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第33話 百十歳、封じられたものを知ります

 ――生きた何かが、封じられていた。


 マルタの言葉が落ちたあと。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 食堂には、暖炉で薪の爆ぜる音だけが響いている。


 パチン。


 小さな火の粉が舞い上がり、すぐに消えた。


 セレナは椅子に腰掛けたまま、マルタを見つめていた。


 その腕には、わしがいる。


 いつもと同じように抱かれているはずなのに、僅かに力が強い。


「……生き物って」


 ようやく。


 セレナが口を開いた。


「どういうこと?」


「そのままの意味さ」


 マルタは答えた。


「少なくとも、古い記録にはそう残ってる」


 そして。


 わしの胸元へ視線を落とす。


 黒雷石。


 ――トクン。


 また、脈打った。


(…………)


 気のせいではない。


 マルタが禁域について話し始めてから、この石は明らかに反応している。


「レオン?」


 セレナも気づいたらしい。


 黒雷石へ手を伸ばしかけ――止めた。


「今、動いた?」


「あぅ」


「……やっぱり」


「触るんじゃないよ」


 マルタが低い声で制した。


「何が起こるか分からない」


 セレナの手が引っ込む。


「そこまで危ないものなの?」


「それを今から調べるんだろうが」


 マルタはそう言って。


 持ってきた大きな鞄を机へ置いた。


     ◇


「ロイ」


 セレナが呼ぶと、食堂の隅でこちらを気にしていた少年が顔を上げた。


「何?」


「みんなを寝かせてくれる?」


「……分かった」


 ロイはすぐに察したようだった。


 ミナは不満そうな顔をしたものの。


「先生、大丈夫?」


「大丈夫よ」


「本当に?」


「本当に」


「……ならいいけど」


 まだ納得していない顔で二階へ上がっていく。


 リリは最後までわしを見ていた。


「レオンも寝る?」


(わしは残るらしい)


「あぅ」


「おやすみ」


 小さな手が、わしの頭を撫でる。


 その後ろから。


「ミナ、ハヤクネナイト、アシタオキラレマセン」


 ライカが子供たちを追いかけていった。


 やがて。


 二階から聞こえていた足音も消える。


 食堂に残ったのは。


 セレナ。


 マルタ。


 そして、わしだけになった。


     ◇


「さて」


 マルタが鞄を開いた。


 中から取り出したのは、何枚もの羊皮紙だった。


 古びたもの。


 新しいもの。


 文字がびっしりと書き込まれたもの。


 簡単な図が描かれたもの。


 かなりの量がある。


「全部調べたの?」


「まさか」


 マルタは鼻を鳴らした。


「これでもほんの一部だよ。原本は持ち出せないから、必要そうな箇所だけ書き写してきた」


「いつ寝たのよ」


「帰りの馬車で寝た」


「それ、寝たって言わないでしょ」


「年寄りを心配する前に自分の心配をしな」


(どっちもどっちじゃな)


 マルタは一枚の羊皮紙を広げた。


「禁域についての記録は、思った以上に古かった」


「どれくらい?」


「一番古いもので、三百年以上前」


「……そんなに?」


「ああ」


 マルタの指が、紙の上をゆっくりとなぞる。


「ただね。妙なんだよ」


「何が?」


「古い記録ほど、禁域について詳しく書かれてる」


 セレナの眉が僅かに動いた。


「どういうこと?」


「三百年以上前の記録には、禁域の奥に何があるのか、まだ書かれてる」


 マルタが別の紙を重ねた。


「二百年ほど前になると、その記述が曖昧になる」


 さらにもう一枚。


「百五十年前には、ただの“封印対象”」


 最後。


 比較的新しい紙が置かれた。


「そして百年ほど前からは――何もない」


「何も?」


「禁域がある。それだけさ」


 セレナが黙った。


 わしにも。


 意味は分かる。


(忘れたんじゃない)


 忘れさせた。


 そんな印象を受ける。


「……誰かが消した?」


「推測だよ」


 マルタは即答した。


「けど、あたしにはそう見える」


「長老たちが?」


「そこまでは分からない」


 マルタの声が僅かに鋭くなる。


「分からないことを、分かったふりするんじゃないよ」


「…………」


「お前は昔、それで酷い目に遭ったんだから」


 セレナの顔が曇った。


 両耳。


 切り落とされた痕。


 無意識なのだろう。


 彼女の指が、そこへ伸びる。


 けれど。


 触れる直前で止まった。


     ◇


「一番古い記録には」


 マルタが続けた。


「禁域の中心にあるものを、こう呼んでる」


「何て?」


 マルタは一度、口を閉ざした。


 そして。


 古びた文字を見下ろしたまま答える。


「――《雷葬獣》」


 その瞬間だった。


 ――トクンッ!


「っ……!」


 胸元で。


 黒雷石が大きく脈打った。


 今度は。


 セレナにも。


 マルタにも。


 はっきり分かった。


「……反応した」


 セレナの声が震える。


「そうみたいだね」


 マルタの顔からも余裕が消えていた。


(お前……)


 わしは黒雷石を見下ろした。


(その名前を知っとるのか?)


 もちろん。


 答えはない。


「雷葬獣って、何?」


「分からない」


「獣なんでしょ?」


「そう呼ばれてるだけだ」


 マルタが首を振る。


「姿についての記録はない。大きさもない。何を食うのか、どんな力を持っているのかも分からない」


「じゃあ、どうしてそんな名前が?」


「それも分からない」


 セレナが苛立ったように息を吐いた。


「分からないことばっかりね」


「三百年前の話だよ。残ってるだけありがたいと思いな」


「……それはそうだけど」


「ただ」


 マルタが言葉を続ける。


「一つだけ、はっきりしてることがある」


 紙をめくる。


「雷葬獣は」


 その指が止まった。


「殺せなかった」


 セレナが顔を上げた。


「……え?」


「だから封じた」


     ◇


 暖炉の薪が崩れた。


 赤い火の粉が舞う。


「誰が?」


「それが分からない」


「エルフじゃないの?」


「たぶん違う」


 意外な答えだった。


 セレナも同じだったらしい。


「どうして?」


「この記録自体が翻訳なんだ」


「翻訳?」


「ああ」


 マルタが最も古い写しを指で叩く。


「元になった記録は、古代エルフ語よりさらに古い言葉で書かれていたらしい」


「じゃあ……」


 セレナの声が小さくなる。


「エルフがあの森に住み始めるより前から?」


「雷葬獣は、あそこに封じられていた可能性がある」


(…………)


 わしは黙って聞いていた。


 エルフの禁域。


 そう思っていた。


 だが。


 違う。


 エルフたちは。


 あの場所を作った者ではない。


 もっと昔から存在していた何かを。


 後から管理していただけなのかもしれない。


「それで」


 セレナが黒雷石を見る。


「この石は?」


「そこだよ」


 マルタの表情がさらに険しくなる。


「黒雷石という名前は出てこなかった」


「じゃあ関係ない?」


「早合点するんじゃない」


 マルタが別の紙を取り出す。


「名前は違う。けど、よく似たものが記録されてる」


「どんな?」


 マルタは答えた。


「――《封印の楔》」


     ◇


「楔……」


 セレナが呟く。


「ああ」


 マルタは机の上へ指で大きな円を描いた。


「禁域の中心に雷葬獣がいる」


 円の中心を指す。


「その周囲に、いくつもの黒い楔が打たれている」


 中心を囲むように。


 指先が点を置いていく。


「それによって、雷葬獣を眠らせ続ける」


「眠らせる?」


「封印ってのは、完全に閉じ込めてるわけじゃないらしい」


「じゃあ……」


「眠ってるだけだ」


 その言葉が。


 妙に耳に残った。


 死んでいるのではない。


 眠っている。


 今も。


 どこかで。


「セレナ」


「何?」


「お前、昔禁域へ入った時」


 マルタが彼女を見る。


「黒い石がたくさんあったと言ったね?」


「……ええ」


「中心を囲むように?」


「…………」


 セレナの顔が。


 ゆっくり強張っていく。


「そうだった」


 声。


 僅かに震える。


「中心にあった、よく分からないものを囲むように……黒い石があった」


「なら」


 マルタがわしの胸元を見る。


「おそらく、それだ」


 セレナも。


 黒雷石を見る。


「封印の……楔」


(…………)


 わしは小さな手で石を握った。


 これが。


 あの禁域にあったもの?


     ◇


「待って」


 セレナが言った。


「それなら、おかしい」


「何が?」


「あの日」


 声が変わった。


 昔。


 自分が追放された日の記憶。


「私が禁域へ入ったあと」


 ゆっくり。


 言葉を選ぶ。


「黒い石が一つ、なくなった」


 マルタは黙っている。


「それが、私が禁忌を犯した証拠の一つにされた」


「ああ」


「でも」


 セレナがわしを見る。


「今、その石とよく似たものを」


 わしの胸元。


「レオンが持ってる」


 沈黙。


 暖炉の炎が揺れる。


「同じ石なの?」


「分からない」


「でも可能性は?」


「ある」


 マルタは認めた。


 セレナの腕に。


 また。


 僅かに力が入る。


「じゃあ……」


 彼女の声が掠れた。


「私が、あの日――」


「セレナ」


 マルタが遮った。


 強い声だった。


「また自分のせいにするんじゃないよ」


「でも」


「あんたが追放されたのは、百年以上前だ」


 セレナが黙る。


「この坊やが生まれたのは?」


「……最近」


「なら百年以上」


 マルタは黒雷石を見つめた。


「その石がどこにあったのか」


「誰が持っていたのか」


「どうしてレオンのところへ来たのか」


 ゆっくりと。


 一つずつ。


「全部、抜け落ちてる」


(そこじゃな)


 わしも同じことを考えていた。


 神に聞いたことがある。


 最初に電撃を放ったのも、転生の特典なのかと。


 だが。


 あの神は知らなかった。


 なら。


 この石も。


 雷の力も。


 少なくとも、神から授かった《ダイヤング》や《孤王》とは別物だ。


(誰が)


 わしに。


 これを持たせた?


 そして。


(何のために?)


     ◇


「問題はそこだけじゃない」


 マルタが言った。


「まだあるの?」


 セレナが嫌そうな顔をする。


「残念ながらね」


 古い写し。


 その中でも。


 特に傷んだ一枚が広げられた。


「封印の楔について、記述が残ってる」


 マルタの指が文字を追う。


「楔が一つ失われれば」


 一拍。


「眠りが浅くなる」


 セレナが息を呑む。


「二つ失われれば、封印そのものが弱まり始める」


 次。


「三つ失われれば」


 マルタが一瞬だけ黙った。


「周囲の精霊が異変を感じる」


(精霊……)


 カラリン。


『せ~い~れ~い~た~ち~、ず~っ~と~お~び~え~て~る~』


「そして」


 マルタの声が低くなる。


「四つ」


 嫌な予感がした。


「周囲に住む獣や魔物が」


 紙から顔を上げる。


「その土地を離れ始める」


 誰も。


 何も言わなかった。


 ゴブリン。


 コボルト。


 ハーピー。


 ワータイガー。


 そして。


 傷を負ったワイバーン。


 今まで。


 あり得ない場所に現れた魔物たち。


 わしらは。


 それを何度も見てきた。


「……じゃあ」


 セレナの唇が僅かに震える。


「今」


 マルタを見る。


「四つ……なくなってる?」


「断定はできない」


 マルタは首を振った。


「記録が正しい保証もない。魔物が移動している理由が雷葬獣だという証拠もない」


 そして。


 それでも。


 続けた。


「ただ」


 その目が鋭くなる。


「無関係だと考えるには、出来すぎてる」


(同感じゃ)


     ◇


「五つ目は?」


 セレナが尋ねた。


「何?」


「楔が五つなくなったら、どうなるの?」


 マルタが黙った。


「……マルタ?」


「記録が途切れてる」


「途切れてる?」


「ああ」


 その先が。


 残っていない。


「じゃあ分からない?」


「この記録だけならね」


 マルタは。


 鞄の奥へ手を入れた。


 そして。


 もう一枚。


 小さな紙片を取り出した。


「でも」


 机へ置く。


「別の文書の中に、一文だけあった」


 セレナが紙片を見る。


 わしには読めない。


 だが。


 なぜだろう。


 その紙を見た瞬間。


 黒雷石が。


 ――トクン。


 脈打った。


「何て書いてあるの?」


 セレナが尋ねる。


 マルタは。


 しばらく答えなかった。


 暖炉の炎が。


 揺れる。


 窓の外では。


 風が木々を鳴らしている。


 そして。


 ようやく。


 マルタは読んだ。


「――最後の楔が失われし時」


 一拍。


「長き眠りは終わり」


 もう一拍。


「雷葬獣は再び、地上に目覚める」


 ――トクンッ!


 黒雷石が。


 強く脈打った。


「っ……!」


 セレナがわしを抱き締める。


 その瞬間。


 黒雷石を走る銀色の線が。


 淡く。


 光った。


「レオン……?」


(わしにも分からん)


 光は。


 すぐに消えた。


 だが。


 わしだけは。


 別のものを感じていた。


 音。


 いや。


 声。


 頭の奥。


 遠い場所から。


 誰かが囁いた。


『――――』


(……なんじゃ?)


 耳を澄ます。


 違う。


 耳ではない。


 直接。


 頭の中へ。


『――かえせ』


(…………)


 わしの身体が固まった。


『――かえせ』


 今度は。


 はっきり聞こえた。


(何をじゃ)


 黒雷石が。


 熱くなる。


『――われを』


 ぞくり。


 背中を。


 冷たいものが走った。


 そして。


 最後。


『――森へ』


 ――トクン。


「レオン?」


 セレナが顔を覗き込む。


「どうしたの?」


「あ……ぅ……」


 答えられない。


 ただ。


 黒雷石を握る。


(森へ……返せ?)


 その時。


 わしは気づいた。


 石が。


 僅かに。


 引っ張られている。


 紐が引かれているわけではない。


 なのに。


 確かに。


 黒雷石そのものが。


 ある方角へ向かおうとしている。


「…………」


 わしは。


 ゆっくりと。


 そちらを見た。


 窓の向こう。


 夜の森。


 さらに。


 その遥か先。


 セレナが百年以上前に追放された。


 エルフの領域。


 そして。


 あの禁域がある方角へ。


 黒雷石は。


 帰ろうとしていた。

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