第30話 百十歳、何食わぬ顔で戻ります
ワイバーンを倒してから、どれほど時間が経ったのだろう。
わしは街道から少し外れた林の中で、大きな岩を背にして座り込んでいた。
遠くからは、人の声が断続的に聞こえてくる。
倒れた荷馬車を起こす声。
傷ついた馬を宥める声。
負傷者を運ぶ声。
どうやら、あちらではようやく戦いの後始末が始まったらしい。
本当なら、わしもすぐに戻りたかった。
だが。
今の姿では戻れない。
わしは膝の上に置いた自分の手を見た。
大きな掌。
太い指。
前世でもっとも身体が動いた頃の肉体。
《ダイヤング》。
寿命を一年削る代わりに、一時間だけ全盛期へ戻る力。
実際に使ってみて分かった。
確かに強い。
赤ん坊の身体では何もできないわしを、一瞬で戦える男へ変えてくれる。
だが。
それ以上に厄介だったのは。
(この姿を見られた後の言い訳じゃな……)
わしは片手で顔を覆った。
「……父親、か」
口に出してみる。
改めて聞くと、相当苦しい。
レオンの父親。
名前はゲン。
黒雷石は一族に伝わる秘宝。
雷も一族の力。
挙げ句の果てには、詳細を聞かれるたびに「秘術」で押し切った。
(商談であんな説明をした社員がおったら、間違いなく呼び出しじゃ)
前世であれば、もっとまともな言い訳を考えられたはずだ。
だが。
ワイバーンを倒した直後。
負傷者を助け。
セレナに詰め寄られ。
時間制限まで迫っていた。
(……まあ、生き残れたんじゃ。それでよしとするか)
そう思った時だった。
胸の奥が、大きく脈打った。
――ドクン。
「……来たか」
指先から力が抜けた。
続いて腕。
脚。
身体の芯にあった熱まで、潮が引くように消えていく。
「ぐっ……」
骨が軋んだ。
視界が揺れる。
腕が縮み。
脚が短くなり。
身体が急速に小さくなっていく。
先ほどまで腰の高さにあった草が、あっという間に頭より高くなる。
世界のすべてが。
もう一度。
巨大になった。
「…………」
「あぅ」
(戻ったか)
声も。
見事に赤ん坊へ逆戻りだ。
つい先ほどまで普通に喋れていたせいか、余計に不便に感じる。
(さて)
問題は。
これからどうやって戻るか。
立ち上がろうとして。
やめた。
(そうじゃった)
歩けない。
全盛期の身体でワイバーンを倒した直後に、草むらで迎えを待つしかない。
何とも締まらない話である。
「あぅ……」
(誰か来てくれんかのう)
◇
「ゲン!」
幸いにも。
長く待つ必要はなかった。
林の向こうから草を掻き分ける音が聞こえ、やがて一人の監視員が姿を現した。
わしを抱いて逃げてくれた男だ。
「ゲン! どこだ!」
「あぅ!」
声を上げる。
「……ん?」
男が足を止める。
視線が下がり。
わしと目が合った。
「…………」
(おう)
「……レオン?」
「あぅ」
監視員は数秒固まった。
その後。
周囲を見回す。
右。
左。
岩の裏。
木の陰。
「ゲンは?」
(帰った)
「あぅ」
「いや、あぅじゃ分からん」
(わしも困っとる)
男はしばらく頭を抱えていた。
だが。
やがて深々とため息を吐く。
「……本当に一時間くらいで戻ってきたのか」
(約束は守ったぞ)
「父親は消えてるし、子供だけ戻ってるし……」
額を押さえる。
「もういい。考えるのやめよう」
(いいんか)
いや。
この男も一晩で色々見すぎたのだろう。
ワータイガー。
異常な暗闇。
ワイバーン。
謎の男。
雷の槍。
重傷者の治癒。
ここまで重なれば、多少の不自然さは「そういうもの」と受け入れた方が精神衛生上いいのかもしれない。
監視員はわしを抱き上げた。
「戻るぞ」
(うむ)
「セレナがずっとお前を気にしてる」
「…………」
その言葉に。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
◇
「レオン!」
野営地へ戻った瞬間だった。
セレナが駆けてきた。
監視員が何か言うより早く。
わしの身体が、彼の腕から奪い取られる。
「無事!?」
「あぅ」
「怪我は?」
「あぅ」
「どこか痛くない?」
(大丈夫じゃ)
「本当に?」
(質問が多い)
セレナはわしの頭から足先まで、何度も確かめた。
腕。
脚。
顔。
背中。
傷一つないことを確認して。
ようやく。
深く息を吐いた。
「……よかった」
そして。
ぎゅっと抱き締められる。
(苦しい)
だが。
今は嫌ではなかった。
先ほど。
この女は。
わしだけを逃がそうとした。
『愛してる』
あの言葉が。
今も耳に残っている。
(勝手に死のうとしたことは、あとで説教じゃな)
喋れるようになったら。
いつになるか分からないが。
「レ~オ~ン~」
今度はカラリンが近づいてきた。
「ぶ~じ~で~よ~か~った~」
「あぅ」
眠たげな声。
だが。
心底安心しているのは分かった。
「そ~れ~で~」
カラリンが首を傾げる。
「お~と~う~さ~ん~は~?」
(来たか)
セレナも顔を上げた。
「そうよ。ゲンは?」
監視員の顔が。
非常に困ったものになる。
「それが……」
「何?」
「俺にも分からん」
「分からない?」
「言われた通り、一時間くらいして迎えに行ったんだ」
セレナが頷く。
「そしたら、レオンが草むらにいて」
「ゲンは?」
「いなかった」
「…………」
セレナの眉間に皺が寄った。
(まずいのう)
「何か言付けは?」
「ない」
「手紙とか」
「ない」
「本当に何も?」
「何も」
「…………」
セレナが。
ゆっくり。
わしを見る。
「あぅ?」
(わしは何も知りません)
できる限り。
純粋な赤ん坊の顔を作る。
だが。
セレナは。
随分長いこと。
わしの顔を眺めていた。
(見るな見るな)
「……変なの」
ぽつり。
「父親なのに」
(うむ)
「子供を置いて、何も言わずに消えるなんて」
(深い事情があるんじゃ)
その深い事情とやらを。
まだ何一つ考えていないが。
「でも……」
セレナの指が伸びてくる。
わしの頬へ触れる。
「やっぱり似てるのよね」
(本人じゃからな)
「目とか」
さらに顔を近づける。
「なんとなく、表情も」
(気のせいじゃ)
「……声は全然違うけど」
(そこまで同じだったら怖いわ)
セレナはしばらく考えていたが。
やがて。
小さく息を吐いた。
「まあ、いいか」
(助かった)
「レオンが無事なら」
それだけ言って。
もう一度。
わしを抱き寄せた。
◇
落ち着いて周囲を見てみると。
野営地は酷い有様だった。
一台の荷馬車は大きく傾き、荷物が街道へ散乱している。
何本かの松明は倒れ。
地面には、ワイバーンの翼が巻き上げた深い爪痕まで残っていた。
少し離れた場所。
毛布の上には。
攫われていた監視員が寝かされている。
「容態は?」
セレナが尋ねた。
「今のところ安定している」
仲間の監視員が答えた。
「意識はまだ戻ってない。だが、脈も呼吸も落ち着いてる」
「そう……」
「正直、意味が分からん」
監視員は首を振った。
「普通なら、とっくに死んでる怪我だった」
(わしにも分からん)
わしは胸元へ手をやった。
黒雷石。
今は。
何事もなかったように静かだ。
雷を生み。
槍を作り。
傷まで癒した。
(本当に、何なんじゃ)
指先が石に触れる。
その瞬間。
僅かな違和感を覚えた。
(……ん?)
石は同じ。
大きさも。
形も。
変わっていない。
ただ。
どこか。
薄くなった。
そんな感覚がした。
重さではない。
色でもない。
説明できない。
だが。
確かに。
先ほどまでより。
中にあった何かが減ったように感じる。
(使えば、消耗するのか?)
そうだとすれば。
無闇には使えない。
今日のような使い方を何度もすれば。
そのうち。
完全に力を失う可能性もある。
(まあ)
命を助けるためなら。
惜しいものでもないが。
◇
「今回の試験は……」
監視員の一人が、疲れ切った声で言った。
「ここで中止した方がいいかもしれない」
セレナが振り返る。
「中止?」
「ああ。負傷者が出た。馬も何頭か傷ついている。それに、ワイバーンまで出た」
「でも」
セレナが街道の先を見る。
「目的地までは、あと少しなんでしょ?」
「行程で言えばな」
「商人たちは?」
視線を向けられ。
二人の商人が顔を見合わせた。
一人が。
やがて口を開く。
「……俺は進みたい」
「本気ですか?」
「ああ」
男は倒れた荷馬車を見る。
「ここまで運んできたんだ。この荷物を届けられなければ、俺たちは大損になる」
もう一人も頷いた。
「ただし」
セレナとカラリンを見る。
「護衛の二人が無理なら諦める」
セレナは黙った。
カラリンへ目を向ける。
「カラリンは?」
「わ~た~し~は~」
カラリンは傷だらけになった杖を抱き締めた。
「ま~ほ~う~は~つ~か~え~な~い~」
「なら」
監視員が止めようとする。
だが。
「で~も~」
カラリンは。
いつものように。
ゆっくりと。
それでもはっきりと言った。
「い~く~よ~」
「カラリン」
「こ~こ~ま~で~き~た~も~ん~」
声は間延びしている。
だが。
目には。
迷いがなかった。
「セ~レ~ナ~は~?」
「…………」
セレナが。
今度は。
わしを見る。
「レオン」
(ん?)
「帰りたい?」
(そりゃ帰りたい)
孤児院。
子供たち。
ライカ。
暖かい飯。
寝床。
帰りたい。
だが。
仕事。
受けた。
ここまで。
来た。
わしは。
セレナの胸元へ顔を埋めた。
「あぅ」
「……分からないわよ」
(じゃろうな)
セレナが苦笑する。
そして。
もう一度。
街道の先を見る。
「行く」
「セレナ」
監視員の顔が険しくなる。
「無茶はしない」
「それ、昨日も聞いた気がするぞ」
「今度こそ」
(信用がないのう)
まあ。
当然である。
◇
最終的に。
負傷した監視員と、その護送役としてもう一人が残ることになった。
残る者たちで。
目的地を目指す。
夜が完全に明けてから。
一行は再び旅立つことになった。
空は。
いつの間にか。
元の色へ戻っていた。
昨日まで。
あれほど不自然に周囲を覆っていた暗闇。
それが。
嘘だったかのように。
朝日が街道を照らしている。
「……何だったのかしら」
セレナが呟く。
誰も答えられない。
ゴブリン。
コボルト。
ハーピー。
ワータイガー。
ワイバーン。
怯える精霊。
そして。
あの異常な暗闇。
(偶然)
そう片づけるには。
さすがに。
数が多すぎる。
◇
出発前。
セレナは倒れたワイバーンの前で足を止めた。
巨大な死骸。
頭部は。
ほとんど残っていない。
雷槍の直撃した場所は黒く焼け焦げ。
地面まで深く抉れている。
(少々やりすぎたかのう)
「ゲン……」
セレナが呟く。
(ん?)
そして。
わしを見る。
「あなたのお父さん」
(うむ)
「とんでもない人ね」
(まあのう)
「あぅ」
「似なくていいからね」
(もう雷出しとるんじゃが)
セレナが少し笑う。
そのまま歩き出そうとして。
ふと。
足を止めた。
「…………」
(どうした?)
しゃがみ込む。
ワイバーンの首筋。
そこ。
いくつも。
深い傷がある。
「変ね」
「な~に~?」
カラリンが覗き込む。
「このワイバーン」
セレナが傷へ指を近づける。
「私たちと戦う前から怪我してる」
(何?)
「古い傷じゃないの?」
「違う」
セレナは首を振った。
「まだ血が完全に固まってない」
監視員の表情が変わった。
「つまり……」
「昨夜か」
セレナが答える。
「遅くても、その少し前に何かと戦ってる」
沈黙。
カラリンが。
ゆっくりと。
森の方を見る。
「も~し~か~し~て~」
一拍。
「こ~の~こ~も~」
その眠たげな声が。
妙に。
重く聞こえた。
「に~げ~て~き~た~?」
誰も。
答えられなかった。
◇
一行は再び街道を進み始めた。
残る行程は二割。
昨日までなら。
あと少し。
そう思えた。
だが。
今は違う。
ワイバーンすら。
逃げてきた。
もし。
それが正しいのなら。
(何が追い立てた?)
あの巨大な翼竜を。
傷つけ。
住処から。
街道まで。
逃がすほどの何か。
(そんなものが、本当におるのか)
その時。
胸元で。
黒雷石が。
小さく。
――トクン。
脈打った。
「…………」
今度は。
光らない。
ただ。
弱々しい。
小さな鼓動。
わしは。
そっと石を握った。
(昨日は助かったぞ)
心の中で。
そう伝える。
もちろん。
返事などない。
ただ。
気のせいだろうか。
黒雷石が。
ほんの少しだけ。
温かくなったように感じた。
前方には。
朝日に照らされた街道が続いている。
その先に。
今回の目的地。
そして。
わしらがまだ知らない。
何かが。
待っている。
そんな気がしてならなかった。




