第29話 百十歳、父親になります
セレナたちの戦いは、もはや戦いと呼べるものではなかった。
ワイバーンが夜空を旋回するたび、巨大な翼が風を巻き起こし、地上の松明を激しく揺らす。
カラリンは魔法を使えない。
セレナの弓は、先ほどのワータイガーとの戦闘で歪んでしまっている。
監視員たちも、仲間の一人を空へ攫われたことで平静を失っていた。
誰も逃げてはいない。
それでも。
ただ、耐えることしかできていなかった。
「こっちよ!」
セレナが鞭を振るい、わざと大きな音を立てる。
自分へ注意を向けようとしているのだ。
上空のワイバーンが首を巡らせる。
(馬鹿者……!)
小高い丘まで戻ってきたわしは、その光景を見下ろしていた。
《ダイヤング》によって取り戻した、全盛期の肉体。
さらに《孤王》を使えば、身体能力は人の領域を大きく超える。
地面を蹴れば、馬より速く走れる。
岩程度なら素手でも砕けそうなほど力が満ちている。
だからこそ。
(近づけん)
《孤王》は、一人で戦う時にしか発動しない。
セレナやカラリンの横に並んだ瞬間、力を失う可能性がある。
単純に解除されるだけならいい。
もし反動まで一気に押し寄せたら。
助けに入ったつもりが、逆に足手まといになる。
(面倒な力をもらったもんじゃ)
今すぐ飛び込んで。
あのワイバーンを叩き落としたい。
なのに。
それができない。
わしは歯を食いしばった。
その時だった。
胸元が、強く熱を持った。
「……ん?」
服の下から、青白い光が漏れている。
黒雷石。
これまで何度も脈打ち、雷を発生させてきた正体不明の石が。
今は、まるでわしを急かすように激しく輝いていた。
(何じゃ。お前も何とかしたいのか?)
答えるように。
――トクン。
石が脈打つ。
「…………」
ここまで来れば。
考えている暇はない。
わしは黒雷石を強く握りしめた。
◇
瞬間。
全身を電流が駆け抜けた。
「ぐっ……!」
熱い。
だが、痛みとは違う。
身体の内側から何かが溢れ出し、それが右腕へ集まってくる。
指の間から青白い雷が迸った。
一瞬、また暴発するのかと思った。
だが。
今回は違った。
雷が散らない。
一本の形を作り始めている。
長く。
鋭く。
わしの手の中へ収束していく。
「……槍?」
思わず声が出た。
右手には。
雷そのものを固めたような、巨大な槍が握られていた。
わしの背丈よりも長い。
重さは感じない。
それなのに。
握っているだけで、腕の産毛が逆立つほどの力が伝わってくる。
(使えということか)
黒雷石は。
もう答えなかった。
だが。
それで十分だった。
わしは丘の上からワイバーンを見据えた。
夜空。
巨大な翼。
獲物を狙う眼。
今まさに。
セレナへ向かって高度を下げようとしている。
(させん)
槍を肩へ引く。
前世で槍投げの選手だったわけではない。
だが。
スポーツ用品を扱っていた頃。
競技を見る機会ならいくらでもあった。
まして今の身体には《孤王》が乗っている。
距離。
角度。
速度。
ワイバーンの動き。
不思議なほど、よく見えた。
踏み込む。
腰を捻る。
そして。
「行け」
全力で。
投げた。
◇
光が夜を切り裂いた。
雷槍は。
音よりも速く飛んだ。
一直線に。
ワイバーンへ。
「ギィ――」
鳴き声すら最後まで続かなかった。
雷槍が頭部へ直撃する。
――ドォン!!
夜空が一瞬、真昼のように白く染まった。
衝撃。
轟音。
そして。
巨大な頭部が、光の中で砕け散る。
翼から力が抜けた。
ワイバーンの身体が、ゆっくりと傾く。
そのまま。
地面へ。
――ズズゥン!!
大地が揺れた。
「…………」
誰も。
動かなかった。
セレナも。
カラリンも。
監視員たちも。
何が起きたのか理解できていない。
(まあ)
わしも。
完全には理解できとらんが。
黒雷石を見る。
先ほどまでの強い光は消えていた。
ただ。
掌に残った熱だけが。
今の出来事が現実だったと教えている。
◇
「……誰?」
丘を下りて近づいたわしへ、セレナが鞭を向けた。
「待て待て」
両手を上げる。
「敵ではない」
「今の雷……あなた?」
「まあ……そうじゃな」
セレナの目がさらに細くなる。
(怖いのう)
カラリンもこちらを見ている。
普段の眠たげな表情はどこかへ消えていた。
「す~ご~い~」
ただ。
そこだけはいつも通りだった。
「あなた、何者なの?」
セレナがもう一度尋ねる。
(さて)
何も考えていなかった。
赤ん坊だったレオンが消え。
突然。
知らない男が現れ。
雷でワイバーンの頭を吹き飛ばした。
怪しいにもほどがある。
だが。
今は説明より先に。
「攫われた監視員は?」
わしが尋ねると。
全員の表情が変わった。
「……向こう!」
監視員の一人が走り出した。
わしも後を追う。
◇
男は。
街道から少し離れた場所に倒れていた。
「おい!」
仲間の監視員が膝をつく。
「聞こえるか!」
反応はない。
だが。
胸は。
ほんの僅かに上下している。
(生きとる)
それだけでも。
驚異的だった。
ワイバーンの鉤爪に掴まれ。
空中から放り出されたのだろう。
全身に深い傷があり、衣服は血で真っ赤に染まっている。
「まだ息がある!」
「止血を!」
セレナが駆け寄る。
しかし。
顔を見る限り。
時間はあまりない。
(これだけの傷で生きとるだけでも、大したもんじゃ)
そう思った時。
また。
胸元が光った。
「…………」
黒雷石。
今度は。
雷槍を作った時のような激しい光ではない。
淡い。
温かな光。
(今度は何じゃ)
わしは石を握る。
すると。
なぜか。
倒れた監視員へ近づけたくなった。
理由は分からない。
直感。
それだけだ。
「何するの?」
セレナが警戒する。
「わしにも分からん」
「……は?」
「だから」
わしは黒雷石を監視員の胸へ押し当てた。
「駄目元じゃ」
次の瞬間。
石から。
淡い光が広がった。
◇
「……嘘」
セレナが小さく呟いた。
わしも同じ気持ちだった。
監視員の傷が。
塞がっていく。
裂けていた皮膚がゆっくりと繋がり。
止まらなかった血が。
少しずつ。
止まっていく。
青白かった頬にも。
僅かだが。
色が戻った。
「呼吸が……」
仲間の監視員が確認する。
「安定してきてる」
「…………」
完全に治ったわけではない。
意識も戻らない。
だが。
少なくとも。
今すぐ命を落とす状態ではなくなった。
「す~ご~い~」
カラリンが感心したように黒雷石を見る。
(わしが一番驚いとるわ)
雷。
武器。
そして今度は。
治療。
(何なんじゃ、これは)
神に聞いても知らない。
黒雷石そのものの正体も分からない。
それなのに。
使えば使うほど。
できることが増えている。
「……あなた」
背後から。
冷たい声。
来た。
(今度こそ逃げられんな)
振り返る。
セレナ。
じっと。
わし。
見ている。
「誰なの?」
◇
考えろ。
百十年。
会社。
経営。
交渉。
危機対応。
色々。
やってきた。
ここで。
一つくらい。
上手い嘘。
つける。
はず。
「わ、わしは……」
「…………」
「レオンくんの……」
言ってから気づく。
(くんをつけてしもうた)
「レオンの……」
セレナが眉を寄せる。
「……親じゃ」
沈黙。
長い。
非常に。
長い。
「……親?」
「うむ」
「レオンの?」
「そうじゃ」
「父親?」
「……うむ」
(苦しいのう)
自分でも分かる。
嘘が下手すぎる。
だが。
意外にも。
セレナはすぐには否定しなかった。
わしの顔を。
じっと見る。
目。
鼻。
輪郭。
そして。
黒雷石。
「だから……」
セレナが呟く。
「レオンも雷を使える?」
「そ、そういうことじゃ」
「その石も?」
「一族に伝わるものじゃ」
(今決めた)
「レオンが持ってたのも?」
「うむ」
(知らん)
「じゃあ」
セレナの目が少し鋭くなる。
「どうしてあの子を森に置き去りにしたの?」
(…………)
一番。
嫌なところ。
突かれた。
「それは……」
「それは?」
「事情があってのう」
「どんな事情?」
「深い事情じゃ」
「…………」
(やめてくれ。その目)
セレナはしばらく、わしの顔を見ていた。
そのまま。
何かを確かめるように。
そして。
不意に。
少しだけ首を傾げた。
「……目」
「ん?」
「レオンに似てる」
(本人じゃからな)
「そうじゃろう?」
わしはできるだけ自然な顔で笑った。
「……なら」
セレナは小さく息を吐く。
「今は信じる」
(通った)
思わず心の中で拳を握った。
しかし。
「その代わり」
(まだあるのか)
「いつかちゃんと説明して」
「……うむ」
(その日までに考えておこう)
◇
「名前は?」
「…………」
油断した。
「あなたの名前」
(そこも必要か)
神崎源一郎。
それは。
言えない。
少し考え。
「ゲン」
口から出た。
「ゲン?」
「そうじゃ」
(源一郎のゲン)
「ゲン……」
セレナが、その名を小さく繰り返す。
「分かった」
(何とか乗り切ったか)
そう思った瞬間。
身体の奥に。
僅かな違和感が走った。
(まずい)
《ダイヤング》。
制限時間は一時間。
正確にあと何分残っているかは分からない。
だが。
感覚的に。
長くはない。
「では」
わしは少し後退した。
「わしはレオンを迎えに行く」
「今?」
「うむ」
「どこにいるの?」
「先ほどの監視員に預けてある」
これは本当。
「すぐ連れてくる」
半分。
本当。
「待って。私も――」
「いや!」
思わず声が大きくなる。
セレナが驚く。
「……なぜ?」
「負傷者がおるじゃろう」
咄嗟に言う。
「お前さんはここに残れ」
「でも」
「頼む」
少し。
真面目に。
言う。
「レオンを無事に連れて戻る」
「…………」
セレナ。
わし。
見て。
最後。
頷く。
「……分かった」
(よし)
「では!」
「ちょっと」
呼び止められる。
「何じゃ?」
「ありがとう」
「…………」
セレナが。
小さく。
頭を下げた。
「みんなを助けてくれて」
(…………)
何とも。
言えない。
気持ち。
なる。
「気にするな」
それだけ。
答える。
「わしも」
一瞬。
言いそうになる。
家族だから。
でも。
やめた。
今。
それを言えば。
余計。
怪しい。
「レオンの世話になっとるようじゃからな」
それだけ言い残し。
わしは走った。
◇
「おい!」
少し離れた街道で、わしを運んでいた監視員を見つけた。
男はわしを見るなり剣へ手をかける。
「誰だ!」
「待て!」
「……さっきの男か?」
「そうじゃ」
「レオンは!?」
(そこじゃよな)
「無事じゃ」
「どこにいる?」
「少し事情があってのう」
「事情?」
わしは。
もう。
開き直った。
「わしはレオンの父親じゃ」
「…………は?」
本日二回目。
同じ反応。
「父親?」
「うむ」
「いや待て。俺は確かにレオンを抱いてた。でも急に光って、お前が――」
「一族の秘術じゃ」
「秘術?」
「そうじゃ」
「どんな?」
「話せん」
「何で?」
「秘術じゃから」
「…………」
(我ながら無茶苦茶じゃな)
監視員は頭を抱えた。
「つまり……」
「うむ」
「さっき俺が抱いていた赤ん坊は?」
「レオン」
「お前は?」
「父親のゲン」
「じゃあレオンは今?」
「安全なところじゃ」
「どうやって移動した?」
「秘術」
「…………」
だんだん。
男の目。
死んでいく。
(すまん)
わしも。
説明。
限界。
である。
◇
「とにかく」
わしは話を強引にまとめた。
「一時間ほどしたら、レオンをセレナたちのところへ届ける」
「一時間?」
「そうじゃ」
「何で一時間?」
「……秘術の都合じゃ」
便利。
秘術。
「その後は頼む」
「待ってくれ。まだ全然分からないんだが」
「わしにも色々あるんじゃ!」
これは本音。
「…………」
監視員が。
長く。
ため息。
吐く。
「セレナは?」
「説明した」
「信じたのか?」
「一応」
「…………」
さらに。
長い。
ため息。
「分かった」
(いいんか)
「正直、何一つ理解できてない」
「そうじゃろうな」
「でも」
監視員は遠くのキャンプを見る。
「俺たちを助けたのは事実だ」
そして。
わしを見る。
「セレナが信用したなら、今は俺もそうする」
(ありがたい)
その信頼。
少し。
心。
痛い。
「すまんな」
「その代わり」
「ん?」
「レオンを必ず連れて戻れよ」
わしは。
笑った。
「ああ」
今度は。
嘘ではない。
「必ずじゃ」
◇
監視員と別れたあと。
わしは人目のない場所まで走った。
森の手前。
大きな岩。
その陰。
「…………ふう」
ようやく。
息を吐く。
(戦闘より疲れたわ)
ワイバーン。
雷槍。
治療。
それより。
嘘。
疲れる。
「父親……か」
思わず苦笑した。
自分が。
自分の父親。
名乗る。
(百十年生きても、まだ初めての経験があるとはのう)
黒雷石を取り出す。
今は。
何事もなかったように。
静か。
冷たい。
(雷を槍にして)
ワイバーンを倒した。
(傷まで治した)
今まで。
この石。
できること。
雷。
だけ。
思っていた。
だが。
違う。
もしかすると。
まだ。
わし自身。
知らない力。
いくつも。
ある。
(本当に何なんじゃ、お前は)
当然。
答えはない。
わしは石を胸元へ戻した。
そして。
自分の手を見る。
全盛期の大きな手。
だが。
指先。
僅か。
震えている。
(そろそろか)
一時間。
終わる。
そうすれば。
また。
レオン。
戻る。
そして。
何事も。
なかった顔。
して。
セレナ。
ところへ。
戻る。
「…………」
(無理があるのう)
父親。
消える。
赤ん坊。
戻る。
誰でも。
疑う。
だが。
ここまで来たら。
押し通すしかない。
(まあ、ええ)
今日。
ワイバーン。
倒した。
監視員。
助けた。
セレナ。
カラリン。
生きている。
それ以上。
望むこと。
ない。
寿命。
一年。
失った。
だが。
不思議と。
惜しい。
とは思わなかった。
百十年。
生きた。
前世。
最後。
長く生きる。
こと。
自体。
目的。
ではなかった。
そして。
今世。
最初。
決めた。
太く。
短く。
好きに。
生きる。
(今日ほど)
その言葉。
自分らしく。
使えた日は。
まだ。
なかったかもしれんな。
わしは岩へ背を預け。
夜空を見上げる。
(少し待っとれ、セレナ)
次に会う時は。
また。
赤ん坊。
じゃ。
それまで。
どうか。
誰も。
死ぬなよ。




