第31話 百十歳、どうやら森だけの話ではありません
ワイバーンの襲撃を切り抜けた翌朝。
一行は、再び街道を進み始めた。
昨夜の惨状が嘘だったかのように、空は青く澄んでいる。
柔らかな朝日が街道を照らし、風に揺れる草の音に混じって、どこからか鳥の声まで聞こえていた。
ただし。
歩いている者たちの顔から、昨日までの余裕は消えている。
監視員たちは何度も左右の森へ視線を走らせ、商人たちも馬車の上から落ち着きなく周囲を見回していた。
カラリンも、傷だらけになった杖を胸に抱えたまま、珍しく静かだった。
そしてセレナはというと。
「…………」
(またか)
わしの顔を覗き込んでいた。
「レオン」
「あぅ」
「本当に大丈夫?」
(大丈夫じゃ)
「どこも痛くない?」
「あぅ」
「苦しくない?」
(ない)
セレナは納得していないらしい。
今度はわしの額へ手を当てる。
「熱は……ないわね」
(さっきも確かめたじゃろ)
ワイバーンに襲われた時、わしだけを逃がそうとしたことがよほど堪えたのだろう。
昨日からずっとこんな調子だ。
少しでもわしが黙っていれば顔を覗き込み、眠れば呼吸を確認し、起きれば手足を触って怪我がないか確かめてくる。
(過保護にもほどがあるのう)
そう思う一方で。
嫌ではなかった。
ただ。
わし自身にも、少し気になることがあった。
(身体が重い)
眠気が強い。
手足に力が入らない。
赤ん坊だから、というだけではない。
昨日までとは明らかに違う。
原因を考えるなら。
心当たりはいくらでもあった。
《ダイヤング》。
《孤王》。
黒雷石。
あれだけ一度に力を使ったのだ。
(反動がない方がおかしいわな)
以前《孤王》を使った時も、翌日に酷い体調不良へ襲われた。
ならば今回も、何かしら身体へ負担が出ても不思議ではない。
とはいえ。
今のところは、ただ怠いだけだ。
(悪化したら素直に知らせるか)
以前のわしなら。
あと少しだから。
これくらいなら。
仕事が終わるまで。
そんな理由を並べて、限界まで無理をしていただろう。
だが。
百十年も生きて。
人生二周目まで同じ失敗を繰り返すのは、さすがに格好が悪い。
◇
幸い。
それからは、一度も魔物に襲われなかった。
昼前になった頃。
先頭の馬車から、大きな声が上がった。
「見えたぞ!」
セレナが顔を上げる。
わしも背中から身を乗り出した。
街道の先。
遠くに巨大な城壁が見える。
その内側から、無数の屋根と煙突が突き出していた。
塔らしきものもある。
孤児院近くの町とは、明らかに規模が違った。
「リーデルだ」
監視員が少しだけ安堵したように言った。
「今回の目的地だよ」
(ようやく着いたか)
セレナも肩から力を抜いた。
「長かったわね」
「う~ん~」
隣を歩いていたカラリンも、大きな尖り帽子を揺らしながら頷く。
「つ~か~れ~た~」
「あなた、昨日からかなり馬車に乗ってたでしょ」
「ま~ほ~う~つ~か~え~な~い~と~こころ~ぼ~そ~い~」
「それは分かるけど」
いつもの調子が少しだけ戻ってきた。
そのやり取りを聞いていると。
わしも、ようやく緊張が解けていく気がした。
◇
交易都市リーデルの門前には、長い列ができていた。
荷馬車。
旅人。
商人。
冒険者。
人の流れが途切れない。
(ほう)
入口も一つではない。
徒歩の者。
荷車。
大型の商隊。
それぞれ別に通行口が分けられている。
身分を確認する者。
積み荷を確認する者。
周囲だけを警戒している兵士もいる。
(なかなかしっかりしとる)
つい。
警備会社をやっていた頃の癖が出る。
人が多いほど、入口を一つに集中させると混雑する。
かといって、ただ増やせば監視の目が薄くなる。
その辺りを上手く分担しているようだ。
「止まれ」
ようやく一行の番になる。
「どこから?」
「西のルーフェンから。交易品を運んできた」
「積み荷は?」
「布、薬草、香辛料、加工品だ」
門兵たちが書類を確認していく。
その間。
少し離れた場所で交わされていた会話が、わしの耳へ届いた。
「また出たらしいぞ」
「何が?」
「北の村。今度はオークの群れだ」
「またかよ」
(……ん?)
わしはそちらへ顔を向けた。
「先週も何か出てなかったか?」
「あれは南だ。森からゴブリンが下りてきたって話」
「最近どうなってんだ、この辺り」
セレナも聞いていたらしい。
表情が変わった。
「すみません」
門兵へ声をかける。
「今の話、詳しく聞いても?」
「ん?」
男はセレナを見た。
銀色の髪。
耳の傷。
背負われているわし。
一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、胸元の冒険者札を見て態度を和らげた。
「あんた、冒険者か」
「ええ」
「なら知っておいた方がいいかもしれんな。最近、妙に多いんだよ。魔物が人里へ出てくることが」
「いつ頃から?」
「二ヶ月くらい前からだったか?」
隣の門兵が口を挟む。
「いや、最初の報告は三ヶ月くらい前だろ。山沿いの村だったはずだ」
「そうだったか」
「でも、最近は平地でも出る」
セレナの眉が寄る。
「どんな魔物?」
「色々だよ。ゴブリン、コボルト、オーク。ハーピーの報告もあったな」
セレナとカラリンが目を合わせる。
「ワータイガーは?」
その一言に。
門兵の顔色が変わった。
「……何でそんな名前が出る?」
「途中で襲われた」
「街道で?」
「ええ。二体」
「冗談だろ」
門兵たちが顔を見合わせる。
「ワータイガーが山を下りたのか?」
「それも街道まで?」
「報告を上げた方がいいな」
「ああ」
(やはり普通ではないか)
セレナの推測。
魔物たちは何かから逃げている。
それが。
少しずつ。
現実味を帯び始めていた。
◇
門を抜けた途端。
今度は別の意味で圧倒された。
(おお……)
広い。
人が多い。
石畳の大通りを、何台もの馬車が行き交っている。
道沿いには店がずらりと並び、客を呼び込む声があちこちから飛んでくる。
武器。
防具。
布。
香辛料。
薬。
果物。
食べ物。
見たことのない品まで山のように並んでいた。
建物も高い。
三階。
四階。
それ以上のものまである。
(商売するには面白そうな町じゃな)
人がいる。
金が動いている。
物流も太い。
《森守り》をここへ持ち込めば――。
(……待て待て)
また仕事のことを考えている。
太く短く。
好きに生きる。
仕事だけの人生にはしない。
そう決めたはずなのに。
「あぅ……」
「どうしたの?」
セレナが振り返る。
(自分に呆れただけじゃ)
◇
商隊は、そのまま大きな商館へ入った。
「おお、やっと来たか!」
中から男が駆け出してくる。
「予定より遅いから心配してたぞ」
「……色々あったんだよ」
「色々?」
商人は。
セレナ。
カラリン。
監視員。
順番に見る。
「話すと長い」
「……そうか」
積み荷の確認が始まった。
箱の数。
破損。
中身。
途中の戦闘で多少の損傷は出ていたものの、大部分は無事だった。
「よし」
最後の箱を確認し終えた商館の男が頷いた。
「確かに受け取った」
その言葉に。
商人たちから一斉に安堵の息が漏れた。
(まずは半分終わったか)
今回の依頼は往復。
まだ帰りが残っている。
だが。
目的地まで送り届けた。
それだけでも。
一つの区切りにはなる。
◇
「セレナ。カラリン」
監視員に呼ばれ。
二人が商館の隅へ移動した。
もちろん。
わしも一緒だ。
「まず、ここまでの評価を伝えておく」
(昇級試験か)
あまりにも色々起こりすぎて。
忘れかけていた。
「本来なら、戻ってから正式に判断するんだが」
監視員は苦笑する。
「正直なところ、現時点でも十分すぎる」
「そうなの?」
「当たり前だ」
指を折っていく。
「ハーピーとの遭遇」
「それはカラリンがほとんどやったわ」
「ワータイガー二体を含む夜間襲撃」
「…………」
「それからワイバーン」
そこで。
セレナが僅かに黙った。
「あれを倒したのは私たちじゃない」
「分かってる」
監視員は頷いた。
「だが、あの状況で護衛対象を放り出さなかった。自分たちが不利になっても最後まで守ろうとした」
次にカラリンを見る。
「カラリンも同じだ。魔法が使えなくなっても逃げなかった」
「わ~た~し~?」
「ああ」
「し~ご~と~だ~か~ら~」
カラリンは何でもないように言った。
「……そういうところだ」
監視員は小さく笑う。
「護衛は、敵を何体倒したかだけで評価する仕事じゃない」
(その通りじゃ)
わしは心の中で頷いた。
守るべき相手を守る。
荷物を届ける。
危険があれば判断する。
必要なら退く。
前世の警備と。
根っこは同じだ。
「ただし」
監視員の表情が引き締まる。
「正式な昇級判定は帰還してからだ」
「当然ね」
「無事に帰ってくるまでが依頼だからな」
(どこかで聞いたような言い回しじゃな)
◇
午後。
帰路で運ぶ荷物の準備が終わるまで、一行はリーデルで休むことになった。
「少し歩きましょうか」
セレナがわしを抱き直す。
(賛成じゃ)
せっかくここまで来たのだ。
交易都市というものを、もう少し見ておきたい。
「わ~た~し~も~い~く~」
カラリンも当然のようについてくる。
「杖は大丈夫なの?」
「だ~め~」
即答。
「まだ精霊怒ってるの?」
「う~ん~」
「どうしたら機嫌直るの?」
「お~か~し~」
「お菓子?」
「う~ん~」
「精霊がお菓子食べるの?」
「た~べ~な~い~」
「じゃあ何で買うのよ」
「わ~た~し~が~た~べ~る~」
「…………」
(元気そうで何よりじゃ)
◇
市場をしばらく歩いたところで。
セレナが足を止めた。
「……これ」
大きな掲示板。
冒険者ギルドの依頼板ではない。
都市から住民へ向けた告知が、何枚も貼られている。
「何て書いてあるの?」
カラリンが横から覗く。
「北部山岳地帯への立ち入り制限」
セレナが読み上げる。
「魔物の活動が活発化しているため……」
その隣。
「南東の森で大型魔獣の目撃報告」
さらに。
「農村部でのゴブリン被害増加」
もう一枚。
「街道の一部を一時封鎖……」
セレナの表情が。
読むたびに。
少しずつ険しくなっていく。
(多い)
あまりにも。
多い。
「カラリン」
「う~ん~?」
「これ」
セレナは掲示板全体を見上げた。
「私たちが通ってきた街道だけじゃない」
カラリンも。
今度は冗談を言わなかった。
「う~ん~」
「何か知ってる?」
「し~ら~な~い~」
いつもの間延びした返事。
けれど。
その後。
遠くの山へ目を向ける。
「で~も~」
「何?」
「せ~い~れ~い~た~ち~」
少し。
間を置いた。
「ず~っ~と~お~び~え~て~る~」
セレナは何も言わなかった。
◇
わしも掲示板を見上げる。
残念ながら。
まだ文字は読めない。
だが。
セレナの顔を見れば十分だった。
異変は。
孤児院の周囲だけではない。
一本の街道だけでもない。
もっと広い範囲で。
何かが起き始めている。
魔物たちが住処を離れ。
精霊が怯え。
ワイバーンですら傷を負って逃げてきた。
(全部繋がっておるのか)
黒雷石。
セレナが昔見た禁域。
失われた封印。
森から消えた少女。
そして。
今起きている異変。
(……いや)
まだ早い。
全てが繋がっている。
そう決めつける材料はない。
事実と推測は分ける。
そこを忘れれば。
間違える。
そう考えた時。
「……レオン?」
(ん?)
セレナの声。
わしを見る。
「顔色、悪くない?」
(しまった)
気づかれた。
「カラリン」
「う~ん~?」
「ちょっと額触って」
カラリンの小さな手が伸びてくる。
「ちょ~っ~と~あ~つ~い~?」
(おい)
セレナの顔色が変わった。
「やっぱり」
「あぅ」
「朝から元気なかったでしょ」
(見とったのか)
「帰る」
即決。
「せ~れ~な~?」
「今日はもう歩かない。部屋に戻る」
(いや待て)
まだ市場を半分も見ていない。
「あぅ!」
「ダメ」
「あぅ!」
「ダメ」
(久しぶりじゃな、このやり取り)
抵抗。
無意味。
そのまま連れ戻された。
◇
商館が用意してくれた部屋へ戻ると。
セレナはすぐに水と布を用意した。
わしを寝台へ寝かせ。
冷たい布を額へ乗せる。
「無理してた?」
(少しだけな)
「…………」
当然。
答えられない。
セレナは。
そんなわしをしばらく見つめた。
「あなたって」
(何じゃ)
「時々、赤ちゃんらしくない我慢するわよね」
(…………)
一瞬。
心臓が跳ねた。
「痛かったら泣けばいいのに」
布を直す。
「苦しかったら、もっと騒いでいいのよ」
(それができたら苦労せん)
「あぅ」
セレナは少し笑った。
「何でも一人で抱え込もうとするところ」
一拍。
「誰かに似てる」
(誰じゃ?)
「……私か」
(お前かい)
思わず肩の力が抜けた。
◇
少しして。
カラリンも部屋へ戻ってきた。
手には。
紙袋。
「か~っ~て~き~た~」
中。
菓子。
「レオンは食べられないわよ」
「わ~た~し~の~」
「…………」
(自由じゃな)
カラリンは椅子へ座り、菓子を一つ口へ入れる。
もぐもぐ。
そのまま。
わしを覗き込んだ。
「は~や~く~げ~ん~き~に~な~っ~て~ね~」
「あぅ」
悪くない。
こういう。
何でもない時間も。
◇
次第に。
眠気が強くなってきた。
身体の怠さ。
熱。
(やはり反動じゃな)
《ダイヤング》。
《孤王》。
黒雷石。
無茶をしすぎた。
当然といえば。
当然。
目を閉じる。
すぐ近くで。
セレナとカラリンの声が聞こえた。
「明日は帰るわよ」
「う~ん~」
「魔法、まだダメ?」
「だ~め~」
「帰りは私が守る」
「ひ~と~り~で~?」
「監視員もいるでしょ」
「う~ん~」
少し。
沈黙。
「それに」
セレナが何かを言いかける。
止まる。
「それに~?」
「……何でもない」
(ゲンのことじゃろうな)
また危険になれば。
父親が現れてくれる。
そう思ったのかもしれない。
(そう何度も出られんぞ)
寿命を一年。
毎回。
簡単に切れるものではない。
必要なら。
使う。
それは変わらない。
だが。
その前に。
もっと別の方法を考えなければならない。
黒雷石。
能力。
自分。
全て。
知らなすぎる。
(帰ったら)
マルタは戻っているだろうか。
エルフの森。
昔の記録。
何か。
分かったかもしれない。
そう考えていた時。
胸元で。
――トクン。
黒雷石が。
小さく脈打った。
「…………」
目を開ける。
セレナは気づいていない。
カラリンも。
菓子に夢中。
(お前も疲れたか?)
わしは小さな手で黒雷石を包んだ。
(昨日は助かったぞ)
当然。
返事はない。
(少し休め)
ただの石に。
そんなことを思う。
前世のわしなら。
きっと笑っただろう。
だが。
今は。
もう。
単なる道具には思えなかった。
(相棒……みたいなもんかのう)
自分で思って。
少し。
おかしくなる。
そして。
そのまま。
眠りへ落ちた。
◇
夢を見た。
暗い森。
だった。
木々は空を覆い隠すように生い茂り。
足元には。
黒い石が。
無数に突き出している。
(ここは……)
見たことはない。
だが。
知っている。
セレナが話していた場所。
昔。
彼女が踏み込んだ。
禁域。
その奥。
木々が途切れた。
大きな窪地。
そして。
中心に。
何かがある。
(…………)
石。
にも。
見える。
巨大な。
枯れ木。
にも。
見える。
なのに。
生きている。
ようにも。
見える。
セレナが。
『見たはずなのに説明できない』
そう言っていた意味が。
少しだけ。
分かった。
見ているのに。
形を認識できない。
目を逸らしたくなる。
それなのに。
見ずにはいられない。
そして。
聞こえる。
――トクン。
巨大な。
鼓動。
――トクン。
(これ……)
黒雷石。
同じ。
音。
その時。
窪地の中心にある影が。
僅かに動いた。
「…………」
こちらを。
見た。
目などない。
顔もない。
それなのに。
確かに。
視線を感じた。
『――――』
声。
(何じゃ)
『――――』
聞き取れない。
近づいてくる。
違う。
声。
近い。
『――レ……』
(レ?)
『――オン』
「――っ!」
目を開けた。
暗い部屋。
窓の外。
まだ夜。
「…………」
隣では。
セレナが椅子へ座ったまま眠っている。
どうやら。
わしを看病しているうちに。
そのまま寝てしまったらしい。
(夢……)
そう思った。
だが。
胸元が。
熱い。
わしは。
ゆっくり。
黒雷石へ触れた。
「…………」
銀色の線。
一本。
増えている。
昨日より。
明らかに。
広がっている。
(……夢だけではなさそうじゃな)
――トクン。
暗闇の中で。
黒雷石が。
静かに。
脈打った。




