第28話 百十歳、今度はわしが守ります
ワータイガーの襲撃を退けたあとも、誰一人としてすぐには気を抜けなかった。
松明の火は揺れ続け、倒れた魔物たちの荒い呼吸が闇の向こうから聞こえてくる。
幸い、死者はいなかった。
傷を負った者はいる。馬も数頭が脚を痛めていた。それでも、あれだけの襲撃を受けて全員が生きているという事実は、十分すぎるほどの成果だった。
セレナは焚き火から少し離れた場所に座り、わしを胸に抱いていた。
いつもより、ずっと強く。
(……少し苦しいんじゃがな)
そう思いながらも、抵抗する気にはならなかった。
わしの頭を撫でるセレナの手が、ほんの僅かに震えていたからだ。
「怪我……ないわよね」
「あぅ」
「手も……足も……」
腕を確かめ、脚を確かめ、顔を覗き込む。
何度目かも分からない確認を終えて、ようやくセレナは小さく息を吐いた。
「……よかった」
その声が、やけに弱く聞こえた。
先ほどまでワータイガーを相手に一歩も引かなかった女と同じ人物とは思えない。
(心配しすぎじゃ)
そう言いたかったが、もちろん言葉にはならない。
代わりに、わしは小さな手を伸ばしてセレナの頬に触れた。
「……何?」
「あぅ」
セレナは一瞬だけ目を丸くし、それから困ったように笑った。
「慰めてくれてるの?」
(まあ、そんなところじゃ)
◇
一方。
少し離れた場所では、カラリンが今にも泣き出しそうな顔で杖を抱えていた。
「うぅ~……」
普段のとろりとした声が、今日は本当に情けなく聞こえる。
杖そのものは折れていない。
ただ、ワータイガーの一撃を受け止めたせいで表面には大きな傷が入り、何ヶ所か欠けてもいた。
「どうした?」
監視員の一人が声を掛ける。
カラリンは杖を撫でながら、しょんぼりと答えた。
「さっきの~戦闘で~……乱暴な~使い~方を~したから~……」
「したから?」
「精霊が~怒っちゃった~……」
「…………」
監視員が黙る。
わしも少し考えた。
(精霊というものは、怒るんじゃな)
カラリンの魔法は、どうやら彼女自身が一方的に力を振るっているわけではないらしい。
精霊に語りかけ。
力を借り。
その力を現象として引き出す。
ならば、相手に機嫌があるという話も不思議ではない……のかもしれない。
「つまり」
監視員が慎重に言う。
「今は、もう魔法を使えないってことか?」
カラリンは。
こくり。
と頷いた。
「いつ戻る?」
「精霊の~機嫌が~直ったら~」
「それはいつだ?」
「わ~か~ら~な~い~」
監視員は額を押さえた。
だが、すぐに表情を切り替える。
「仕方ない。今夜は俺たちで警戒する」
「でも、あなたたちも休まないと」
セレナが言った。
「これは俺たちの仕事でもある」
監視員は迷わなかった。
「冒険者を評価するだけが監視員じゃない。育成と安全を守ること。それもギルドから与えられた役目だ」
仲間たちが頷く。
「見張りを増やす。交代で回すぞ」
「了解」
「商人たちは馬車の近くから離れないでくれ」
その言葉を境に、一行は再び動き始めた。
(なるほどのう)
ただ試験を監視するだけではない。
危険になれば前へ出る。
その覚悟まで含めて。
彼らはここへ来ている。
◇
夜は、ゆっくりと深くなっていった。
先ほどまで空を覆っていた異様な暗さとは違う。
今度は本当の夜だった。
雲が月を隠し、森も街道も黒一色に染まっている。
頼りになるのは、焚き火と松明の明かりだけ。
その小さな光の輪の外には、何がいるのか分からない。
わしはセレナの腕の中にいた。
彼女も眠っていない。
カラリンも。
監視員たちも。
誰もが、耳を澄ませながら夜の向こうを窺っている。
(静かすぎる)
虫の声がない。
鳥の声もない。
あるのは薪の爆ぜる音と。
馬が時折、落ち着かなさそうに鼻を鳴らす音だけ。
嫌な静けさだった。
そして。
その静けさは。
突然、引き裂かれた。
――ギィアアアアアアアアアッ!!
「っ!?」
巨大な叫び声が、夜空を震わせた。
獣の咆哮とも違う。
金属を引き裂いたような。
耳の奥へ直接突き刺さるような、不快な声。
馬たちが一斉に暴れ始める。
「何だ!?」
「上だ!」
監視員が松明を掲げた。
セレナも瞬時に立ち上がる。
「この鳴き声……」
その顔が強張った。
風が吹く。
いや。
違う。
翼が空気を叩いたのだ。
バサッ――!
強烈な風圧に、松明の炎が大きく傾く。
次の瞬間。
闇の向こうから。
巨大な鉤爪が現れた。
「まさか……!」
監視員の声が震える。
「ワイバーン――《翼竜》だ!」
誰かが叫んだ。
その直後。
「うわあああああっ!!」
一人の監視員の身体が、宙へ持ち上がった。
「なっ――!」
巨大な爪が、男の胴を鷲掴みにしている。
「離せ! 離せえっ!」
仲間が駆け寄ろうとする。
だが。
バサッ!
ワイバーンが翼を打つ。
凄まじい風。
土と砂が舞い上がる。
「ぐわああああああ!!」
監視員の身体が。
そのまま夜空へ運ばれていった。
◇
「撃て!」
「無理だ! 暗すぎる!」
「松明を上げろ!」
監視員たちの声が飛び交う。
だが。
完全に浮き足立っていた。
仲間が。
目の前で。
空へ連れ去られた。
冷静でいろという方が無理なのかもしれない。
「カラリン!」
「む~り~!」
カラリンが必死に杖を掲げる。
「お~ね~が~い~! 今だけ~!」
しかし。
何も起きない。
風も。
地面も。
空気すら。
彼女の声に答えない。
「うごいて~……!」
カラリンの目に涙が浮かぶ。
「ご~め~ん~な~さ~い~……」
セレナも弓へ手を伸ばした。
だが。
「……っ!」
歪んでいる。
先ほど。
ワータイガーを弓で殴った時の衝撃だろう。
弓身が僅かに曲がり、弦をまともに引けない。
「こんな時に……!」
セレナが歯を食いしばる。
腰には鞭。
矢も残っている。
だが。
相手は空。
届かない。
「ぐわああああああ!!」
夜空から。
まだ監視員の叫び声が聞こえる。
死んではいない。
だからこそ。
その悲鳴が。
一行の心を削っていく。
――ギィアアアアアッ!!
ワイバーンが再び旋回する。
今度は。
松明の光の中に。
その全身が一瞬だけ浮かび上がった。
巨大な翼。
長い尾。
鋭い牙。
何より。
こちらを獲物として見下ろす。
冷たい眼。
(まずい)
わしにも分かった。
これは。
今までとは違う。
◇
「レオン」
不意に。
セレナがわしを抱き締めた。
強く。
本当に。
痛いほど。
(……セレナ?)
顔を上げる。
セレナは。
わしを見ていなかった。
目を閉じている。
何かを堪えるように。
「レオン……」
やがて。
ゆっくりと目を開いた。
その瞳には。
恐怖があった。
それでも。
笑おうとしていた。
「愛してる」
(…………)
一瞬。
意味が分からなかった。
いや。
分かった。
分かったからこそ。
頭が真っ白になった。
セレナは。
わしの額へ。
そっと口づける。
そして。
近くにいた監視員へ向かって。
わしを差し出した。
「この子だけでも」
「セレナ……」
「お願い」
監視員は。
何も言えなかった。
セレナを見る。
ワイバーンを見る。
そして。
わしを見る。
その顔には。
苦いものが浮かんでいた。
何かを。
理解してしまった顔だった。
やがて。
目を閉じる。
「……心得た」
わしを抱きかかえる。
そして。
走った。
◇
(……おい)
松明の光が。
遠ざかる。
セレナも。
カラリンも。
どんどん。
小さくなっていく。
(待て)
「あぅ!」
手を伸ばす。
「おぎゃ!」
「暴れるな!」
監視員は走り続ける。
「セレナに頼まれたんだ!」
(そんなことは聞いとらん!)
「おぎゃああああああ!!」
(おい、セレナ――!!)
当然。
声は。
言葉にはならない。
◇
遠く。
松明のそば。
セレナとカラリンが並んでいた。
「カラリン……」
「セ~レ~ナ~」
「私たち」
セレナが鞭を握り直した。
そして。
笑った。
こんな時なのに。
どこか穏やかに。
「いいコンビじゃない?」
カラリンも。
泣きそうな顔のまま。
笑う。
「う~ん~」
「足掻くよ」
「も~ち~ろ~ん」
たった二人。
空を舞う巨大な翼竜を見上げる。
(…………)
何じゃ。
それは。
何を。
勝手に。
終わらせようとしている。
◇
『愛してる』
その言葉が。
頭から離れない。
前世。
わしは百十年生きた。
長い人生だった。
戦争で家族を失った。
一人で生きた。
会社を作った。
人を雇った。
金を稼いだ。
仕事ばかりして。
気づけば。
百十歳。
だから。
次は違う人生にしようと思った。
長く。
細く。
無難に。
そんなものはいらない。
太く。
短く。
好きに生きる。
そう決めた。
(……そうじゃ)
なら。
いつ使う。
神が。
わしに与えた。
あの力。
『ダイヤング』
寿命を一年切り取る。
それと引き換えに。
一時間だけ。
全盛期の肉体へ戻る。
(一年)
たった。
一年。
百十年。
生きた。
わしが。
今さら。
一年を惜しむ。
理由があるか。
まして。
その一年で。
守れるものがある。
「おぎゃあああああ!」
「落ち着け!」
監視員がわしを抱き直す。
「お前だけでも助ける! それがセレナの――」
(知るか!)
小さな拳を。
握る。
(神様)
わしは。
あんたのこと。
そこまで信用しとらん。
特典を。
渡し忘れるような。
神じゃからな。
(じゃが)
今だけは。
ありがたく使わせてもらう。
わしは。
心の中で。
その名を呼んだ。
(――ダイヤング)
瞬間。
ドクン――!!
心臓が。
大きく跳ねた。
「なっ……!?」
監視員の声が裏返る。
視界が。
一気に高くなる。
小さかった腕が伸びる。
脚が伸びる。
骨が軋む。
筋肉が戻る。
肺が。
大きく空気を吸い込む。
「…………」
懐かしい。
この身体。
前世。
もっとも力があった頃。
走れた。
戦えた。
何でもできると。
そう思っていた。
あの頃の肉体。
さっきまで。
わしを抱えていた監視員が。
今は。
こちらを見上げていた。
「……は?」
当然だろう。
腕の中にいた赤ん坊が消え。
代わりに。
一人の男が立っている。
「すまんな」
久しぶりに。
まともな言葉を。
口にする。
「だ……誰だ、お前……?」
監視員が呆然と尋ねる。
わしは。
少しだけ笑った。
「通りすがりの爺じゃよ」
「……爺?」
「気にするな」
そして。
振り返る。
遠くに。
松明。
ワイバーン。
セレナ。
カラリン。
「ちと」
拳を握る。
「家族を迎えに行ってくる」
地面を蹴った。
◇
身体が。
前へ飛ぶ。
速い。
全盛期の肉体。
地面を蹴るたび。
景色が後ろへ流れていく。
(待っとれ)
セレナ。
カラリン。
監視員。
商人。
全員。
そして。
もう一つ。
わしには。
まだ力がある。
『ソロ――《孤王》』
一人で戦う時のみ。
超人的な身体能力を得る。
今。
誰とも組んでいない。
わし一人。
(条件は満たしとる)
わしは走りながら。
空を見上げた。
巨大なワイバーン。
恐ろしい。
強い。
空を飛ぶ。
普通なら。
正面から挑む相手ではない。
だが。
(知らん)
そんな理屈。
今は。
どうでもいい。
セレナは。
『この子だけでも』
と言った。
違う。
(わし一人で帰ってどうする)
帰ると。
約束した。
二人で。
孤児院へ。
帰る。
それだけだ。
口元が。
自然と上がる。
人生二周目。
初めて。
自分の意思で。
寿命を切った。
相手は。
翼竜。
(上等じゃ)
百十年生きた。
神崎源一郎。
今世。
レオン。
どちらでもいい。
今は。
ただ。
家族を迎えに行く男だ。
わしは。
さらに強く。
地面を蹴った。
(待っとれよ、セレナ)
今度は。
わしが。
守る番じゃ。




