第1話 百十歳、人生二周目を始めます
百十年。
我ながら、ずいぶん長く生きたものだと思う。
病院の白い天井を眺めながら、俺――神崎源一郎は小さく息を吐いた。
「会長。本当に……ありがとうございました」
ベッドの横で、六十をとうに越えた男が泣いている。
俺が昔、まだ社員が十人もいなかった頃に拾った男だ。
「馬鹿者。百十歳の爺が死ぬくらいで泣くな」
「でも……」
「百十じゃぞ? 十分じゃ。むしろ長すぎたわ」
そう言って笑ったつもりだったが、声はほとんど出なかった。
身体というものは正直だ。
頭の中ではまだまだ若いつもりでも、手は枯れ木のように細くなり、息をするだけでも胸が重い。
それでも、不思議と怖くはなかった。
やり残したことがない――と言えば嘘になる。
だが。
腹いっぱい生きた。
そう思える人生ではあった。
俺が生まれた時代は、今とはまるで違う。
子供の頃に戦争があった。
そして――家族を失った。
父も。
母も。
兄弟も。
全部だ。
気が付いた時には、一人だった。
終戦後の焼け跡で、今日の飯をどうするかだけを考えて生きた。
仕事なんぞ選んでいる余裕はなかった。
ゴミを拾った。
床を磨いた。
荷物を運んだ。
夜の建物を見張ったこともある。
殴られたこともある。
騙されたこともある。
給料を持ち逃げされたこともあった。
それでも死ななかった。
死ねなかった、と言った方が正しいかもしれない。
そのうち、人に使われるだけでは食っていけんと思い、小さな清掃業を始めた。
最初の社員は俺を含めて三人。
事務所なんぞない。
中古の軽トラック一台が、俺たちの会社だった。
そこから警備業を始めた。
施設管理もやった。
地域の子供たちが運動できる場所を作りたくなり、スポーツ用品店まで始めた。
気が付けば、会社はずいぶん大きくなっていた。
俺の名前を知る人間も増えた。
金もできた。
社員も増えた。
それなりに偉い人間とも会った。
表彰なんぞもされた。
だが――。
結婚はしなかった。
若い頃は暇がなかった。
三十代になれば、
『会社が落ち着いてからでいい』
そう思った。
四十代になれば、
『社員を食わせるのが先だ』
そう思った。
五十を過ぎた頃には、今さら家庭を持つのも面倒になっていた。
そして六十、七十、八十。
あっという間だった。
仕事場にはいつも人がいた。
しかし家に帰れば、誰もいない。
それを寂しいと思わなくなった頃には、俺はもう立派な爺さんになっていた。
「会長」
男が俺の手を握った。
「俺たちにとって、会長は家族みたいな人でした」
「……そうか」
家族。
久しく考えていなかった言葉だ。
「だったら、最後くらい笑っとれ」
「無茶言わないでくださいよ……」
「経営者の命令じゃ」
「もう引退して二十年以上経ってますよ」
「なら、元経営者のお願いじゃ」
男が泣きながら笑った。
それでいい。
俺は目を閉じる。
戦争。
焼け跡。
初めて自分で稼いだ十円。
初めて買った軽トラック。
初めて雇った社員。
倒産しかけた夜。
会社が黒字になった日。
社員たちと飲んだ酒。
子供たちがスポーツ店でボールを抱えて笑っていた光景。
色々あった。
良いことばかりではなかった。
だが。
「……悪くない人生じゃったな」
それが、神崎源一郎という男の最後の言葉になった。
◇
「――そうか?」
「ん?」
声が聞こえた。
おかしい。
俺は死んだはずだ。
「本当に、それで満足だったのか?」
「……誰じゃ?」
目を開ける。
病室ではなかった。
何もない。
白い。
右も左も、上も下も分からないほど真っ白な空間。
そして俺の前に、一人の男が立っていた。
白い服。
白い髪。
年齢は分からん。
二十にも見えるし、百にも見える。
「神崎源一郎。百十年間、ご苦労だった」
「……ああ?」
俺は眉をひそめる。
「死後の世界か?」
「まあ、似たようなものだ」
「地獄じゃないなら何でもええわ」
「随分と落ち着いているな」
「百十まで生きて死んでおいて、今さら驚いてどうする」
男が笑った。
「面白い人間だ」
「で?」
「ん?」
「わしをここに呼んだ理由じゃ。閻魔大王の面接でも始まるのか?」
「違う」
男は少しだけ楽しそうに目を細めた。
「君にはもう一度、人生を送る権利が与えられた」
「断る」
「…………」
「…………」
「もう一度言おう」
「聞こえとる」
「別の世界で、新しい人生を――」
「断る」
「即答だな」
「当たり前じゃろうが」
俺は腕を組んだ。
……と思ったら、若い頃の身体に戻っている。
死後というのは便利なものらしい。
「百十年じゃぞ」
「知っている」
「もう十分じゃ。学校も仕事も人付き合いも一周やった。二周目までやってられるか」
男が声を上げて笑った。
「転生を断る人間は珍しい」
「なら他の奴にやれ」
「だが、次も同じ人生とは限らない」
「何?」
「君が行くのは、この世界とはまったく違う場所だ」
男が指を鳴らした。
目の前に景色が浮かぶ。
巨大な城。
空を飛ぶ竜。
杖を振り、炎を放つ人間。
剣を持つ騎士。
耳の長い女。
どう見ても人間ではない獣のような者までいる。
「……映画か?」
「異世界だ」
「異世界?」
「魔法が存在する世界、と言えば分かりやすいか」
俺は映像をじっと見る。
「魔法……」
「興味が湧いたか?」
「少しな」
正直に答える。
百十年生きても、魔法だけは見たことがない。
「新しい人生では、何をしても構わない」
「会社を作らんでもいい?」
「もちろん」
「仕事もしなくていい?」
「食べていけるならな」
「人の尻拭いもしなくていい?」
「好きにすればいい」
……なるほど。
「一つ聞く」
「何だ?」
俺は少し考えてから言った。
「次も百十年生きにゃならんのか?」
「いや?」
その言葉を聞いた瞬間。
少しだけ心が動いた。
「そうか……」
俺は遠くを見る。
前の人生は長かった。
悪くなかった。
むしろ幸せだったと思う。
だが、一つだけ心残りがあるとすれば。
俺はいつも、
あとでやればいい。
そう思って生きてきた。
会社が落ち着いたら。
金ができたら。
時間ができたら。
老後になったら。
そして気付けば百十歳。
人生というのは、思ったより長い。
だが同時に。
思っているより、ずっと短い。
「……分かった」
「行く気になったか?」
「ああ」
男が笑う。
「では、次の人生に何を望む?」
「望み?」
「力でも、金でも、才能でもいい」
「そうじゃな……」
俺は考える。
金はいらん。
一度十分稼いだ。
地位もいらん。
頭を下げられる生活には飽きた。
長寿もいらん。
百十年で十分だ。
ならば――。
「好き勝手に生きたい」
「ほう」
「前の人生は長すぎた」
俺は笑った。
「次は――太く短く生きる」
男が目を細める。
「それが願いか?」
「ああ」
「後悔しないか?」
「百十年生きた爺に聞く質問じゃないな」
「なるほど」
男が手を上げる。
「ならば君には、好きに生きられるだけの力を与えよう」
「いや、待て。別にそこまでは――」
「転生を開始する」
「人の話を聞け!」
足元が光った。
「おい!」
「では、良い第二の人生を」
「ちょっ――!」
世界が白く染まった。
◇
寒い。
最初に感じたのは、それだった。
(……寒っ)
目を開ける。
暗い。
木々が見える。
夜らしい。
(外か?)
身体を起こそうとする。
動かない。
(ん?)
もう一度。
動かない。
というより――。
(……手、小さくないか?)
目の前にある手。
ぷにぷにしている。
指も短い。
嫌な予感がした。
「あぅ」
(…………)
声がおかしい。
「あー」
(…………)
俺は確信した。
(赤ん坊じゃねえか!!)
「おぎゃあああああ!!」
百十年生きて大往生した男。
神崎源一郎。
人生二周目。
開始早々――。
森の中に捨てられていた。
(あの神! 説明不足にも程があるじゃろが!!)
「おぎゃああああああ!!」
俺の怒鳴り声は。
残念ながら。
どこからどう聞いても、元気な赤ん坊の泣き声にしか聞こえなかった。




