第27話 百十歳、闇の中で牙を見る
旅は順調だった。
予定していた行程も、すでに八割ほどを消化している。
途中でハーピーに襲われるという出来事こそあったものの、被害はない。カラリンという予想外に頼もしい同行者にも恵まれ、このままなら大きな問題もなく依頼を終えられる。
少なくとも。
この時のわしは、そう思っていた。
◇
「……暗くないか?」
荷馬車を操っていた男の一言で、わしは空を見上げた。
確かに暗い。
日没にはまだ早いはずなのに、周囲から急速に光が失われ始めていた。
厚い雲でも出てきたのかと思ったが、どうも様子がおかしい。
空全体が黒く染まっていく。
遠くの山々はすでに輪郭を失い、街道の両脇に広がる森も、巨大な黒い塊のように見え始めていた。
「雨でも降るのか?」
「いや……」
ギルドから同行している監視員が、険しい顔で空を見上げる。
やがて彼は何かを決断したように手を上げた。
「止まれ! 今日はここで野営する!」
商人たちが驚いたように振り返る。
「ここでですか? まだ進めるでしょう」
「この暗さだ。これ以上は危険すぎる」
監視員の判断は早かった。
わしも異論はない。
(見えない場所を無理に進むほど危険なことはないからのう)
前世で警備会社を経営していた頃も、夜間警備では照明一つの有無が安全性を大きく左右した。
ましてや、ここは魔物のいる世界だ。
暗闇の中を荷馬車で進み、何かに襲われれば対応が遅れる。
それなら、まだ多少の明るさが残っているうちに守りを固めた方がいい。
「分かりました。ここで野営します!」
商人の一人が声を張ると、全員が慌ただしく動き始めた。
◇
三台の荷馬車を寄せ、馬を繋ぐ。
積み荷の中から野営道具を取り出し、火を起こすための薪を集める。
そうしている間にも、辺りは刻一刻と暗くなっていった。
まるで夜が駆け足でこちらへ迫ってきているようだった。
やがて、セレナの手が止まった。
「…………」
それまで荷物を運んでいた彼女が、不意に森の方へ顔を向ける。
(どうした?)
わしも耳を澄ませた。
聞こえるのは、荷物を動かす音。
馬の鼻息。
薪が爆ぜる音。
それから、風に揺れる木々のざわめき。
だが。
セレナの耳には、それ以外の何かが届いているらしい。
切り落とされた耳の痕に指を添えながら、じっと闇の向こうを見つめている。
「……カラリン」
「うん~」
返事は、すぐに返ってきた。
いつもの眠たげな声。
けれどカラリンは、すでに身の丈ほどもある杖を両手で握っていた。
二人の様子を見て、監視員も表情を引き締める。
「何かいるのか?」
「分からない」
セレナは弓を手に取った。
「でも、鳴き声が聞こえた」
「どこからだ?」
「……一ヶ所じゃない」
その一言で、空気が変わった。
監視員は野営の準備を止めなかった。
むしろ急がせた。
「松明を増やせ! 馬車から離れるな! 火の外へ出る時は必ず二人以上で動け!」
指示が飛ぶ。
誰も余計なことを喋らなくなった。
一本、また一本と松明に火が灯されていく。
しかし、明るくなったのはわずかな範囲だけだった。
炎の外側には、濃密な闇がある。
その境目を見つめていると、何かがこちらを見ているような気さえしてくる。
(……嫌な感じじゃ)
セレナの背中にいるわしにも、張り詰めた空気が伝わってきた。
馬たちも同じらしい。
先ほどから落ち着きなく蹄を鳴らし、何度も暗闇へ顔を向けている。
それなのに。
何も見えない。
何も来ない。
ただ時間だけが過ぎていく。
こういう時が、一番怖い。
そして――。
それは突然やってきた。
――ドンッ!!
地面を叩きつけるような大音響が響いた。
「飛んで!!」
間髪入れずに、セレナの声が夜を切り裂く。
その場にいた全員が、反射的に地面を蹴った。
セレナも大きく跳ぶ。
背負われたわしの身体が、一瞬だけ宙へ浮いた。
直後。
「こ~ろ~べ~」
カラリンが杖の石突きを地面へ打ちつけた。
何かが走った。
目には見えない。
だが、確かに地面の下を何かが駆け抜けていった。
次の瞬間。
ドドッ、と周囲からいくつもの鈍い音が響く。
馬が激しくいなないた。
それに混じって、獣とも人ともつかない呻き声が聞こえた。
(今のは……)
襲撃者が転んだ。
おそらく、馬も何頭か巻き込まれたのだろう。
「全員、松明の内側へ!」
着地と同時に監視員が叫ぶ。
暗闇の中で散開すれば、同士討ちの危険がある。
商人も補助員も、すぐさま明かりの周囲へ集まった。
セレナも弓を構えながら後退する。
わしはその背中から必死に闇を睨んだ。
見えない。
だが。
いる。
気配だけは、確かにそこにある。
セレナの指が弦を引いた。
「……そこ!」
ヒュンッ――!
風を切る音。
矢が松明の光を抜け、闇の中へ消える。
直後。
ドサリ。
重いものが倒れた。
(当てたのか!?)
ほとんど何も見えなかったはずだ。
セレナはすでに次の矢を番えている。
だが。
それを境に。
物音が止んだ。
襲撃者も、こちらの力量を測っているのだろう。
完全な静寂。
互いに、闇の向こうとこちら側から相手の出方を窺っている。
「カラリン」
「うん」
今度の返事は、短かった。
カラリンが目を閉じ、杖を胸の前へ立てる。
「ふ~る~え~ろ~」
風もないのに、ローブの裾が揺れた。
次の瞬間、空気が微かに震えた――ような気がした。
波紋のような何かがカラリンを中心に広がり、暗闇の奥へ吸い込まれていく。
数秒。
カラリンが目を開けた。
「の~こ~り~さ~ん~た~い~」
「三体!?」
監視員が驚く。
「どうやって――」
「わ~た~し~の~ま――」
ヒュンッ!
カラリンが言い終えるより早く、再びセレナの弓が鳴った。
闇の中から。
ドサッ。
また一つ、何かが倒れる音がした。
「……これで二体ね」
「…………」
カラリンが、ゆっくりセレナを見る。
「わ~た~し~の~せ~つ~め~い~」
「あとで聞くわ」
「そ~う~」
(息が合っとるんだか、合っとらんのだか)
だが、少なくとも二人とも強い。
わしが少しだけ緊張を緩めかけた、その時だった。
「ガアアアアアアアッ!!」
咆哮。
今までとは比べものにならない。
腹の底まで震わせるような獣の声が、すぐ近くから響いた。
「セレナ!」
監視員が叫ぶ。
だが。
もう遅い。
闇の中から巨大な影が飛び出した。
「――っ!」
松明の炎が、その姿を照らす。
黄色と黒の縞模様。
鋭い牙。
太い腕。
全身を覆う獣毛。
そして、人間を遥かに上回る巨体を二本の脚で支えている。
(虎……?)
わしがそう思った直後だった。
「ワータイガー!?」
監視員の声が裏返った。
(ワータイガー……)
後で知った話だが、ワータイガーは虎の特徴を色濃く残した獣人系の種族らしい。
その多くは竹林や深い山奥に集落を築き、滅多なことでは人里へ下りてこない。
ましてや、交易の盛んな街道付近で目撃されることなど、まずないという。
(またじゃ)
ゴブリン。
コボルト。
ハーピー。
そして今度はワータイガー。
本来いるべき場所から離れた者たちが、次々と街道へ姿を現している。
明らかに何かがおかしい。
だが。
今は、その理由を考えている暇などなかった。
「ガァッ!」
一体のワータイガーが地面を蹴った。
巨体からは想像もできない速度だった。
一瞬でセレナとの距離を詰め、太い腕を振り上げる。
近すぎる。
矢を射る暇はない。
セレナは弓を捨て――なかった。
「ふんっ!」
握ったまま、その弓をワータイガーの横っ面へ思い切り叩きつけた。
ゴッ!
とても弓から鳴っていいとは思えない音がした。
「グァッ!?」
巨大な虎の頭が横へ弾かれる。
(弓で殴るんかい!)
思わず心の中で叫んだが、しっかり効いている。
ワータイガーがよろめいた隙に、セレナは素早く距離を取った。
しかし。
「ガアアアッ!!」
もう一体。
闇の反対側から飛び出したワータイガーが、カラリンへ襲いかかった。
「ひ~え~!!」
カラリンが杖を横にする。
振り下ろされた太い腕を、杖で受け止めた。
ガンッ!
「う~そ~で~しょ~」
小さな身体が沈む。
足元の土が抉れた。
杖が大きくしなり、今にも折れそうな音を立てる。
「カラリン!」
セレナが走った。
だが、弓へ矢を番えている暇はない。
その手に残っていた一本の矢を逆手に握り、躊躇なくワータイガーの腕へ突き刺した。
「ガッ!?」
矢尻が肉へ沈む。
ワータイガーが腕を振り払い、セレナを睨みつけた。
だが。
次の瞬間。
「グ……ガ……?」
巨体が震え始めた。
脚から力が抜け、膝が地面へ落ちる。
そのまま横倒しになり、数度痙攣したあと、ぴくりとも動かなくなった。
(…………)
昨夜。
セレナは言っていた。
『殺しはしない。しばらく動けなくなるだけ』
(どれだけ強力な毒なんじゃ……)
これを素手で触らなくて本当によかった。
しかし。
戦いは終わっていない。
「ガァッ!」
最初のワータイガーが体勢を立て直した。
今度はカラリンへ向かおうとする。
セレナの手が腰へ走った。
鞭を引き抜く。
――パァンッ!
乾いた破裂音が闇を裂いた。
「ギャウッ!」
鞭の先端がワータイガーの肩を打ち抜き、巨体が大きく後退する。
セレナはさらに一歩踏み込んだ。
二撃目。
三撃目。
倒すためではない。
カラリンから引き離すための攻撃だ。
「今!」
「う~ん」
カラリンが杖を構える。
その先端で、空気が歪んだ。
「は~な~て~」
――ドンッ!!
見えない衝撃波が炸裂した。
「ガァッ!?」
まともに受けたワータイガーの巨体が宙へ浮く。
数メートルも吹き飛ばされ、地面を何度も転がった。
土煙を上げて、ようやく止まる。
◇
しばらく。
誰も動かなかった。
聞こえるのは、荒い呼吸。
馬のいななき。
そして。
松明が燃える音だけ。
「……カラリン」
セレナが呼ぶ。
「う~ん」
カラリンは杖の先端を地面へつけた。
目を閉じる。
先ほどと同じように、何かを探るように意識を集中させた。
数秒後。
「も~う~い~な~い~よ~」
その言葉を聞いた瞬間。
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
◇
監視員が松明を手に、倒れた襲撃者たちを確認して回る。
セレナも毒矢を突き刺したワータイガーのそばへしゃがみ込み、首筋へ指を当てた。
「生きてる」
「こっちもだ」
監視員の表情には、安堵よりも困惑の方が色濃く浮かんでいた。
「しかし……どうしてワータイガーがこんな場所にいる」
セレナは答えなかった。
代わりに、倒れている巨体をじっと見つめる。
衣服らしい衣服はほとんどない。
食料も。
旅道具も。
まともな武器すら持っていない。
「……ハーピーも」
やがてセレナが呟いた。
「ゴブリンも、コボルトもそうだった」
監視員が顔を上げる。
「何が言いたい?」
「みんな、本来いるはずの場所から離れてる」
風が吹いた。
松明の炎が大きく傾く。
「何かを探して外へ出てきたんじゃなくて……」
セレナはそこで言葉を切った。
倒れているワータイガーの顔を見る。
「何かから逃げてるように見える」
「…………」
誰も答えなかった。
だが。
否定する者もいなかった。
(逃げている……か)
もし、そうだとしたら。
森。
洞窟。
山奥。
そこを住処にしている者たちが、人間の街道まで逃げてこなければならないほどの何かが。
彼らの故郷で起きていることになる。
(何からじゃ?)
そう考えた時。
胸元が、ほんの僅かに熱を持った。
「…………」
黒雷石。
わしと一緒にこの世界へやってきた、正体不明の黒い石。
それが。
微かに。
――トクン。
脈打った。
(またか)
わしは服の上から石へ触れる。
神ですら知らなかった。
わしの手から飛び出した電撃。
そして、この石。
何のためにあるのか。
誰がわしへ持たせたのか。
何一つ分かっていない。
ただ。
今。
石は確かに。
遠くに広がる森の方角へ反応していた。
◇
「今夜はここを動かない」
監視員がそう決めたのは、それから間もなくのことだった。
見張りを増やし。
松明を絶やさず。
交代で休む。
誰も反対しなかった。
セレナは弓を拾い上げると、傷がないか確かめてから背負い直した。
それから、わしの身体を固定している布にも触れる。
「……怖かった?」
「あぅ」
「そう」
セレナは少し笑った。
「強いのね」
(中身は百十歳じゃからな)
そう思ったが。
ふと。
気づいた。
わしの身体を確認しているセレナの手が、ほんの僅かに震えていた。
ワータイガーが怖かったのか。
それとも。
わしを背負ったまま戦ったことが怖かったのか。
分からない。
だから。
わしは何も言わず――どうせ喋れないが――小さな手でセレナの服を掴んだ。
「…………」
セレナがこちらを見る。
少しだけ、その目元が緩んだ。
「大丈夫」
ぽつりと。
彼女は言った。
「ちゃんと一緒に帰るから」
(……うむ)
それでいい。
わしは再び、暗闇の向こうへ目を向けた。
行程は残り二割。
あと少し進めば、今回の昇級試験も終わる。
そのはずだった。
なのに。
どうしてだろう。
わしには、何かが終わりに近づいているようには、どうしても思えなかった。
むしろ。
何かが始まりつつある。
そんな気がしてならない。
――トクン。
胸元で。
黒雷石がもう一度、脈打った。
松明の向こうには、何も見えない。
ただ。
深い闇だけが。
どこまでも広がっていた。




