第32話 百十歳、帰る場所へ戻ります
翌朝。
目を覚ました時には、熱はほとんど下がっていた。
身体を少し動かしてみる。
昨日までまとわりついていた重さは薄れ、手足にもそれなりに力が戻っている。
(どうやら、一晩でだいぶマシになったようじゃな)
ほっとしたのも束の間。
わしの視線は、自然と胸元へ落ちた。
黒雷石。
その表面を走る銀色の線は、昨夜より明らかに一本増えている。
夢の中で。
セレナが昔足を踏み入れたという禁域を見た。
その奥にあった、形すら認識しきれない何か。
そして。
わしの名を呼んだ声。
(夢……では、なさそうじゃな)
指先でそっと石に触れる。
今は冷たい。
鼓動もない。
まるで昨夜のことなど知らないとでもいうように、ただ静かにそこにある。
(都合が悪くなると黙りよる)
そんなことを考えていると。
「レオン?」
すぐ近くから声がした。
見ると、椅子に座ったまま眠っていたセレナが目を覚ましたところだった。
昨夜。
わしの看病をしているうちに、そのまま眠ってしまったらしい。
「起きたの?」
「あぅ」
セレナは眠そうな目を擦ることもなく、真っ先にこちらへ手を伸ばした。
額。
首元。
頬。
順番に触れていく。
「……熱、下がってる」
(だから大丈夫じゃと言いたいところじゃが)
もちろん言葉にはならない。
セレナは安心したように息を吐いた。
だが。
すぐに動きが止まる。
視線が。
わしの胸元へ落ちていた。
「……レオン」
(気づいたか)
「黒雷石、見せて」
誤魔化しようもない。
わしは抵抗せず、石を握った。
セレナが顔を近づける。
銀色の線を見た瞬間。
その表情が変わった。
「やっぱり……増えてる」
昨日まではなかった線。
彼女にも、はっきり分かるらしい。
「いつ?」
「あぅ」
「……分からないわよね」
(夜じゃ)
夢も。
声も。
全部。
伝えたい。
なのに。
喋れない。
(こういう時は本当に不便じゃな)
《ダイヤング》を使っていた間だけ、普通に話せた。
そのせいで。
余計に今の状況がもどかしい。
◇
「お~は~よ~」
扉の向こうから、聞き慣れた間延びした声がした。
次いで。
大きな尖り帽子が入ってくる。
「カラリン」
「レ~オ~ン~げ~ん~き~?」
「あぅ」
「よ~か~っ~た~」
カラリンは本当に安心したように笑った。
その手には。
傷だらけの杖。
「そっちは?」
セレナが尋ねる。
「ま~だ~お~こ~っ~て~る~」
「精霊?」
「う~ん~」
カラリンはしょんぼりと杖を抱き締めた。
「帰り道、大丈夫?」
「ま~ほ~う~な~し~で~が~ん~ば~る~」
「そうするしかないわね」
セレナが苦笑する。
その時だった。
カラリンが、ふとわしの胸元を見る。
「…………」
珍しく。
すぐには何も言わなかった。
「どうしたの?」
「そ~の~い~し~」
(黒雷石?)
「昨日より……何か違う?」
カラリンはゆっくり頷いた。
「こ~わ~い~」
セレナの表情が引き締まる。
「怖い?」
「う~ん~」
「何が?」
「わ~か~ら~な~い~」
「また?」
「で~も~」
カラリンは少しだけ声を落とした。
「せ~い~れ~い~た~ち~」
一拍。
「こ~れ~を~み~る~と~」
わしの胸元を指す。
「し~ず~か~に~な~る~」
「静かになる?」
「う~ん~」
セレナが眉を寄せる。
「怯えてるってこと?」
「ち~が~う~」
カラリンは首を振った。
「か~く~れ~る~」
その言葉に。
部屋の空気が少しだけ重くなった。
(隠れる……か)
逃げるのではない。
黒雷石があると。
精霊たちは姿を消す。
それはつまり。
(この石を怖がっとるのか)
それとも。
(この中にある何かを?)
◇
帰り支度は、昼前には整った。
壊れた荷馬車は最低限の修理を終え、傷ついた馬も交換されている。
商人たちは交易都市で新たな荷物を積み込んでいた。
あとは。
帰るだけ。
セレナは、新しく購入した弓の弦を確かめていた。
往路で使っていた弓は。
ワータイガーを殴った時の衝撃で、使い物にならなくなっている。
「その弓、高かった?」
監視員が尋ねた。
「かなり」
「申請すれば一部は経費で落ちるぞ」
セレナの手が止まった。
「……何?」
「試験中に壊れた装備だからな」
「それ、買う前に言って」
「聞かれなかったから」
「…………」
(その目はやめてやれ)
監視員が露骨に視線を逸らした。
◇
帰り道は。
拍子抜けするほど静かだった。
初日。
何も起きない。
二日目。
遠くで何かの鳴き声を聞いただけ。
魔物の姿すら、ほとんど見かけなかった。
行きとは。
あまりにも違う。
「……静かすぎない?」
セレナがぽつりと言った。
監視員も同意するように周囲を見る。
「俺もそう思う」
「喜ぶところじゃないのか?」
商人が苦笑する。
「魔物がいないなら、それでいいだろ」
「普通ならね」
セレナは街道の先を見たまま答える。
「行きにあれだけいたのよ」
ゴブリン。
コボルト。
ハーピー。
ワータイガー。
ワイバーン。
それが。
帰り。
何もいない。
(逃げ終わった……ということか?)
もしそうなら。
彼らは今。
どこにいる?
そして。
何から。
逃げた?
◇
二日目の夕方。
野営の準備を始めた頃だった。
「あ」
カラリンが突然声を上げる。
「どうしたの?」
「お~こ~っ~て~な~い~」
「精霊?」
「う~ん~!」
久しぶりに。
嬉しそうな顔。
カラリンは杖を両手で持ち、地面へ軽く突き立てた。
「お~か~え~り~」
(戻ったのか)
「魔法使える?」
「た~ぶ~ん~」
「試してみれば?」
「う~ん~」
カラリンは杖を構える。
目を閉じる。
「ゆ~れ~ろ~」
…………。
静か。
「…………」
セレナ。
わし。
監視員。
全員。
地面を見る。
何も起きない。
「…………」
カラリンの目に涙が浮かんだ。
「ま~だ~だ~め~」
(気の毒じゃな)
◇
その夜。
わしはまた夢を見るのではないかと思った。
だが。
何もなかった。
ただ。
何度か。
胸元の黒雷石が温かくなる程度。
(昨夜のあれは何だったんじゃろうな)
夢だったのか。
それとも。
誰かに見せられたのか。
一つだけ。
どうしても引っかかっている。
あの禁域。
わしは。
行ったことなどない。
セレナから話を聞いただけ。
なのに。
夢の中では。
木々の形も。
黒い石の並びも。
あまりにも鮮明だった。
(まるで)
一度。
あそこへ行ったことがあるような。
そんな感覚だった。
◇
三日目の昼。
ようやく。
見覚えのある景色が増えてきた。
「もうすぐね」
セレナの声が。
少しだけ明るい。
「う~ん~」
カラリンも、いつもの眠たげな顔に戻っている。
わしもセレナの背中から身を乗り出した。
(帰れる)
たった数日。
なのに。
随分長く感じた。
孤児院。
ロイ。
ミナ。
リリ。
ライカ。
薄い粥。
(粥は別に恋しくないが)
それでも。
あの古い建物へ。
早く戻りたかった。
◇
午後になって。
ようやく町の門が見えた。
「着いたぞ!」
商人の声。
一行から、一斉に安堵の息が漏れる。
門兵も。
戻ってきた商隊を見るなり目を丸くした。
「……随分ひどい目に遭ったみたいだな」
「話すと長い」
(みんなそれを言うのう)
そのまま。
冒険者ギルドへ向かう。
扉を開けた瞬間だった。
「セレナさん!」
受付嬢が。
走ってくる。
「無事だったんですね!」
「なんとか」
「レオンちゃんも!」
(わしもちゃんと戻ったぞ)
「あぅ」
すると。
周囲にいた冒険者たちも次々と集まってきた。
「帰ってきた!」
「レオンいるぞ!」
「ワイバーンが出たって本当か!?」
「ワータイガーまで出たって聞いたぞ!」
(もう広まっとる)
その中。
一人の男が。
わしへ手を伸ばそうとする。
「久しぶりにほっぺ――」
「…………」
セレナ。
見る。
「……やめときます」
(帰ってきたのう)
妙に。
実感した。
◇
昇級試験は。
無事。
合格となった。
「セレナ。カラリン」
ギルド長が二人を前にして告げる。
「今回の護衛任務。両名とも合格とする」
「ありがとうございます」
「や~っ~た~」
カラリンが両腕を上げる。
帽子まで一緒に揺れた。
「ただし」
ギルド長の声が重くなる。
「今回の遭遇記録については、別に詳しい報告を出してもらう」
「魔物のこと?」
「ああ」
机の上に。
何枚かの書類が並べられる。
「ここ数週間、似たような報告が各地から上がっている」
「各地?」
「近隣だけじゃない。北部山岳地帯。国境付近。東の森」
セレナの顔が険しくなる。
「そんなに?」
「むしろ増えている」
短く答えたあと。
ギルド長は少し迷うように口を閉じた。
「それから」
「何?」
「昨日、一件妙な報告が入った」
部屋が静かになる。
「東の森で」
一拍。
「動物が消えた」
「……消えた?」
セレナが聞き返す。
「一部の区域からだがな」
「どういう意味?」
「そのままだ」
ギルド長の表情に冗談はない。
「鳥もいない」
「獣も」
「虫も」
指を机へ置く。
「何もいなくなった」
(…………)
わしは無意識に黒雷石へ触れた。
その瞬間。
石が。
僅かに。
熱を持った。
◇
手続きが終わった頃には。
もう夕方だった。
「カラリンはどうするの?」
ギルドを出たところで、セレナが尋ねる。
「わ~た~し~?」
「家、どこなの?」
「ぎ~る~ど~の~や~ど~」
「じゃあ、ここでお別れね」
「う~ん~」
カラリンはわしの顔を覗き込んだ。
「レ~オ~ン~」
「あぅ」
「つ~ぎ~は~ほ~っ~ぺ~さ~わ~る~」
「…………」
セレナ。
無言。
「じょ~う~だ~ん~」
(生存本能が高いのう)
「またね~」
「ええ。また」
こうして。
カラリンとは一度別れた。
◇
孤児院への帰り道。
セレナは。
何度も空を見上げていた。
夕陽。
森。
街道。
見慣れた景色。
ワイバーン。
魔物。
異常。
そんなもの。
何も。
ない。
「……帰れるね」
ふと。
セレナが言った。
(うむ)
「あぅ」
「みんなちゃんとしてたかな」
(ライカがおる)
「ミナは何か壊してそう」
(あり得る)
「ロイは無理してそう」
(あり得る)
「リリは……」
少し考え。
「いつも通りかな」
(それもあり得る)
セレナ。
小さく笑う。
「早く会いたい」
(わしもじゃ)
◇
やがて。
木々の向こうに。
見慣れた屋根が現れた。
古い。
小さい。
ところどころ傷んでいる。
それでも。
(帰ってきた)
そう思った瞬間だった。
「先生ーっ!」
ミナの声。
「レオンーっ!」
玄関から。
一気。
走ってくる。
「走るな!」
後ろからロイ。
リリも。
少し遅れて。
そして。
玄関には。
ライカ。
「オカエリナサイ」
「……ただいま」
セレナの声が。
ほんの少し震えた。
次の瞬間には。
子供たちが。
一斉に集まる。
「先生!」
「怪我してない!?」
「レオン!」
「見せて!」
(おいおい)
わしも。
あっという間に。
囲まれる。
頬。
突かれる。
手。
握られる。
リリ。
抱きつく。
(静かな旅の後じゃと余計に騒がしいのう)
だが。
悪くない。
むしろ。
ほっとした。
◇
「……随分、遅かったね」
その声に。
セレナの身体が止まった。
「え?」
食堂。
奥。
見慣れた老婆が。
椅子へ腰掛けている。
「マルタ」
「おかえり」
「戻ってたの?」
「ああ」
マルタは疲れたように背もたれへ身体を預けていた。
だが。
目だけは。
鋭い。
「今朝ね」
「里は?」
セレナが。
すぐに尋ねる。
「記録、調べられた?」
「まあね」
マルタは。
すぐには答えなかった。
代わりに。
わしを見る。
正確には。
胸元。
「……その前に」
「何?」
「石を見せな」
(またか)
セレナがわしを抱いたまま近づく。
マルタの目が。
黒雷石を捉えた。
数秒。
沈黙。
「……増えたね」
「やっぱり?」
「ああ」
銀色の線。
前より。
増えている。
マルタの指先。
ほんの僅か。
震えた。
「何が分かったの?」
セレナが尋ねる。
マルタは。
答える前に。
深く息を吐いた。
「お前が昔入った禁域」
「…………」
セレナの顔から。
表情。
消える。
わしも。
昨夜。
夢で見た場所。
思い出す。
「あそこについて、古い記録を見つけた」
「それで?」
「セレナ」
マルタの声が低くなる。
「あんた、昔言ったね」
「何を?」
「禁域の中心に」
ゆっくり。
言葉。
選ぶ。
「石なのか」
「木なのか」
「生き物なのか」
「分からないものがあったって」
セレナが。
小さく頷く。
「……あった」
「そうか」
マルタは目を閉じる。
「記録と一致する」
「何が?」
そこで。
マルタは。
もう一度。
わしを見る。
「古い記録には」
一拍。
「あそこに石を封じたなんて、一度も書かれてない」
「……え?」
セレナが固まる。
「じゃあ」
声が。
僅かに掠れる。
「何を封じてたの?」
マルタは答える。
「生き物だよ」
――トクン。
胸元。
黒雷石が。
脈打った。
「ずっと昔から」
マルタの声。
さらに。
低くなる。
「森の奥には」
一拍。
「生きた何かが封じられていた」
――トクン。
黒雷石が。
まるで。
その言葉を知っていたかのように。
もう一度。
静かに。
脈打った。




