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第36話 百十歳、追放者と森へ向かいます

 冒険者ギルドを出た頃には、昼を少し回っていた。


 町はいつもと変わらず賑わっている。


 石畳を荷馬車が行き交い、露店からは香辛料と焼いた肉の匂いが流れてくる。道端では冒険者たちが声を張り上げ、どこかの店先では子供が母親に叱られていた。


 平穏そのもの。


 だからこそ。


 先ほど記録庫で聞いた話が、ひどく現実離れして思えた。


 森では精霊が苦しんでいる。


 魔物たちは住処を捨て、人里へ流れ込んでいる。


 村からは、人も獣も虫すらも消えた。


 そして。


 わしの胸元にある黒雷石には、六本目の銀色の線が浮かんだ。


(これでも偶然というには、さすがに無理があるのう)


 セレナの背中から町並みを眺めながら、わしは服越しに黒雷石へ触れた。


 今は静かだ。


 昨夜のような声も聞こえない。


 まるで何も知らない顔をしている。


(お前さんも、随分と都合がええな)


「まず孤児院へ戻るよ」


 前を歩いていたマルタが言った。


 隣ではカラリンが、大きな尖り帽子を揺らしながらついていく。


「今日中に森へ入るんじゃなかったの?」


 セレナが尋ねると、マルタは呆れたように振り返った。


「何の準備もせず禁域へ突っ込む気かい?」


「そこまでは言ってないでしょ」


「昔やったじゃないか」


 セレナの足が止まった。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけだった。


 それでも、わしには分かった。


 言葉が刺さったのだ。


 マルタも気づいているだろう。


 けれど謝らなかった。


 代わりに、少しだけ声を落とした。


「今度は違う」


「…………」


「あの頃のお前は、一人だった。でも今回は違うだろ」


 セレナは何も言わない。


「食料も持つ。薬も持つ。野営道具も必要だ。毒消し、解呪薬、予備の武器、それから魔術媒体」


「わ~た~し~も~ね~?」


 カラリンが横から言った。


 マルタがちらりと見る。


「役にたつのかい?」


「わ~た~し~も~ま~じゅ~つ~し~だ~か~ら~」


「半人前だけどね」


「ひ~ど~い~」


 少しだけ空気が和らいだ。


 だが。


 セレナはまだ、黙っていた。


     ◇


 孤児院へ戻ると、玄関先にいたミナが真っ先に駆けてきた。


「先生! もう帰ってきたの?」


「忘れ物?」


 後ろからロイも顔を出す。


 リリは少し遅れて現れ、その後ろにはライカもいた。


「オカエリナサイ」


「ただいま」


 セレナはそう答えたが。


 いつものようには笑わなかった。


「先生?」


 ロイが首を傾げる。


 セレナはしばらく子供たちを見ていた。


 何かを言おうとして。


 やめる。


 もう一度。


 今度は覚悟を決めるように息を吸った。


「少し、遠くへ行くことになったの」


 ミナの表情が曇った。


「また?」


「ええ」


「何日?」


 その問いに。


 セレナはすぐ答えなかった。


「……分からない」


 食堂へ続く廊下が。


 急に静かになったように感じた。


「分からないって、どういうこと?」


 ロイの声が低くなる。


「早ければ数日で戻る。でも、どれくらい掛かるかはまだ分からないの」


「仕事?」


「少し違う」


「危ない?」


 今度も。


 セレナは答えなかった。


 だが。


 その沈黙だけで十分だった。


「私も行く!」


 ミナが言った。


「ダメ」


「なんで!」


「危ないから」


「先生だって危ないんでしょ!」


「そうよ」


 迷いのない返事だった。


「だから、連れていけない」


「ずるい!」


「ずるくていい」


「先生だけ勝手に決めて!」


「……そうね」


 セレナの声が少しだけ柔らかくなった。


 しゃがみ込んで、ミナと目を合わせる。


「でも、今だけは私に決めさせて」


「…………」


「必ず帰ってくるから」


 ミナの唇が尖る。


「前も言った」


「今度も言うわ」


「本当に?」


「何度でも」


 セレナは笑った。


「私は帰ってくる」


 ミナはしばらく不満そうにしていたが。


 やがてわしを見る。


「レオンも?」


「もちろん」


(勝手に決まったのう)


 とはいえ。


 わしも帰るつもりだ。


「あぅ」


 小さく声を出す。


 ミナがわしの手を握った。


「約束ね」


 指を握り返す。


(うむ)


     ◇


「先生」


 今度はロイだった。


「俺たちは?」


「留守番」


「それだけ?」


「それだけじゃない」


 セレナは立ち上がる。


 そして。


 孤児院の中を見回した。


 古い床。


 補修だらけの壁。


 小さな食堂。


 この場所を。


 ずっと自分一人で守ってきた女が。


 今。


 初めて。


「ここをお願い」


 そう言った。


 ロイが少し目を見開く。


「《森守り》の製作は続けて。売上は帳簿につけること。食料が減ったら、いつもの店へ行って」


「分かった」


「知らない人が来ても、すぐ中に入れないで。特に――」


「先生」


「何?」


「大丈夫だよ」


 ロイが笑った。


「俺たち、もう前みたいに何もできないわけじゃないから」


「…………」


「それに」


 ロイが隣を見る。


 ライカが一歩前へ出た。


「ココハ、ワタシニオマカセヲ」


 深々と頭を下げる。


 そのまま。


 右腕が、ぐにゃりと形を変えた。


 指の輪郭が消え。


 肘から先が太くなり。


 やがて。


 巨大な槌のような形になる。


「…………」


 セレナが数秒黙った。


「家の中ではそれ使わないでね」


「リョウカイ」


(心配するところはそこなんじゃな)


     ◇


 準備が始まった。


 食堂の大きな机を占領したのは、マルタだった。


 鞄の中から次々と道具が出てくる。


 薬草。


 粉末。


 小瓶。


 鉱石。


 針。


 紙。


 見たこともない形の器具。


(どれだけ入っとるんじゃ、その鞄)


「セレナ」


「何?」


「これを持ちな」


 投げられた小瓶を、セレナが受け取る。


「毒消し」


「こっちは?」


「解呪薬」


「そんなのまで作れるの?」


「誰に向かって言ってるんだい」


「薬師」


「錬金術師」


 マルタが続ける。


「魔術師」


「……はいはい」


「返事が軽いね」


(全部やっとるんじゃから仕方ない)


 マルタは乳鉢の中で乾燥した葉を砕くと、そこへ銀色の粉末を加えた。


 さらに。


 指先を近づける。


 淡い光が灯った。


(ほう)


 カラリンの魔法とは違う。


 カラリンは精霊へ語りかけ、力を借りる。


 マルタは。


 自分の内側にある何かを、そのまま操っているように見えた。


「し~しょ~」


 カラリンが隣から覗き込む。


「な~に~つ~く~っ~て~る~の~?」


「精霊避け」


「え~」


「嫌な顔するんじゃないよ」


「せ~い~れ~い~か~わ~い~そ~う~」


「追い払うんじゃない」


 マルタは瓶の中身を混ぜながら答える。


「近づきすぎないようにするだけさ」


「な~ん~で~?」


「今の森じゃ、精霊が正常とは限らない」


 カラリンの表情が少し曇った。


「せ~い~れ~い~は~わ~る~く~な~い~よ~」


「ああ」


 マルタの声が。


 ほんの少しだけ。


 優しくなる。


「だからこそだよ」


「…………」


「無理矢理使われてるなら、こっちから距離を作ってやらないといけない」


 カラリンは何も言わなかった。


 ただ。


 杖を胸に抱いた。


     ◇


 夕方が近づいた頃。


 セレナの姿が食堂から消えた。


(ん?)


 わしはマルタの膝の上から扉の方を見る。


「気になるかい?」


「あぅ」


「仕方ないね」


 マルタに抱き上げられ。


 外へ出る。


 セレナは孤児院の裏手にいた。


 一本の木の下。


 森の方を向いて。


 ただ。


 立っている。


「セレナ」


 マルタが呼ぶ。


 ゆっくりと。


 振り返る。


「……レオン」


 わしを見ると。


 セレナは自然に両手を伸ばした。


 マルタから受け取る。


(やはりこっちの方が落ち着くのう)


「準備は?」


「もう少し」


「そう」


 また。


 森へ視線を戻す。


 マルタは少し離れた場所に立った。


「やめてもいいんだよ」


 セレナの肩が僅かに揺れた。


「……今さら?」


「ああ」


「ここまで調べて?」


「それがどうした」


「村まで消えてるのよ」


「だからって、お前が行かなきゃならない理由にはならない」


「…………」


「怖いなら、怖いって言いな」


 セレナが。


 ゆっくり。


 目を伏せる。


 長い沈黙だった。


 風が吹く。


 銀色の髪が揺れ。


 切り落とされた耳が露わになる。


 その痕へ。


 セレナの指が触れた。


「……怖い」


 小さな声。


 わしが今まで聞いた中で。


 一番。


 弱い声だったかもしれない。


「森が?」


「違う」


「里の連中?」


「それもある」


 セレナは少しだけ笑った。


「でも、一番怖いのは」


 言葉を探すように。


 森を見る。


「戻ったら」


 一度。


 息を止める。


「あの頃の私に戻りそうなこと」


(あの頃の……)


「追放された時」


 セレナは続ける。


「何も言えなかった」


「…………」


「耳を切られても」


「誰に何を言われても」


「自分が悪いんだって思ってた」


 マルタは黙って聞いている。


「誰も信じられなくて」


「誰にも分かってもらえないって決めつけて」


「もう全部いらないって」


 唇に。


 ほんの少し。


 自嘲するような笑み。


「そう思って、逃げた」


 わしは。


 セレナの服を掴んだ。


「…………」


 セレナが下を見る。


「あぅ」


「何?」


(知らん)


 励ます言葉など。


 今は出せない。


 ただ。


 掴む。


 離れない。


 それだけ。


 セレナの目元が。


 少しだけ和らいだ。


     ◇


「でも」


 マルタが口を開いた。


「今のお前は、あの頃のお前じゃない」


「……何が違うの?」


「全部だよ」


 即答だった。


「昔のお前は一人だった」


 マルタがわしを指す。


「今は、そいつがいる」


(わしか)


「孤児院の子供たちもいる」


「ライカも」


「カラリンも」


 一拍。


「それから」


 マルタは少し嫌そうな顔をして。


「あたしもいる」


 セレナが吹き出した。


「自分で言う?」


「言わないと分からない奴が目の前にいるからね」


「昔からそうだった?」


「あんたが昔から面倒だったんだよ」


「ひどい」


「事実だ」


 セレナが笑う。


 今度は。


 さっきより。


 ずっと自然だった。


     ◇


 準備を終えた頃には。


 もう日が沈みかけていた。


 出発は翌朝。


 夜の森へ入る理由はない。


 最後の夕食は。


 いつも通り。


 騒がしかった。


「何日で帰るの?」


「分からないって言ったでしょ」


「三日?」


「分からない」


「五日?」


「分からない」


「七日?」


「ミナ」


「何?」


「ご飯食べなさい」


「はーい」


 ロイは明日の仕事の確認。


 ライカは留守中の予定を読み上げ。


 リリはずっとわしの手を握っていた。


(……帰ってこないとな)


 自然に。


 そう思った。


 少し前まで。


 ただ拾われた場所だった。


 今は。


 違う。


 帰る場所。


 になっている。


     ◇


 夜。


 わしはセレナの腕の中で目を閉じていた。


 黒雷石は。


 今日は一度も反応していない。


(明日か)


 エルフの森。


 セレナが百年以上避け続けた場所。


 その奥。


 禁域。


 精霊たちの悲鳴。


 魔物たちの逃走。


 雷葬獣。


 そして。


 黒雷石。


(何が待っとるんじゃろうな)


 怖くない。


 とは言わない。


 前世で百十年生きても。


 知らないものは怖い。


 それは。


 たぶん。


 年齢には関係ない。


(まあ)


 それでも行く。


 太く短く。


 好きに生きる。


 そう決めた。


 なら。


 自分の目で確かめるしかない。


 その時。


 耳元で。


 小さな声がした。


「……レオン」


(ん?)


 セレナ。


 寝ている。


「……離れないで」


 わしは目を開けた。


「…………」


(どっちが子供なんじゃ)


 小さな手を伸ばし。


 セレナの服を掴む。


(離れんよ)


 もちろん。


 声にはならない。


 それでも。


 眠っているセレナの表情が。


 ほんの少し。


 緩んだように見えた。


     ◇


 翌朝。


 まだ薄暗いうちに。


 孤児院の前へ。


 セレナ。


 マルタ。


 カラリン。


 そして。


 わし。


 四人が揃った。


「忘れ物は?」


 マルタが聞く。


「ない」


「な~い~」


「坊やは?」


「ここ」


(荷物扱いするな)


 玄関先では。


 ロイ。


 ミナ。


 リリ。


 ライカ。


 みんな。


 並んでいる。


「先生!」


 ミナが叫ぶ。


「絶対帰ってきてね!」


「ええ!」


「レオンも!」


「あぅ!」


「マルタさんも!」


「はいはい」


「カラリンも!」


「か~え~っ~て~く~る~よ~」


 ライカが。


 一歩。


 前へ。


「ゴブジヲ、オイノリシテオリマス」


「ありがとう」


 セレナが。


 一度。


 孤児院を見る。


 長い。


 視線。


 そして。


 わしを背負った。


「……行こう」


 東。


 森。


 方向。


 歩き出す。


 朝靄の中。


 孤児院が。


 少しずつ。


 遠ざかる。


 その時だった。


 ――トクン。


 胸元。


 黒雷石が。


 一度。


 強く。


 脈打った。


「…………」


 まるで。


 ずっと。


 わしらが向かってくるのを。


 待っていた。


 そんな。


 妙な。


 鼓動だった。

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