第3話 百十歳、新しい名前をもらいます
腹が減った。
それはもう、猛烈に腹が減った。
「おぎゃあああああ!」
「分かったってば」
わしを拾った女が、見るからに面倒そうな顔でこちらを見下ろしている。
(分かったなら早く飯を寄越せ)
「あんた、元気ね」
(空腹に年齢は関係ないわ)
もっとも。
今のわしは、見た目だけなら生まれて間もない赤ん坊なのだが。
神崎源一郎。
前世、百十歳。
今世、生後何日か不明。
人生経験の差が酷い。
女はわしを抱いたまま、古びた建物の奥へ歩いていった。
どうやらここは、やはり孤児院らしい。
廊下は狭い。
床板は歩くたびに軋む。
壁には補修跡。
天井にも染み。
(ずいぶん年季が入っとるのう)
前世で清掃業をやっていた身としては、気になるところが山ほどある。
(まず床じゃな。ワックスどころか木が乾ききっとる。壁も湿気が酷い。あと窓枠の隙間風――)
「何その顔」
(職業病じゃ)
つい建物を点検してしまう。
百十年生きても、身についた癖というものは抜けないらしい。
女は小さな部屋へ入ると、木製の椅子に腰掛けた。
「さて」
何やら布や器を用意する。
(ようやく飯か)
わしは期待した。
そして差し出されたものを見て。
(…………)
固まった。
薄い粥のようなもの。
いや、当然だ。
赤ん坊なのだから。
分かっている。
理屈では分かる。
(前世最後の食事が病院食で、転生最初の食事もこれか)
少し悲しくなった。
「食べられるかな」
(食うしかないじゃろ)
口元へ運ばれる。
ぱくり。
「……」
(薄い)
だが。
(うまい)
空腹は最高の調味料というが、本当らしい。
夢中で食べる。
「すごい勢い」
「先生、その赤ちゃんいっぱい食べるね!」
声がした。
部屋の入口から、子供たちが覗いている。
(また来たか)
さっきもわしを囲んでいた連中だ。
その中から、三人が前へ出てきた。
一人目。
十歳くらいの少年。
短い茶髪。
少し痩せているが、目つきはしっかりしている。
「俺、ロイ」
(ほう)
「ここの一番年上」
女が即座に口を挟む。
「一番じゃない」
「今ここにいる中では一番!」
「はいはい」
どうやら世話焼きらしい。
二人目。
八歳くらいの少女。
赤茶色の髪を肩の辺りで切り揃えている。
「私はミナ!」
ずいっと顔を近づけてくる。
(近い)
「赤ちゃんって、こんなに小さいんだね!」
(お前もまだ十分小さいぞ)
そして三人目。
五歳くらいの女の子。
金色に近い薄茶色の髪。
さっきわしの頬を突いた犯人だ。
「リリ」
小さな声。
そのままわしの手を握る。
(またか)
「かわいい」
(百十歳じゃぞ)
「リリ、その子疲れてるから」
「うん」
そう言いながら手は離さない。
(離す気ないな)
悪い気はしない。
女がわしに粥を食べさせながら言った。
「みんな、あまり騒がない」
「はーい」
三人とも、まったく帰る様子はない。
(賑やかなところじゃ)
前世。
わしの家は静かだった。
大きな家。
広い部屋。
立派な家具。
だが。
笑い声は少なかった。
今いるこの場所は、その逆だ。
狭い。
古い。
寒い。
貧しい。
なのに。
やたらと人の声がする。
(……不思議なもんじゃな)
「先生」
ロイがわしを見ながら聞く。
「この子、どうするの?」
女の手が止まった。
「どうするって?」
「ここで育てるの?」
「…………」
少し沈黙。
女はわしを見る。
わしも女を見る。
(わしに聞かれても困るぞ)
「まだ決めてない」
「でも、親いないんでしょ?」
「たぶんね」
「じゃあここにいればいいじゃん」
ミナがあっさり言う。
「ねえ?」
そしてわしを見る。
(そんな簡単に決めていいのか)
「赤ちゃん一人くらい増えても同じでしょ」
「食費が増える」
「ちょっとだけじゃん」
「おむつもいる」
「私替える!」
「本当に?」
「……ロイが」
「なんで俺!?」
騒がしい。
女は眉間を押さえた。
(頭が痛そうじゃな)
その時。
リリがぽつりと言った。
「名前は?」
「ん?」
「この子の名前」
部屋が静かになった。
(…………)
そういえば。
名前。
わしにはまだ、この世界での名前がない。
前世では神崎源一郎。
百十年間。
ずっとその名前で生きた。
社員からは社長。
会長。
親しい者からは源さんと呼ばれたこともある。
それが今は。
ただの赤ん坊。
名無し。
「何か持ってなかったの?」
ロイが聞く。
「名前が分かるものとか」
「なかった」
女が答える。
「布と、これだけ」
そして。
あの黒いペンダントを取り出した。
(またそれか)
子供たちが覗き込む。
「真っ黒」
「きれいじゃないね」
「石?」
女は答えない。
ただ。
ほんの一瞬だけ。
また表情が固くなった。
(やはり何かある)
わしは確信した。
だが。
すぐにペンダントをしまう。
「名前は書いてない」
「じゃあつけようよ!」
ミナが目を輝かせる。
(勝手にか)
「そうだな」
ロイも頷く。
「ずっと赤ちゃんじゃ呼びにくいし」
(赤ちゃんでええじゃろ)
と思ったが。
少し違う。
名前がないというのは。
妙な感じだ。
前世の自分が終わったのだと。
今さらになって、実感させられる。
神崎源一郎は死んだ。
百十歳で。
もういない。
今のわしは。
この世界で。
新しく生きる。
(名前、か)
「じゃあ、私がつける!」
ミナが手を上げる。
「ポチ!」
(犬じゃ!)
「却下」
女が即答した。
「じゃあマル!」
(もっと犬じゃ!)
「却下」
「タマ!」
(猫になった!)
「却下」
ロイが呆れる。
「ミナには任せられない」
「じゃあロイが考えてよ」
「そうだな……」
わしを見る。
「バルド」
(急に強そうじゃな!?)
「却下」
女の反応が早い。
「先生、厳しい!」
「まともな名前を考えなさい」
(バルドは割とまともじゃないか?)
しばらく。
ああでもない。
こうでもない。
騒ぎが続いた。
その間。
女だけは黙っていた。
何か考えているように。
「先生は?」
リリが聞く。
「ん?」
「名前」
「私が?」
「うん」
女は少し困ったように目を細めた。
「私、そういうの苦手」
「でも先生が拾ったんじゃん」
ロイが言う。
「責任持ちなよ」
「誰に向かって言ってるの」
「先生」
妙に強い。
(この少年、なかなか肝が据わっとるな)
女はため息をつく。
そして。
わしを見る。
しばらく。
本当に長い間。
じっと。
何かを確かめるように。
わしの顔を見ていた。
(……何じゃ)
その視線。
少し気になる。
わしの顔そのものではない。
もっと奥を見ているような。
そんな目。
やがて。
女が口を開いた。
「……レオン」
(レオン?)
子供たちが反応する。
「かっこいい!」
「いいじゃん!」
「レオン」
リリがわしの手を握りながら繰り返す。
「レオン」
(…………)
不思議な響きだった。
自分の名前だとは、まだ思えない。
神崎源一郎。
その名前で百十年。
あまりにも長すぎた。
レオン。
生まれたばかりの名前。
「気に入らない?」
女がわしを見る。
(いや)
気に入るも何も。
赤ん坊に意見を聞くな。
そう思った。
だが。
「あぅ」
声が出た。
すると。
「気に入ったみたい!」
ミナが笑う。
「決まりだな」
ロイが頷く。
「レオン」
リリも笑う。
(…………)
わしは。
少しだけ。
妙な気分になった。
誰かに名前をつけてもらった。
ただそれだけ。
それなのに。
なぜか。
ここにいてもいいと言われたような。
そんな気がした。
前世では。
自分の居場所は。
自分で作った。
会社も。
家も。
地位も。
全部。
自分で。
だが。
今は違う。
何も持っていない。
何もできない。
それなのに。
誰かがわしに。
名前をくれた。
(……悪くないのう)
人生二周目。
名前は――レオン。
神崎源一郎ではない。
少し寂しい。
だが。
それ以上に。
新しい何かが始まった気がした。
◇
その夜。
子供たちが寝静まった頃。
わしは小さな籠の中で目を覚ました。
(……腹は満たされた)
よく眠れそうだ。
そう思ったのだが。
廊下の向こう。
微かに声が聞こえた。
女の声。
(ん?)
誰かと話している?
いや。
一人だ。
「……どうして」
小さな声。
聞き取れない。
わしは耳を澄ます。
「どうして……今になって……」
(何の話じゃ?)
床板が軋む。
少しして。
部屋の扉が開いた。
女が入ってくる。
手には。
黒いペンダント。
(あれを見とったのか)
月明かりの中。
女はペンダントを見つめていた。
その顔は。
森で魔物を仕留めていた時よりも。
ずっと険しい。
「……ありえない」
(…………)
女は小さく呟いた。
「これは、もう……」
言葉を切る。
そして。
何かに気づいたようにわしを見る。
目が合った。
「起きてたの」
「あぅ」
女は数秒。
何も言わなかった。
それから。
いつもの無表情に戻る。
「なんでもない」
(嘘じゃな)
わしは心の中で即答した。
だが。
今は追及できない。
喋れないのだから。
女はわしの籠の横へ来る。
黒いペンダントを。
そっとわしの近くへ戻す。
「これは……あなたのもの」
その声は。
少しだけ。
震えていた。
(何なんじゃ、これは)
女は立ち上がる。
部屋を出ようとして。
ふと止まった。
「レオン」
(ん?)
「その名前」
振り返らない。
「……嫌なら、大きくなったら自分で変えなさい」
(…………)
「名前くらい、自分で選んでもいい」
そう言って。
女は出ていった。
(変な女じゃ)
だが。
嫌いではない。
わしは目を閉じる。
レオン。
まだ慣れない。
だが。
(まあ)
第二の人生。
最初から前世と同じ名前でも。
面白くない。
(レオン、か)
悪くない。
そして。
眠りに落ちる直前。
わしはふと思った。
あの女。
子供たちからはずっと。
『先生』
と呼ばれていた。
(そういえば)
わしはまだ。
あの女の名前を知らない。
◇
わしがその名を知るのは。
翌朝のことになる。
そして。
その名前が。
この世界の一部の者にとって。
決して口にしたくない名前であることを。
わしはまだ。
知らなかった。




