↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/92

第27話 百十歳、闇の中で牙を見る

 旅は順調だった。


 予定していた行程も、すでに八割ほどを消化している。


 途中でハーピーに襲われるという出来事こそあったものの、被害はない。カラリンという予想外に頼もしい同行者にも恵まれ、このままなら大きな問題もなく依頼を終えられる。


 少なくとも。


 この時のわしは、そう思っていた。


     ◇


「……暗くないか?」


 荷馬車を操っていた男の一言で、わしは空を見上げた。


 確かに暗い。


 日没にはまだ早いはずなのに、周囲から急速に光が失われ始めていた。


 厚い雲でも出てきたのかと思ったが、どうも様子がおかしい。


 空全体が黒く染まっていく。


 遠くの山々はすでに輪郭を失い、街道の両脇に広がる森も、巨大な黒い塊のように見え始めていた。


「雨でも降るのか?」


「いや……」


 ギルドから同行している監視員が、険しい顔で空を見上げる。


 やがて彼は何かを決断したように手を上げた。


「止まれ! 今日はここで野営する!」


 商人たちが驚いたように振り返る。


「ここでですか? まだ進めるでしょう」


「この暗さだ。これ以上は危険すぎる」


 監視員の判断は早かった。


 わしも異論はない。


(見えない場所を無理に進むほど危険なことはないからのう)


 前世で警備会社を経営していた頃も、夜間警備では照明一つの有無が安全性を大きく左右した。


 ましてや、ここは魔物のいる世界だ。


 暗闇の中を荷馬車で進み、何かに襲われれば対応が遅れる。


 それなら、まだ多少の明るさが残っているうちに守りを固めた方がいい。


「分かりました。ここで野営します!」


 商人の一人が声を張ると、全員が慌ただしく動き始めた。


     ◇


 三台の荷馬車を寄せ、馬を繋ぐ。


 積み荷の中から野営道具を取り出し、火を起こすための薪を集める。


 そうしている間にも、辺りは刻一刻と暗くなっていった。


 まるで夜が駆け足でこちらへ迫ってきているようだった。


 やがて、セレナの手が止まった。


「…………」


 それまで荷物を運んでいた彼女が、不意に森の方へ顔を向ける。


(どうした?)


 わしも耳を澄ませた。


 聞こえるのは、荷物を動かす音。


 馬の鼻息。


 薪が爆ぜる音。


 それから、風に揺れる木々のざわめき。


 だが。


 セレナの耳には、それ以外の何かが届いているらしい。


 切り落とされた耳の痕に指を添えながら、じっと闇の向こうを見つめている。


「……カラリン」


「うん~」


 返事は、すぐに返ってきた。


 いつもの眠たげな声。


 けれどカラリンは、すでに身の丈ほどもある杖を両手で握っていた。


 二人の様子を見て、監視員も表情を引き締める。


「何かいるのか?」


「分からない」


 セレナは弓を手に取った。


「でも、鳴き声が聞こえた」


「どこからだ?」


「……一ヶ所じゃない」


 その一言で、空気が変わった。


 監視員は野営の準備を止めなかった。


 むしろ急がせた。


「松明を増やせ! 馬車から離れるな! 火の外へ出る時は必ず二人以上で動け!」


 指示が飛ぶ。


 誰も余計なことを喋らなくなった。


 一本、また一本と松明に火が灯されていく。


 しかし、明るくなったのはわずかな範囲だけだった。


 炎の外側には、濃密な闇がある。


 その境目を見つめていると、何かがこちらを見ているような気さえしてくる。


(……嫌な感じじゃ)


 セレナの背中にいるわしにも、張り詰めた空気が伝わってきた。


 馬たちも同じらしい。


 先ほどから落ち着きなく蹄を鳴らし、何度も暗闇へ顔を向けている。


 それなのに。


 何も見えない。


 何も来ない。


 ただ時間だけが過ぎていく。


 こういう時が、一番怖い。


 そして――。


 それは突然やってきた。


 ――ドンッ!!


 地面を叩きつけるような大音響が響いた。


「飛んで!!」


 間髪入れずに、セレナの声が夜を切り裂く。


 その場にいた全員が、反射的に地面を蹴った。


 セレナも大きく跳ぶ。


 背負われたわしの身体が、一瞬だけ宙へ浮いた。


 直後。


「こ~ろ~べ~」


 カラリンが杖の石突きを地面へ打ちつけた。


 何かが走った。


 目には見えない。


 だが、確かに地面の下を何かが駆け抜けていった。


 次の瞬間。


 ドドッ、と周囲からいくつもの鈍い音が響く。


 馬が激しくいなないた。


 それに混じって、獣とも人ともつかない呻き声が聞こえた。


(今のは……)


 襲撃者が転んだ。


 おそらく、馬も何頭か巻き込まれたのだろう。


「全員、松明の内側へ!」


 着地と同時に監視員が叫ぶ。


 暗闇の中で散開すれば、同士討ちの危険がある。


 商人も補助員も、すぐさま明かりの周囲へ集まった。


 セレナも弓を構えながら後退する。


 わしはその背中から必死に闇を睨んだ。


 見えない。


 だが。


 いる。


 気配だけは、確かにそこにある。


 セレナの指が弦を引いた。


「……そこ!」


 ヒュンッ――!


 風を切る音。


 矢が松明の光を抜け、闇の中へ消える。


 直後。


 ドサリ。


 重いものが倒れた。


(当てたのか!?)


 ほとんど何も見えなかったはずだ。


 セレナはすでに次の矢を番えている。


 だが。


 それを境に。


 物音が止んだ。


 襲撃者も、こちらの力量を測っているのだろう。


 完全な静寂。


 互いに、闇の向こうとこちら側から相手の出方を窺っている。


「カラリン」


「うん」


 今度の返事は、短かった。


 カラリンが目を閉じ、杖を胸の前へ立てる。


「ふ~る~え~ろ~」


 風もないのに、ローブの裾が揺れた。


 次の瞬間、空気が微かに震えた――ような気がした。


 波紋のような何かがカラリンを中心に広がり、暗闇の奥へ吸い込まれていく。


 数秒。


 カラリンが目を開けた。


「の~こ~り~さ~ん~た~い~」


「三体!?」


 監視員が驚く。


「どうやって――」


「わ~た~し~の~ま――」


 ヒュンッ!


 カラリンが言い終えるより早く、再びセレナの弓が鳴った。


 闇の中から。


 ドサッ。


 また一つ、何かが倒れる音がした。


「……これで二体ね」


「…………」


 カラリンが、ゆっくりセレナを見る。


「わ~た~し~の~せ~つ~め~い~」


「あとで聞くわ」


「そ~う~」


(息が合っとるんだか、合っとらんのだか)


 だが、少なくとも二人とも強い。


 わしが少しだけ緊張を緩めかけた、その時だった。


「ガアアアアアアアッ!!」


 咆哮。


 今までとは比べものにならない。


 腹の底まで震わせるような獣の声が、すぐ近くから響いた。


「セレナ!」


 監視員が叫ぶ。


 だが。


 もう遅い。


 闇の中から巨大な影が飛び出した。


「――っ!」


 松明の炎が、その姿を照らす。


 黄色と黒の縞模様。


 鋭い牙。


 太い腕。


 全身を覆う獣毛。


 そして、人間を遥かに上回る巨体を二本の脚で支えている。


(虎……?)


 わしがそう思った直後だった。


「ワータイガー!?」


 監視員の声が裏返った。


(ワータイガー……)


 後で知った話だが、ワータイガーは虎の特徴を色濃く残した獣人系の種族らしい。


 その多くは竹林や深い山奥に集落を築き、滅多なことでは人里へ下りてこない。


 ましてや、交易の盛んな街道付近で目撃されることなど、まずないという。


(またじゃ)


 ゴブリン。


 コボルト。


 ハーピー。


 そして今度はワータイガー。


 本来いるべき場所から離れた者たちが、次々と街道へ姿を現している。


 明らかに何かがおかしい。


 だが。


 今は、その理由を考えている暇などなかった。


「ガァッ!」


 一体のワータイガーが地面を蹴った。


 巨体からは想像もできない速度だった。


 一瞬でセレナとの距離を詰め、太い腕を振り上げる。


 近すぎる。


 矢を射る暇はない。


 セレナは弓を捨て――なかった。


「ふんっ!」


 握ったまま、その弓をワータイガーの横っ面へ思い切り叩きつけた。


 ゴッ!


 とても弓から鳴っていいとは思えない音がした。


「グァッ!?」


 巨大な虎の頭が横へ弾かれる。


(弓で殴るんかい!)


 思わず心の中で叫んだが、しっかり効いている。


 ワータイガーがよろめいた隙に、セレナは素早く距離を取った。


 しかし。


「ガアアアッ!!」


 もう一体。


 闇の反対側から飛び出したワータイガーが、カラリンへ襲いかかった。


「ひ~え~!!」


 カラリンが杖を横にする。


 振り下ろされた太い腕を、杖で受け止めた。


 ガンッ!


「う~そ~で~しょ~」


 小さな身体が沈む。


 足元の土が抉れた。


 杖が大きくしなり、今にも折れそうな音を立てる。


「カラリン!」


 セレナが走った。


 だが、弓へ矢を番えている暇はない。


 その手に残っていた一本の矢を逆手に握り、躊躇なくワータイガーの腕へ突き刺した。


「ガッ!?」


 矢尻が肉へ沈む。


 ワータイガーが腕を振り払い、セレナを睨みつけた。


 だが。


 次の瞬間。


「グ……ガ……?」


 巨体が震え始めた。


 脚から力が抜け、膝が地面へ落ちる。


 そのまま横倒しになり、数度痙攣したあと、ぴくりとも動かなくなった。


(…………)


 昨夜。


 セレナは言っていた。


『殺しはしない。しばらく動けなくなるだけ』


(どれだけ強力な毒なんじゃ……)


 これを素手で触らなくて本当によかった。


 しかし。


 戦いは終わっていない。


「ガァッ!」


 最初のワータイガーが体勢を立て直した。


 今度はカラリンへ向かおうとする。


 セレナの手が腰へ走った。


 鞭を引き抜く。


 ――パァンッ!


 乾いた破裂音が闇を裂いた。


「ギャウッ!」


 鞭の先端がワータイガーの肩を打ち抜き、巨体が大きく後退する。


 セレナはさらに一歩踏み込んだ。


 二撃目。


 三撃目。


 倒すためではない。


 カラリンから引き離すための攻撃だ。


「今!」


「う~ん」


 カラリンが杖を構える。


 その先端で、空気が歪んだ。


「は~な~て~」


 ――ドンッ!!


 見えない衝撃波が炸裂した。


「ガァッ!?」


 まともに受けたワータイガーの巨体が宙へ浮く。


 数メートルも吹き飛ばされ、地面を何度も転がった。


 土煙を上げて、ようやく止まる。


     ◇


 しばらく。


 誰も動かなかった。


 聞こえるのは、荒い呼吸。


 馬のいななき。


 そして。


 松明が燃える音だけ。


「……カラリン」


 セレナが呼ぶ。


「う~ん」


 カラリンは杖の先端を地面へつけた。


 目を閉じる。


 先ほどと同じように、何かを探るように意識を集中させた。


 数秒後。


「も~う~い~な~い~よ~」


 その言葉を聞いた瞬間。


 張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。


     ◇


 監視員が松明を手に、倒れた襲撃者たちを確認して回る。


 セレナも毒矢を突き刺したワータイガーのそばへしゃがみ込み、首筋へ指を当てた。


「生きてる」


「こっちもだ」


 監視員の表情には、安堵よりも困惑の方が色濃く浮かんでいた。


「しかし……どうしてワータイガーがこんな場所にいる」


 セレナは答えなかった。


 代わりに、倒れている巨体をじっと見つめる。


 衣服らしい衣服はほとんどない。


 食料も。


 旅道具も。


 まともな武器すら持っていない。


「……ハーピーも」


 やがてセレナが呟いた。


「ゴブリンも、コボルトもそうだった」


 監視員が顔を上げる。


「何が言いたい?」


「みんな、本来いるはずの場所から離れてる」


 風が吹いた。


 松明の炎が大きく傾く。


「何かを探して外へ出てきたんじゃなくて……」


 セレナはそこで言葉を切った。


 倒れているワータイガーの顔を見る。


「何かから逃げてるように見える」


「…………」


 誰も答えなかった。


 だが。


 否定する者もいなかった。


(逃げている……か)


 もし、そうだとしたら。


 森。


 洞窟。


 山奥。


 そこを住処にしている者たちが、人間の街道まで逃げてこなければならないほどの何かが。


 彼らの故郷で起きていることになる。


(何からじゃ?)


 そう考えた時。


 胸元が、ほんの僅かに熱を持った。


「…………」


 黒雷石。


 わしと一緒にこの世界へやってきた、正体不明の黒い石。


 それが。


 微かに。


 ――トクン。


 脈打った。


(またか)


 わしは服の上から石へ触れる。


 神ですら知らなかった。


 わしの手から飛び出した電撃。


 そして、この石。


 何のためにあるのか。


 誰がわしへ持たせたのか。


 何一つ分かっていない。


 ただ。


 今。


 石は確かに。


 遠くに広がる森の方角へ反応していた。


     ◇


「今夜はここを動かない」


 監視員がそう決めたのは、それから間もなくのことだった。


 見張りを増やし。


 松明を絶やさず。


 交代で休む。


 誰も反対しなかった。


 セレナは弓を拾い上げると、傷がないか確かめてから背負い直した。


 それから、わしの身体を固定している布にも触れる。


「……怖かった?」


「あぅ」


「そう」


 セレナは少し笑った。


「強いのね」


(中身は百十歳じゃからな)


 そう思ったが。


 ふと。


 気づいた。


 わしの身体を確認しているセレナの手が、ほんの僅かに震えていた。


 ワータイガーが怖かったのか。


 それとも。


 わしを背負ったまま戦ったことが怖かったのか。


 分からない。


 だから。


 わしは何も言わず――どうせ喋れないが――小さな手でセレナの服を掴んだ。


「…………」


 セレナがこちらを見る。


 少しだけ、その目元が緩んだ。


「大丈夫」


 ぽつりと。


 彼女は言った。


「ちゃんと一緒に帰るから」


(……うむ)


 それでいい。


 わしは再び、暗闇の向こうへ目を向けた。


 行程は残り二割。


 あと少し進めば、今回の昇級試験も終わる。


 そのはずだった。


 なのに。


 どうしてだろう。


 わしには、何かが終わりに近づいているようには、どうしても思えなかった。


 むしろ。


 何かが始まりつつある。


 そんな気がしてならない。


 ――トクン。


 胸元で。


 黒雷石がもう一度、脈打った。


 松明の向こうには、何も見えない。


 ただ。


 深い闇だけが。


 どこまでも広がっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。