かった」
母親の顔から。
血の気が引いた。
「やっぱり……」
「何が?」
老女は目を伏せる。
「楔を抜いたのは」
一拍。
「エルフではない可能性が高い」
部屋が静かになる。
「少なくとも」
続ける。
「長老会の中には、外の誰かと通じていた者がいた」
(外の誰か……)
百年以上前。
そして。
今。
再び。
楔が消えている。
同じ人物。
とは考えにくい。
だが。
(同じ組織なら)
十分。
あり得る。
◇
「誰なの?」
セレナが聞く。
「誰が外と通じていたの?」
「証拠はないわ」
「母さん!」
「だから言えなかったの」
初めて。
母親の声も強くなった。
「疑いだけで」
「また誰かを」
一拍。
「あなたと同じ目に遭わせたくなかった」
「…………」
セレナは何も言えなくなった。
その言葉は。
重かった。
◇
「じゃあ」
今度はマルタが尋ねる。
「セレナの母親が死んだって話を流したのは?」
「長老会よ」
「理由は?」
「私を黙らせるため」
セレナが顔を上げる。
「……何それ」
笑おうとした。
でも。
笑えなかった。
「私を追放して」
「母さんまで隠して」
「全部」
唇が震える。
「最初から、そうするつもりだったの?」
母親は答えなかった。
けれど。
否定もしなかった。
(酷い話じゃ)
わしは。
前世で。
組織というものを嫌というほど見てきた。
自分たちを守るため。
一人を切る。
責任を押しつける。
見たくないものから目を逸らす。
どこの世界でも。
人のやることは。
そう変わらないらしい。
◇
「セレナ」
母親が呼ぶ。
「まだ」
「伝えなくちゃいけないことがある」
「……まだあるの?」
「ええ」
そして。
また。
黒雷石を見る。
「その石について」
(来たか)
「昔」
老女は静かに言った。
「楔は」
「ただの封印具ではなかった」
「どういうこと?」
「雷葬獣の力を」
一拍。
「分けて封じる器でもあったの」
マルタの眉が寄る。
「力を分ける?」
「ええ」
「だから」
母親の視線が。
黒雷石へ。
「楔一つ一つには」
「雷葬獣の力の一部が」
「宿っている」
(…………)
雷。
槍。
治癒。
わしが。
黒雷石から引き出したもの。
それら。
全部。
(雷葬獣の力?)
「じゃあ」
セレナの声が震える。
「レオンが雷を使えるのも」
「その石が関係している可能性は高い」
老女は答えた。
「でも」
そこで。
わしを見る。
「おかしいの」
(何がじゃ)
「普通」
ゆっくり。
言葉を選ぶ。
「楔は人へ力を貸さない」
「むしろ」
一拍。
「触れた者の魔力を奪う」
「…………」
セレナが固まる。
「でも」
母親はわしから目を逸らさない。
「この子は逆」
「石が」
静かに。
「この子を守ろうとしている」
◇
わしは思い出した。
ワイバーン。
遠距離攻撃が欲しい。
そう思った時。
黒雷石は雷の槍を作った。
瀕死の監視員。
助けたい。
そう思い。
石を押し当てた。
傷が塞がった。
(確かに)
わしが。
石を使った。
というより。
石の方が。
わしに応えた。
そんな感覚だった。
「どうしてレオンだけ?」
セレナが尋ねる。
「分からない」
「また?」
「本当に分からないの」
母親は困ったように首を振った。
「ただ」
少しだけ。
声を落とす。
「古い記録に」
「似た話がある」
「どんな?」
「雷葬獣には」
一拍。
「器を選ぶ性質がある」
「器?」
「自分の力を」
「預ける相手」
老女は。
わしを見つめた。
「もし」
「その石が、この子を選んでいるなら」
セレナの腕に力が入る。
「どうなるの?」
「……それは分からない」
「でも」
母親の目が鋭くなる。
「雷葬獣が」
「この子を」
「ただ石を持つだけの存在として見ていない」
「それだけは」
「確かだと思う」
――トクン。
まるで。
その言葉へ同意するように。
黒雷石が脈打った。
◇
「禁域へ行く」
セレナが言った。
「セレナ?」
「もう待たない」
その顔には。
先ほどまでの動揺が。
まだ残っている。
それでも。
目は。
もう逃げていなかった。
「長老会は?」
マルタが尋ねる。
「あと」
「許可は?」
「知らない」
「セレナ」
「もう」
低い声。
「誰かに勝手に決められるのは、うんざり」
母親は驚いたように娘を見た。
そして。
ゆっくり笑う。
「……変わったのね」
「そう?」
「昔のあなたなら」
少しだけ。
懐かしそうに。
「そんな顔はできなかった」
セレナは。
わしをちらりと見る。
「いろいろあったから」
(わしか?)
母親も。
わしを見る。
そして。
優しく笑った。
「そう」
「いい出会いがあったのね」
「別に……」
セレナの頬が僅かに赤くなる。
(なぜ照れる)
◇
「長老会にはあたしが話をつける」
マルタが立ち上がった。
「面倒そうだけどね」
「し~しょ~な~ら~だ~い~じょ~う~ぶ~」
カラリンの声。
セレナが振り返る。
「あなた、いたの?」
「ず~っ~と~い~た~よ~」
(わしも時々忘れとった)
カラリンは少し不満そうに頬を膨らませた。
その時。
手にしていた杖が。
僅かに震えた。
「…………」
カラリンの表情が変わる。
「どうした?」
マルタが尋ねる。
「せ~い~れ~い~」
「何?」
「ち~か~い~」
今まで。
この辺りでは。
いない。
そう言っていた。
その精霊が。
「い~っ~ぱ~い~」
カラリンは目を閉じた。
杖を両手で握る。
「どこに?」
セレナが尋ねる。
カラリンの杖が。
ゆっくりと。
森の奥。
禁域の方角を向いた。
「き~ん~い~き~」
やはり。
そこ。
「何て言ってる?」
しばらく。
返事はない。
カラリンは。
必死に何かを聞いていた。
やがて。
顔から。
血の気が引いていく。
「に~げ~て~」
また。
同じ言葉。
だが。
今回は。
その先があった。
「で~も~」
声が。
僅かに震える。
「も~う~」
一拍。
「に~げ~ら~れ~な~い~」
その瞬間。
――ズン。
大地が揺れた。
「っ!?」
棚に並んだ瓶が一斉に鳴る。
窓枠が震える。
天井から小さな埃が落ちた。
誰も動けない。
地震。
そんなものではない。
もっと。
遠く。
もっと。
大きな何かが。
身じろぎした。
そんな。
嫌な感覚だった。
――トクン。
同時に。
黒雷石が強く脈打つ。
そして。
頭の奥へ。
声が響いた。
『――来い』
(…………)
今までとは違う。
『返せ』
ではない。
『――早く』
急かしている。
『――来い』
「レオン?」
セレナがわしを見る。
わしは答えられない。
ただ。
森の奥へ目を向けた。
(……時間がない)
理由など分からない。
けれど。
そう思った。
百年以上。
止まっていたものが。
今。
急速に動き始めている。
セレナの過去。
消えた楔。
黒雷石。
雷葬獣。
精霊たちの声。
そのすべてが。
森の奥へ。
わしらを呼んでいる。
そして。
今度ばかりは。
もう。
後戻りできないような気がした。




