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第37話 百十歳、追放者の故郷へ入ります

 森へ入ってから、三時間ほどが過ぎていた。


 町の周辺に広がる森とは、まるで空気が違う。


 人の手が入った道はとうに途切れ、足元には細い獣道が一本、木々の隙間を縫うように奥へ伸びている。


 空を覆う枝葉は陽光を遮り、昼だというのに薄暗い。


 けれど。


 わしが一番気になったのは、暗さではなかった。


(……静かすぎるのう)


 セレナの背に揺られながら、周囲へ目を凝らす。


 鳥の声がしない。


 虫の羽音も聞こえない。


 時折、風が梢を揺らす音だけが頭上を通り過ぎていく。


 森に生き物がいない。


 そう思わせるほどの静寂だった。


「やっぱり、おかしい」


 セレナが足を止めた。


 長く尖った耳――その途中で切り落とされた痕を、風が銀髪の隙間から覗かせる。


「昔は、この辺りにも鳥がいた。鹿も、小さな獣も。それに……精霊も」


「今は?」


 マルタが尋ねる。


 セレナは目を閉じた。


 何かを探るように、しばらくじっとしている。


 やがて。


「……何も感じない」


 そう答えた。


 マルタの表情が僅かに曇る。


「カラリン」


「う~ん~」


 大きな尖り帽子を揺らしながら、カラリンが杖を抱えた。


 耳を寄せる。


 いつもなら、精霊と話している時には表情がころころ変わる。


 だが今日は違った。


 じっと。


 何かを聞こうとしている。


 しかし。


「……だ~れ~も~い~な~い~」


 その一言だけだった。


 誰もいない。


 森の中で聞くには。


 あまりにも不気味な言葉だった。


     ◇


 それからさらに一時間ほど歩いたところで、マルタが突然しゃがみ込んだ。


 土を指先で掬い上げる。


「何してるの?」


 セレナが振り返った。


「調べてるのさ」


「何を?」


「森を」


 マルタは土を指先で擦り合わせると、今度は鼻先へ近づけた。


 匂いを嗅ぎ。


 少量を舌先へ。


「ちょっと」


 セレナが眉をひそめる。


「何でも口に入れないで」


「毒かどうかくらい分かるよ」


「そういう問題じゃないわ」


「あんたはあたしの母親かい」


(年寄りほど人の話を聞かんからのう)


 百十年生きた身としては、少々耳が痛い。


 マルタは土を吐き出し、険しい顔で地面を見つめた。


「……薄いね」


「何が?」


「魔力だよ」


 今度はカラリンもしゃがむ。


 小さな手を地面につけ、目を閉じた。


「……ほ~ん~と~だ~」


「どのくらい?」


「ん~」


 しばらく考え。


「ご~は~ん~を~た~べ~お~わ~っ~た~あ~と~の~お~さ~ら~く~ら~い~」


「分かりにくい」


「ほ~と~ん~ど~な~い~」


「最初からそう言いな」


(相変わらずじゃな、この師弟は)


 だが。


 話している内容は笑えない。


「普通、森は町より魔力が濃い」


 マルタが立ち上がった。


「木も土も水も魔力を蓄える。ましてやエルフ領に近い森なら、精霊が多い分だけなおさらだ」


 セレナが足元を見る。


「それなのに、ほとんどない」


「ああ」


「……何かに吸われてる?」


「可能性はあるね」


 その瞬間だった。


 ――トクン。


(…………)


 胸元。


 黒雷石が脈打った。


 わしは服の上から石を押さえた。


 森へ入ってから、これで三度目。


 しかも。


 奥へ進むにつれて。


 間隔が短くなっている。


(近づいておるのか)


 何に。


 そこまでは。


 まだ分からない。


     ◇


 やがて。


 セレナが立ち止まった。


「ここよ」


「着いたのかい?」


「ここから先が、エルフの領域」


(ここが?)


 見たところ、何もない。


 門も。


 柵も。


 壁もない。


 ただ森が続いているだけだ。


 しかしセレナは、何もない空間へゆっくりと手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間。


 ――波紋が広がった。


(ほう)


 水面へ指を落としたように、空間そのものが揺らいだ。


「結界じゃな」


「あぅ」


 当然、声にはならない。


 それでもマルタは、わしの顔を見て鼻を鳴らした。


「そうさ。かなり古い術式だよ」


(顔だけで会話するのが当たり前になってきたのう)


 セレナは結界へ触れたまま動かなかった。


 ほんの少し。


 指が震えている。


「セレナ」


 マルタが呼ぶ。


「……分かってる」


 だが。


 一歩が出ない。


 無理もない。


 この薄い膜の向こうは。


 百年以上、セレナが戻らなかった場所なのだから。


「代わろうか?」


「大丈夫」


 短い返事。


 セレナは深く息を吸った。


 そして。


 足を踏み出す。


 ――キィィン!


「っ!」


 甲高い音が森に響いた。


 結界一面へ、複雑な幾何学模様が浮かび上がる。


 その一部が。


 赤く染まった。


「……まだ残ってる」


 セレナの声が掠れた。


「追放者を拒絶する術式」


 百年以上。


 それだけの時間が過ぎても。


 この森は。


 まだセレナを拒んでいる。


「下がりな」


 マルタが前へ出た。


 杖を取り出し、結界へ近づける。


「解除できるの?」


「完全に壊す必要はない。通れる程度に開けばいい」


 マルタは術式をじっと見つめた。


 やがて。


「懐かしいねえ」


「……懐かしい?」


「この結界術」


 杖の先で、光る術式の一部をなぞる。


「うちの一族の術式が基礎になってる」


「あなたの?」


「正確には、あたしの先祖だよ」


 セレナが目を瞬く。


「あなたのご先祖様?」


「ああ」


 マルタは結界から目を離さない。


「ずっと昔、この森に大規模な結界を張り直した魔術師がいた。エルフだけじゃ手に負えない部分を、人間の魔術師が手伝ったのさ」


「それが……」


「あたしの先祖」


 マルタは僅かに笑う。


「子供の頃から、この術式は嫌ってほど叩き込まれた」


「初めて聞いたわ」


「聞かれなかったからね」


「あなた、そればっかり」


(この婆さん、掘れば掘るほど何か出てくるのう)


 ただ。


 なるほど。


 それならマルタが月に一度、エルフの森への立ち入りを認められていることにも、多少の説得力が出る。


 薬師として必要とされているだけではない。


 マルタの一族そのものが。


 遥か昔から、この森と関わってきたのだ。


「少し静かにしてな」


 マルタが杖を結界へ当てる。


 淡い光が走った。


 複雑な紋様を一本ずつ解きほぐすように、杖先が動いていく。


 やがて。


 セレナを拒絶していた赤い光が。


 一つ。


 また一つ。


 消えていった。


 ――パキン。


 最後に。


 薄い氷が割れたような音。


 結界に、人一人が通れるほどの隙間が生まれた。


「行くよ」


 マルタが言った。


「……いいの?」


「よくはない」


「え?」


「あたしは入域許可を持ってる。カラリンも弟子として連れて入れる」


「私は?」


「追放者」


「…………」


「見つかったら面倒だろうね」


「ちょっと!」


「ここまで来て帰るのかい?」


 セレナがマルタを睨む。


 マルタは平然としている。


「……本当に昔からそうなのね」


「何が」


「強引」


「あんたにだけは言われたくないよ」


     ◇


 結界を越えた瞬間。


 空気が変わった。


(……ほう)


 思わず。


 息を呑む。


 木々の間を。


 淡い光が漂っている。


 青。


 緑。


 紫。


 蛍のような小さな光が、森の奥へと続いていた。


 足元には見たことのない花が咲き、その花弁までもが淡く輝いている。


 さらに遠く。


 巨大な樹木が見えた。


 幹そのものが塔のように太い。


 枝と枝の間には吊り橋が渡され。


 木々に寄り添うように、いくつもの建物が作られている。


(これが……エルフの里)


 異世界へ来て。


 初めて。


 本当に別の世界へ来たのだと。


 そう思わせる光景だった。


 だが。


 セレナだけは。


 その景色に見惚れていなかった。


「……変わってない」


 呟く。


 声が。


 ほんの少し震えていた。


「百年以上経ってるのに……」


 わしは背中から。


 セレナの肩へ手を置いた。


「あぅ」


「…………」


 セレナが横目でわしを見る。


「大丈夫」


 誰に言ったのか。


 わしには分からなかった。


     ◇


「――止まれ!」


 鋭い声が森を裂いた。


 直後。


 ――ヒュッ!


 一本の矢が飛来し。


 わしらの数歩先へ突き刺さった。


「動くな!」


 木々の陰から。


 一人。


 また一人。


 エルフたちが姿を現した。


 弓を構え。


 矢を番えている。


 その数。


 六人。


(やはり警備はしっかりしとるな)


 前世の癖で、こんな時まで警備体制を見てしまう。


 その中から。


 一人の男が前へ出た。


「マルタ殿」


「久しぶりだね」


「本日は入域を許可された日ではないはずですが」


「緊急事態さ」


 男の眉が寄る。


「連絡も受けておりません」


「連絡してる暇がなかった」


「……そちらのゴブリンは?」


「あたしの弟子だよ」


「ゴブリンを?」


「何か文句でも?」


「いえ」


 男は一度、カラリンを見る。


 そして。


 その視線が。


 セレナへ移った。


「そちらの――」


 言葉が止まった。


「…………」


 銀色の髪。


 顔。


 そして。


 切り落とされた耳。


 男の目が。


 大きく見開かれる。


「まさか……」


 セレナは何も言わなかった。


「…………セレナ?」


 その名が。


 百年以上ぶりに。


 故郷で呼ばれた。


 セレナの身体が僅かに強張る。


「……久しぶり」


 男は。


 信じられないものを見るように、セレナを見つめていた。


「生きて……いたのか」


 セレナの目が。


 冷たくなる。


「残念だった?」


「違う」


「じゃあ何?」


「私は……」


 男の言葉が止まる。


 しばらく。


 何も言えなかった。


 やがて弓を下ろし。


「……そういう意味ではない」


 それだけを口にした。


     ◇


「隊長」


 後ろにいた若いエルフが声を上げた。


「あの女は?」


 そして。


 セレナの耳を見る。


「……まさか」


 顔色が変わる。


「追放者?」


 ざわり。


 空気が変わった。


「なぜ追放者がここに!」


「結界はどうした!」


「マルタ殿、説明を!」


 再び。


 弓が上がる。


「静かにしな!」


 マルタが杖を地面へ打ちつけた。


 ――ドンッ!


 鈍い音とともに。


 空気そのものが震えた。


 木々の葉が一斉に揺れる。


 エルフたちの声が止まった。


「こっちは昔話をしに来たんじゃない」


 マルタの声が低くなる。


「人間の村が一つ消えた」


「…………」


「魔物は森から逃げ出してる。精霊は助けを求めてる。森の魔力まで薄くなってる」


 エルフたちの顔が。


 僅かに強張った。


「知らないとは言わせないよ」


「…………」


 沈黙。


 それが。


 何よりの答えだった。


「何が起きてる?」


 マルタが問う。


 隊長はしばらく迷った。


 やがて。


「……三日前」


 重い口を開く。


「東の泉が枯れました」


 セレナの表情が変わった。


「東の泉が?」


「知ってるのかい?」


「里の水源よ。あれが枯れるなんて……」


「それだけではありません」


 隊長は続ける。


「精霊樹が次々と枯れ始めています」


 カラリンが杖を強く抱いた。


「それから」


 男の声が。


 さらに低くなる。


「昨夜」


 一拍。


「禁域の結界が破られました」


 ――トクンッ!


「っ……」


 胸元で。


 黒雷石が強く脈打った。


 これまでとは比べものにならない。


 熱。


 服越しでも分かる。


「レオン?」


 セレナが振り返る。


(まずいのう)


 ――トクン。


 ――トクン。


 ――トクン。


 鼓動のように。


 石が震える。


 そして。


 頭の奥へ。


 声が響いた。


『――近い』


(…………)


『――近い』


(何がじゃ)


 答えはない。


 ただ。


 黒雷石は。


 森のさらに奥へ向かうように。


 微かに震えていた。


     ◇


「禁域の結界が破られたのは、昨夜なのね?」


 セレナが尋ねる。


「ああ」


「誰がやったの?」


「分からない」


「見張りは?」


「……いた」


 隊長の顔が曇る。


「なら、その人たちに――」


「消えた」


 セレナが言葉を止める。


「……何?」


「三人いた見張りが、全員消えた」


「死体は?」


「ない」


「血は?」


「ない」


「戦った跡は?」


「……それもない」


 わしは。


 昨日聞いた話を思い出していた。


 消えた村。


 人間。


 家畜。


 犬。


 鳥。


 何も残さず。


 いなくなった。


(同じじゃな)


 セレナも気づいたのだろう。


「マルタ」


「ああ」


「村と同じ」


「おそらくね」


 マルタの顔から。


 いつもの飄々とした雰囲気が消えた。


「案内しな」


「どこへ?」


「決まってるだろ」


 杖を握る。


「禁域だ」


「できません」


 隊長は即答した。


「外部の者を禁域へ入れることは――」


「じゃあ勝手に行く」


「マルタ殿!」


「止められるなら止めてみな」


(この婆さん、強いのう)


 エルフたちの間に緊張が走る。


 だが。


 隊長は。


 マルタではなく。


 セレナを見ていた。


「……一つ、条件があります」


「何だい?」


「セレナ」


 名前を呼ばれ。


 セレナの表情が硬くなる。


「長老会へ来てくれ」


「嫌よ」


 即答だった。


「頼む」


「嫌」


「禁域への立ち入りを認められるのは長老会だけだ」


「なら勝手に入る」


「お前までマルタ殿みたいなことを言うな」


「誰があたしみたいだって?」


「今は黙っててください」


(随分苦労しとるな、この男)


 だが。


 隊長の表情はすぐに真剣なものへ戻った。


「それに」


「何?」


「お前に会いたがっている方がいる」


 セレナの眉が寄る。


「私に?」


「ああ」


「誰?」


 男は。


 答えることを躊躇した。


 ほんの一瞬。


 けれど。


 その迷いを。


 わしは見逃さなかった。


「……誰なの?」


 セレナがもう一度尋ねる。


 男は。


 静かに答えた。


「あなたの母上だ」


 セレナの表情が。


 消えた。


「…………」


 風が。


 銀色の髪を揺らした。


「……何て?」


「生きておられる」


「…………嘘」


「嘘ではない」


「だって……」


 声が。


 震える。


「母さんは……」


 セレナの指が。


 わしを支えている布を強く握った。


「私が追放された後に、死んだって……」


「そう聞かされたはずだ」


「…………」


 隊長は目を伏せた。


「それが」


 少しだけ。


 苦しそうに。


「嘘だった」


「…………」


 セレナの呼吸が。


 止まったように見えた。


 百年以上。


 死んだと思っていた母親。


 それが。


 生きている。


 本来なら。


 喜ぶべき話なのだろう。


 だが。


(違うのう)


 なぜ。


 死んだと伝えられた。


 誰が。


 何のために。


 セレナへ嘘をついた。


 そして。


 百年以上経った今になって。


 なぜ母親が会いたがっている。


 わしは。


 セレナの肩へ。


 そっと手を置いた。


「…………」


 セレナがわしを見る。


「あぅ」


 言葉にはならない。


 けれど。


 セレナは。


 わしの小さな手へ、自分の手を重ねた。


「……大丈夫」


 また。


 その言葉だった。


 ただ。


 今度は。


 先ほどよりも。


 ずっと弱かった。


     ◇


 長い沈黙のあと。


 セレナが顔を上げた。


 隊長を見る。


 その瞳には。


 恐怖も。


 戸惑いも。


 怒りも。


 全部。


 残っていた。


 それでも。


 逃げなかった。


「……案内して」


 隊長が小さく頷く。


「分かった」


「母さんのところへ」


 セレナは。


 故郷の奥へ目を向けた。


 百年以上。


 帰らなかった森。


 自分を拒絶した里。


 切り落とされた耳。


 追放。


 死んだと聞かされていた母。


 そして。


 そのさらに奥では。


 禁域の結界が破られている。


 わしの胸元で。


 ――トクン。


 黒雷石が。


 また一度。


 脈打った。


(……どうやら)


 セレナだけではない。


 この森そのものが。


 百年以上。


 何かを隠してきたらしい。


 そして。


 その蓋が。


 今。


 ようやく。


 開こうとしていた。

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