第2話 百十歳、拾われます
「おぎゃああああああ!!」
静かな森に、わしの泣き声が響き渡った。
(寒い! 腹が減った! そして――)
「おぎゃあああ!」
(あの神! わしをどこに放り出しやがった!!)
神崎源一郎。
享年百十歳。
戦争で家族を失い、何もないところから会社を興し、清掃、警備、施設管理、スポーツ用品――色々な商売に手を出しながら一世紀以上を生き抜いた男。
そして現在。
名前なし。
職業なし。
所持金なし。
人脈なし。
ついでに服すら自前ではない。
何より――。
(身体が赤ん坊じゃ、どうにもならん!)
手を動かす。
ぷにぷに。
足を動かす。
ばたばた。
身体を起こそうとする。
「ふぎっ」
無理だった。
(……これは参ったのう)
前世では、それなりの修羅場を経験してきた。
終戦直後の焼け跡。
飢え。
会社の倒産危機。
取引先の夜逃げ。
従業員の事故。
銀行に頭を下げ続けた日々。
それでも俺はいつも、
『生きていれば何とかなる』
そう思ってきた。
実際、何とかしてきた。
だが――。
(赤ん坊というのは、これほど無力なんじゃな)
百十年分の経験があろうが関係ない。
腹が減れば自分で飯を食えない。
寒くても火を起こせない。
移動すらできない。
(会社を始めた時より酷いぞ)
あの頃だって、中古の軽トラックくらいはあった。
今の俺にあるものといえば――。
「おぎゃあ!」
(声くらいじゃ!)
仕方ない。
誰かが通りかかることを期待して泣くしかない。
情けない話だが、使えるものは何でも使う。
それが商売人というものだ。
「おぎゃああああ!」
声を張り上げる。
しかし。
返事はない。
(……そもそも、こんな森に人がおるのか?)
周囲を見る。
巨大な木々。
月明かりすら遮るほど生い茂った葉。
聞いたことのない虫の声。
遠くから、何かの遠吠え。
(…………)
嫌な予感がする。
ここは本当に人間の生活圏なのか?
その時。
――ガサッ。
(ん?)
茂みが動いた。
風ではない。
明らかに何かがいる。
――ガサガサッ。
(誰かおるのか?)
「あぅ!」
呼びかける。
返事はない。
代わりに。
「グルルルル……」
(…………)
低い唸り声。
(人じゃないな)
暗闇の中に二つの光が浮かぶ。
目だ。
そして、そいつはゆっくりと姿を現した。
(……何じゃ、こいつは)
狼。
そう言うのが一番近い。
だが、俺の知っている狼とはまるで違う。
体長は二メートル近い。
黒い体毛。
異様に発達した牙。
そして額から、一本の黒い角が伸びている。
(なるほど)
神が見せた異世界の光景を思い出す。
(魔物というやつか)
百十年生きても、これは初めて見る。
少し感動した。
できれば動物園の檻越しに出会いたかったが。
「グルル……」
魔物の視線が俺に固定される。
(完全に飯として見られとるな)
さて。
どうする。
逃げる。
――歩けない。
戦う。
――赤ん坊。
隠れる。
――既に見つかっている。
(……詰んどらんか?)
魔物が一歩近づく。
「おぎゃああああ!」
(誰かおらんか!!)
一歩。
「おぎゃあああああ!!」
(助けてくれ!!)
さらに一歩。
魔物が腰を落とす。
(まずい!)
飛びかかってくる。
巨大な口。
鋭い牙。
俺は反射的に右手を突き出した。
(来るな!!)
その瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
(――なんじゃ?)
熱が身体中を走った。
腕へ。
手へ。
そして――。
バチッ。
青白い光。
直後。
――ドンッ!!
「ギャウッ!?」
魔物が吹き飛んだ。
(…………)
巨体が宙を舞う。
木に激突。
――ズシンッ!
そのまま地面に落ちた。
動かない。
「…………あぅ?」
思わず間抜けな声が出た。
(……今の)
右手を見る。
どう見ても赤ん坊の手。
(わしか?)
握る。
開く。
もう一度握る。
(何をした?)
分からない。
だが一つだけ思い当たることがある。
『ならば君には、好きに生きられるだけの力を与えよう』
(…………)
あの神。
(説明してから寄越さんか!!)
しかし。
助かった。
生きている。
(まあいい。使い方はそのうち――)
「グルルル……」
(ん?)
右。
「ガルル……」
(……おい)
左。
「グルルルル……」
背後。
暗闇の中に。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
光る目が現れる。
(群れじゃったのか……)
先ほどの一匹だけではなかった。
(よし)
右手を突き出す。
(さっきのやつじゃ!)
…………。
(来い!)
…………。
(光れ!)
…………。
(何で出ん!?)
魔物たちが一斉に身を低くした。
(使い方が分からん!)
五匹。
赤ん坊一人。
(いくら何でも今度こそ――)
その瞬間。
――ヒュッ。
風を切る音。
「ギャッ!」
一匹の魔物が倒れた。
(……何じゃ?)
眉間に一本の矢が突き刺さっている。
次。
――ヒュッ。
二匹目。
目を射抜かれる。
――ヒュッ!
三匹目。
喉。
(弓……?)
恐ろしいほど正確だ。
残った二匹が混乱する。
そのうち一匹が、矢の飛んできた方向へ走った。
暗闇から人影が現れる。
女だ。
手には弓。
腰には矢筒。
魔物が飛びかかる。
女は弓を捨てた。
(何を――)
右手が腰へ伸びる。
何かを引き抜いた。
――パァンッ!!
乾いた音が森に響く。
(鞭!?)
長い鞭が魔物の前脚に絡みつく。
女が身体を回転させた。
「――ふっ!」
魔物の巨体が崩れる。
その瞬間。
女は地面に落とした弓を拾い上げた。
矢をつがえる。
ほとんど狙ってすらいない。
――ヒュッ!
至近距離。
矢が魔物の眼球を貫いた。
(……強い)
最後の一匹。
勝てないと判断したらしい。
背を向けて逃げる。
女は追わない。
ただ静かに矢をつがえた。
距離はかなりある。
(届くのか?)
弦を引く。
放つ。
――ヒュンッ!
闇の中へ矢が消える。
一瞬遅れて。
「ギャンッ!」
遠くで声がした。
(…………)
俺は呆然としていた。
(とんでもない腕じゃな)
前世でもアーチェリーや弓道を見る機会はあった。
スポーツ用品を扱っていた関係で、競技者とも何人も会った。
だが。
これは競技とは違う。
生き物を仕留めるための技術。
無駄がない。
迷いもない。
そして何より。
(あの鞭……)
弓だけの人間ではないらしい。
女が周囲を確認する。
倒れている魔物へ近づく。
一匹ずつ生死を確認。
ようやく弓を下ろした。
(慎重じゃな)
警備会社を長年経営したから分かる。
危険が終わったと思った瞬間が、一番危ない。
この女はそれを知っている。
場数を踏んでいる。
女がこちらを見る。
「…………」
目が合った。
(お)
こちらへ歩いてくる。
月明かりが女の顔を照らした。
年齢は分からない。
三十前後にも見える。
もう少し上にも見える。
腰まで伸びた銀色の髪。
切れ長の緑色の瞳。
日に焼けた肌。
整った顔立ちをした女だった。
だが。
(…………耳?)
妙な違和感がある。
両耳。
上の部分が――ない。
左右とも、ほぼ同じ位置で切れている。
古い傷跡。
(事故……ではなさそうじゃな)
何か事情がある。
そう思った。
だが。
百十年も生きれば分かる。
人間には、触れられたくない傷というものがある。
(詮索することでもない)
女が俺の前にしゃがむ。
「……赤ちゃん?」
(そう見えるじゃろ)
周囲を見る。
「どうして、こんな場所に……」
(わしが聞きたい)
俺を包んでいる布を確認する。
「親は?」
(知らん)
「…………」
返事などできるはずもない。
女は俺を見つめた。
そして。
ほんの少し、眉をひそめる。
「…………面倒」
(おい)
立ち上がった。
(待て)
「見なかったことに――」
「あぅ!」
女が止まる。
「…………」
「おぎゃああああ!」
(帰るな!!)
「…………」
「おぎゃあああああ!!」
(わしはまだ歩けんのじゃ!!)
女が眉間を押さえた。
「……うるさい」
(生存が懸かっとる!)
「おぎゃあああ!」
「分かった。分かったから」
女がしゃがみ込み、俺を抱き上げた。
(よし!)
百十年間培った交渉術。
(まだまだ捨てたものではないな)
ただ泣いただけだが。
「冷たい……」
女の顔から、先ほどまでの面倒そうな色が消える。
俺の手を握った。
「こんなになるまで……」
自分の外套を外し、俺を包む。
(……温かい)
身体から力が抜ける。
「まったく」
女が吐き捨てる。
「捨てるくらいなら、最初から産むな」
低い声。
怒っている。
俺ではなく。
俺をここへ置いていった誰かに。
(変な女じゃな)
面倒だと言ったくせに。
抱き方は妙に優しい。
「ん?」
女が何かに気づいた。
布の中へ手を入れる。
取り出したのは。
黒い石のついた小さなペンダントだった。
(そんな物があったのか?)
銀色の鎖。
何の模様もない黒い石。
女がそれを見た瞬間。
「…………」
一瞬だけ。
呼吸が止まった。
(ん?)
目を細める。
黒い石をじっと見る。
「……これは」
だが。
それ以上は言わなかった。
表情を消す。
「……趣味の悪い石」
(嘘じゃな)
俺は心の中で即答した。
百十年。
色々な人間を見てきた。
嘘をつく者。
隠し事をする者。
平然を装う者。
この女もその類いだ。
(こいつは、この石について何か知っとる)
ただ。
何を知っているのかまでは分からない。
女はペンダントを元の布へ戻した。
「まあいい」
俺を抱き直す。
「ここに置いていくわけにもいかないし」
(ありがたい)
「連れて帰る」
帰る。
その言葉に。
胸の奥が少しだけざわついた。
(帰る……か)
前世では、家はあった。
晩年には、一人で住むには広すぎるほどの家があった。
だが。
待っている者はいなかった。
仕事を終えて帰っても。
『おかえり』
そう言ってくれる人間はいない。
家族を失ってから。
ずっと。
「……ふぁ」
欠伸が出る。
「眠い?」
(子供扱いするな)
そう思ったが。
「あぅ……」
眠気には勝てない。
「寝てなさい」
女の腕は温かかった。
(……悪くない)
目を閉じる。
森を歩く揺れ。
体温。
微かに聞こえる心臓の音。
なぜか。
安心する。
(そういえば……)
母親に抱かれたのは。
何年前だ?
いや。
何十年前どころではない。
百年以上前だ。
顔も。
声も。
ほとんど思い出せない。
(……母さん)
不意に。
そんな言葉が浮かんだ。
(馬鹿馬鹿しい)
この女は他人だ。
俺は百十年生きた爺。
今さら母親も何もない。
そう思いながら。
俺は眠りに落ちた。
◇
扉の開く音で目を覚ました。
「ただいま」
「おかえりー!」
「おかえりなさい!」
「遅かったね!」
子供たちの声。
(……ん?)
古い木造の建物。
何度も修理した跡のある壁。
少し歪んだ床。
豪華さとは無縁だ。
だが。
暖炉には火。
壁には子供の描いた絵。
棚には木製の玩具。
人数分と思われる食器。
(ここは……)
「先生、それ何?」
一人の少年が俺を指差した。
「それ扱いするな」
女が答えた。
(もっと言ってやれ)
「赤ちゃん?」
「森にいた」
「ええっ!?」
子供たちが集まってくる。
(おいおい)
「ちっちゃい!」
(近い)
「かわいい!」
(やめんか)
「男の子?」
ぷに。
(こら)
頬を突かれた。
「柔らかい!」
(赤ん坊だからな!)
今度は小さな少女が手を握ってくる。
「あぅ」
「しゃべった!」
(喋っとらん)
「みんな離れて」
女がため息をつく。
「この子は疲れてる」
「はーい!」
子供たちが離れていく。
俺は改めて周囲を見た。
十人ほど。
年齢はバラバラ。
服も上等ではない。
だが。
よく笑っている。
(孤児院……じゃろうな)
そんな場所で。
俺を拾った女は子供たちから、
『先生』
と呼ばれている。
弓と鞭を使い。
森で魔物を平然と仕留め。
両耳に不自然な傷を持ち。
黒いペンダントを見た瞬間だけ。
明らかに表情を変えた女。
(…………)
何者なんじゃ。
この女。
そして。
なぜ俺は。
こんな場所に捨てられていた。
いや。
本当に。
捨てられていたのか?
「さて」
女が俺を見下ろした。
「問題は、この子をどうするかね」
(ん?)
腕を組む。
「名前も分からない」
(確かに)
「親も分からない」
(わしも知らん)
「帰す場所も分からない」
(…………)
帰す場所。
その言葉が。
妙に引っかかった。
前世で。
俺には帰る家はあった。
だが。
帰りたいと思う場所があったかと聞かれれば。
分からない。
女が小さく息を吐く。
「まあ」
そして。
俺の額を指先で軽く撫でた。
「今夜くらいは、ここにいればいい」
(…………そうか)
たったそれだけの言葉だった。
なのに。
少しだけ。
胸の奥が温かくなった。
◇
百十歳で大往生した俺の第二の人生。
転生初日。
魔物に食われかけ。
訳の分からない力で一匹を吹き飛ばし。
耳に奇妙な傷を持つ女に拾われ。
知らない子供たちのいる古びた家へやってきた。
思っていた第二の人生とは。
だいぶ違う。
だが。
(まあ、いいか)
前世と同じことをしても仕方がない。
俺はもう一度生きると決めた。
今度は。
やりたいことを後回しにしない。
他人の顔色を窺って生きない。
仕事ばかりもしない。
そして――。
太く短く生きる。
(さて)
第二の人生。
記念すべき最初の夜。
まず俺がすべきことは――。
「おぎゃああああ!」
「今度は何!?」
(飯じゃ!)
何より先に。
腹を満たすことだった。




