第34話 百十歳、石に呼ばれます
――森へ。
返せ。
その声が頭の奥から消えたあとも、わしはしばらく窓の向こうを見つめていた。
夜の森は静かだった。
風に揺れる枝。
薄い雲に隠れた月。
それだけなら、いつもと変わらない。
けれど。
胸元の黒雷石だけは違った。
小さく、確かに脈打っている。
――トクン。
まるで生き物のように。
(……森へ返せ、か)
何を返す。
この石を?
それとも。
石の中にある、何かを?
「レオン?」
セレナの声で我に返る。
「さっきから、どうしたの?」
「あぅ……」
説明しようにも、できない。
仕方なく。
わしは窓の向こうを指差した。
「あぅ」
「外?」
首を振る。
もっと遠く。
「あぅ!」
「……森?」
(そうじゃ)
強く頷く。
セレナはわしの顔を見て、次に黒雷石を見た。
それから。
もう一度、窓の向こうを見る。
「まさか……」
マルタも何かを察したらしい。
「その石が、森へ行きたがってるのかい?」
「あぅ!」
正確には。
行きたがっている、ではない。
呼ばれている。
だが。
今はそれで十分だ。
セレナはすぐにわしを抱き直した。
「ダメ」
(ん?)
「絶対にダメ」
迷いがない。
「セレナ」
「何?」
「まだ行くとは言ってないだろ」
「でも、この子を連れていく気なんでしょ」
「誰が?」
「顔に書いてある」
「書いてないよ」
(また始まったのう)
マルタは呆れたように肩をすくめた。
「まず調べる。それから決める。それだけだ」
「レオンは連れていかない」
「だからまだ――」
「何があっても」
セレナの声が少し低くなる。
「この子は連れていかない」
マルタはそこで言い返さなかった。
ただ。
セレナをじっと見た。
「怖いのかい?」
「……違う」
「じゃあ?」
少しの沈黙。
セレナはわしを抱く腕に力を込めた。
「この子が巻き込まれるのが嫌なの」
その言葉だけは。
とても静かだった。
マルタは目を細める。
「そうかい」
それ以上は何も言わなかった。
◇
その夜。
話はいったんそこで終わった。
翌朝。
マルタが冒険者ギルドへ行き、各地の魔物の移動記録を調べる。
セレナは孤児院に残る。
わしも当然。
残る。
そう決まった。
少なくとも。
セレナはそう思っていた。
◇
深夜。
――トクン。
(……またか)
目を開ける。
部屋は暗い。
わしの籠の横には、セレナが布団を敷いて眠っている。
自分の部屋へ戻らず。
わざわざここで寝ている。
(逃げると思われとるのか?)
赤ん坊じゃぞ。
歩けん。
走れん。
どうやって逃げる。
わしはもう一度目を閉じた。
――トクン。
(寝かせろ)
――トクン。
(…………)
無視できない。
胸元が熱い。
黒雷石が、薄暗い部屋の中で淡く光っていた。
わしは小さな手を伸ばす。
石へ触れた。
その瞬間。
世界が消えた。
◇
気づけば。
森の中にいた。
(……またここか)
前に夢で見た場所。
木々は黒く。
地面からは、無数の黒い石が突き出している。
空は見えない。
光もない。
それでも、不思議と何があるのかだけは分かった。
遠く。
禁域の中心。
あの。
形を理解できない何かがいる。
石にも見える。
巨大な枯れ木にも見える。
獣にも見える。
視線を合わせようとすると。
形が崩れる。
(やはり、気味が悪いのう)
――トクン。
巨大な鼓動が響く。
胸元の黒雷石とは違う。
あれは。
もっと大きい。
森そのものが脈打っているようだった。
『――かえせ』
声。
前より近い。
(またお前か)
『――われを』
「誰じゃ」
夢の中では。
声が出た。
わしは自分の手を見る。
皺がある。
節がある。
赤ん坊ではない。
前世。
百十歳。
死ぬ直前の、神崎源一郎の姿だった。
「……なんでこの姿じゃ」
『――違う』
「何が?」
『――それではない』
「意味が分からん」
返事はない。
「お前は雷葬獣か?」
――トクン。
森が鳴った。
(反応したな)
「なら聞くぞ」
わしは一歩前へ出た。
「この石を返せと言ったな」
『――かえせ』
「返したらどうなる」
沈黙。
「お前の封印が解けるんじゃないのか?」
また。
沈黙。
「なら返せん」
はっきり言った。
「説明もせずに返せと言われて返す馬鹿がおるか」
百十年。
商売をやった。
人を雇った。
契約もした。
何度も痛い目も見た。
(条件の分からん取引ほど危ないものはない)
「誰がわしにこの石を持たせた」
『――――』
「なぜわしなんじゃ」
『――――』
「おい」
答えない。
(都合の悪いところだけ黙るのは、この石と同じじゃな)
そう思った瞬間だった。
『――もう』
声が低くなる。
『――時間がない』
「何?」
――ズン。
地面が揺れた。
足元。
近くに立っていた黒い石。
そこへ。
一本。
亀裂が入った。
「……おい」
パキ。
乾いた音。
亀裂が広がる。
石が。
砕けた。
次の瞬間。
森の奥から。
獣たちの咆哮が一斉に響いた。
遠く。
さらに遠く。
逃げるように。
何十。
何百。
無数。
『――また』
声。
『――ひとつ』
――トクン。
『――失われた』
◇
「――っ!」
目を開けた。
息が荒い。
身体が熱い。
「レオン!?」
すぐ横でセレナが飛び起きた。
「どうしたの!?」
「あ……あぅ……!」
「夢?」
違う。
わしは胸元を指差す。
「あぅ!」
「石?」
セレナが黒雷石を見る。
「……え?」
銀色の線。
増えている。
一本。
新しい線が。
確かに。
石の表面を走っていた。
(……やはり)
夢の中。
黒い楔。
砕けた。
『またひとつ失われた』
そして。
銀色の線。
増えた。
(これ)
もしかして。
失われた楔の数を示しているのか?
◇
翌朝。
「マルタ!」
食堂へ、セレナの声が響いた。
「朝からうるさいね!」
寝起きらしいマルタが不機嫌そうに顔を出す。
「これ見て!」
セレナがわしを抱いたまま近づく。
黒雷石。
マルタの顔から、眠気が消えた。
「……増えたね」
「夜の間に」
「何かあった?」
「レオンが急に目を覚まして、この石を指差した」
マルタは黒雷石をじっと見た。
「何か分かる?」
「分かるわけないだろ」
「でも」
「ただ」
マルタが指先で銀色の線を数える。
一。
二。
三。
四。
そして。
「……五本」
セレナの表情が固まった。
「五本……」
「昨日の記録では、四つ目の楔が失われれば魔物が住処を離れ始める」
「うん」
「そして、今」
マルタは黒雷石を見る。
「この線が五本」
沈黙。
「まさか……」
「推測だよ」
マルタはすぐに釘を刺した。
「この線と楔が関係してる証拠はない」
だが。
わしには。
分かる。
昨夜。
確かに。
一つ。
砕けた。
(偶然ではない)
◇
「予定変更だ」
マルタが杖を取った。
「ギルドへ行くんじゃなかったの?」
「行くよ」
「じゃあ何が変わるの?」
「お前も来るんだ」
「私も?」
「ああ」
セレナの顔が露骨に曇った。
「レオンは?」
「連れていく」
「ダメ」
即答。
「セレナ」
「嫌」
「聞き分けな」
「この子を巻き込みたくない」
マルタが深くため息を吐く。
「もう巻き込まれてるんだよ」
その言葉に。
セレナが黙った。
「その石を持ってる時点でね」
「…………」
「それに」
マルタは続ける。
「石だけ持っていけるのかい?」
セレナがわしを見る。
「……試す」
(おい)
◇
結果。
試すまでもなかった。
「おぎゃああああああ!!」
「ごめん! ごめんって!」
(熱いわ!!)
黒雷石を首から外そうとした瞬間。
石が。
火でも噴いたように熱くなった。
わし。
当然。
大泣き。
「ほら見な」
マルタが呆れたように言う。
「離れる気がないんだよ」
「石に意思があるっていうの?」
「知らない」
「じゃあ何でそんな偉そうなのよ!」
「年長者だからさ」
(強い)
結局。
黒雷石は。
わしから離せなかった。
セレナは不満そうな顔をしながら、わしを抱き上げる。
「絶対に」
そのまま。
ぎゅっと。
抱き締める。
「私から離れないで」
(そもそも自力では離れられんのじゃが)
◇
出発前。
孤児院の子供たちに事情を説明した。
もちろん。
全部ではない。
町へ調べものへ行く。
それだけ。
「また出かけるの?」
ミナが不満そうな顔をする。
「今日は帰ってくる予定よ」
「絶対?」
「絶対」
「前もそう言ってた」
「…………」
(信用がないのう)
ロイもセレナを見る。
「先生」
「何?」
「今度こそ無茶しないで」
「分かってる」
「本当に?」
「……分かってる」
(その間はなんじゃ)
リリはわしの手を握った。
「レオンも」
「あぅ」
「ちゃんと帰ってきて」
(うむ)
小さな指。
握り返す。
その横。
ライカが。
いつものように恭しく頭を下げた。
「ココハ、ワタシニオマカセヲ」
「お願いね」
「イッテラッシャイマセ」
「行ってきます」
◇
セレナがわしを背負う。
マルタは杖を手に取る。
目的地は。
冒険者ギルド。
魔物たちが。
どこから逃げてきているのか。
その記録を調べる。
もし。
夢の中で見たことが本当なら。
今も。
どこかで。
楔が壊れ続けている。
(急いだ方がよさそうじゃな)
孤児院を出る前。
わしは一度だけ。
遠くの森を見た。
風が吹く。
木々が揺れる。
それだけ。
なのに。
なぜか。
向こうから。
見られているような気がした。
◇
その頃。
遥か遠く。
エルフの森。
誰も近づかない禁域の奥で。
一つ。
黒い楔が。
砕けていた。
その破片の間から。
何かが。
生えている。
植物の芽に似ていた。
けれど。
風もないのに。
小さく。
脈打っている。
――トクン。
黒い芽が。
ほんの少し。
膨らんだ。
さらに奥。
禁域の中心。
長い。
長い。
眠りの中。
巨大な何かが。
ゆっくり。
身じろぎする。
――トクン。
森中の鳥が。
一斉に飛び立った。
獣たちは。
さらに遠くへ逃げていく。
精霊たちは。
姿を隠した。
そして。
誰にも聞こえない場所で。
何かが。
初めて。
呼吸をした。




