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第25話 百十歳、先生の決意を見届けます

 夕食を終えたあと、セレナは珍しく食卓を離れようとしなかった。


 食器を片づけていたロイがそれに気づき、手を止める。ミナも何となく空気を察したのか、椅子の上で姿勢を正した。


「みんなに、少し話があるの」


 その一言で、食堂にいた子供たちの視線が一斉に集まった。


 わしも籠の中から顔を上げる。


 昼間、冒険者ギルドで提示された昇級試験。


 往復四日間の商隊護衛。


 成功すれば、受けられる依頼の幅も広がり、報酬も大きく上がる。


 今の孤児院にとっては、決して小さくない話だ。


 だが。


 セレナにとって一番の問題は、金でも危険でもなかった。


「次の仕事を受けると、四日間ここを留守にすることになるの」


 言い終えたあと、セレナは子供たちの顔を順番に見た。


 ロイ。


 ミナ。


 リリ。


 それから、少し離れた場所に立つライカ。


「だから……みんなに聞いておきたいの」


 ほんの少しだけ言葉を選ぶような間があった。


「私が四日間いなくても、大丈夫?」


 一瞬、食堂が静かになった。


 セレナの表情に、かすかな不安が浮かぶ。


 やはり。


 この女にとって、孤児院を離れるということは、思っている以上に大きな意味を持つらしい。


 だが。


「その仕事って」


 ロイが最初に口を開いた。


「ギルドで言ってた昇級試験?」


「……そうよ」


「じゃあ、受けた方がいいじゃん」


 あまりにもあっさりした返答に、今度はセレナが目を丸くした。


「え?」


「だって、成功したらもっと良い依頼を受けられるんだろ?」


「まあ……そうだけど」


「報酬も上がるんでしょ?」


 横からミナが食いついた。


「それは上がるわね」


「じゃあ絶対行った方がいいよ!」


 今度は本当に、セレナが言葉を失った。


 自分が離れることを嫌がる。


 そう思っていたのだろう。


 だが、子供たちの反応は正反対だった。


「でも、四日よ?」


「四日でしょ?」


 ロイが肩をすくめる。


「俺たちだって、もう前みたいに何もできないわけじゃないよ」


 その言葉に。


 セレナの視線が少し揺れた。


(そこじゃろうな)


 以前の孤児院は、セレナ一人に頼り切っていた。


 食事。


 掃除。


 洗濯。


 買い出し。


 薪。


 何か一つ止まれば、全部が止まる。


 だが今は違う。


 ロイたちは掃除も分担するようになった。


 《森守り》の製作も、自分たちで回せるようになっている。


 そして。


「今はライカもいるし」


 ロイがそう言って、横に立つホムンクルスへ視線を向けた。


 ライカは何も言わず、静かにこちらを見ている。


「ライカが?」


 セレナが首を傾げる。


 ロイの口元が少しだけ上がった。


「先生、たぶん驚くよ」


「何が?」


「ライカ」


 ロイが片手を上げた。


「見せて」


「リョウカイ」


 ライカが一歩前へ出た。


 そして。


 両腕をゆっくりと前へ伸ばす。


 次の瞬間だった。


「……え?」


 セレナが間の抜けた声を漏らした。


 わしも同じだった。


 ライカの両腕が、まるで骨など最初から存在しなかったかのように柔らかく歪んだのだ。


 白い腕がうねり。


 細く伸び。


 やがて二本の触手のように空中をしなやかに動き始める。


(なんじゃ、それ)


 驚く間もなく。


 今度は右腕が膨らんだ。


 指の形が消え。


 手首から先が大きく肥大し。


 数秒後には、巨大なハンマーのような形へ変わっている。


「まだあるよ」


 ロイが得意げに言った。


「ライカ、次」


「ハイ」


 左腕が今度は細く伸びていく。


 先端が次第に鋭くなり。


 光を反射するほど滑らかな刃へ変わった。


(ナイフまでいけるんか)


 わしは思わず身を乗り出した。


 マルタは、たしか「簡単な家事や雑用ができる」と言っていた。


(話が違うじゃろ)


 セレナも完全に固まっている。


「……いつから、こんなことできるようになったの?」


「三日くらい前かな」


 ロイは悪びれず答えた。


「俺たちと色々やってたら、自分で覚えたみたい」


「自分で?」


「うん。最初は洗濯物を取る時に腕を伸ばしたんだよ」


「それでね!」


 ミナが嬉しそうに割って入る。


「高い棚の物も取れるし、薪も一気に持てるの!」


「ハンマーとナイフは?」


 セレナが若干引きながら聞く。


「薪割りしてたら覚えた」


(物騒な学習の仕方じゃな)


 ライカ自身は何も気にしていない様子だった。


 変形していた腕を元へ戻し。


 いつもの人間らしい姿へ戻る。


 そして。


 スカートの裾をつまむような仕草をして、セレナへ向かって深々と頭を下げた。


「ココハ、ワタシニオマカセヲ」


 声は相変わらず少し平坦だった。


 それでも。


 前よりずっと自然に聞こえた。


 セレナは、しばらく何も言えずにライカを見ていた。


 やがて。


 ロイへ。


 ミナへ。


 リリへ。


 そして、他の子供たちへ視線を移す。


 自分がいなければ何もできない。


 ずっと。


 そう思っていた場所。


 だが。


 目の前にいる子供たちは。


 いつの間にか。


 彼女が思っている以上に逞しくなっていた。


「先生」


 ロイが言う。


「俺たちだって、ずっと守られてるだけじゃないよ」


「……まだ子供でしょ」


「そうだけど」


 ロイは笑った。


「だからって、何もできないわけじゃない」


 その言葉に。


 セレナは、ほんの少しだけ俯いた。


 そして。


 静かに息を吐く。


「……そうね」


 顔を上げた時。


 そこにはもう。


 迷いはほとんど残っていなかった。


「分かった」


 一度。


 みんなを見る。


「行ってくる」


「やった!」


「絶対受かってきてね!」


「おみやげ!」


「ミナ、お前そればっかりだな」


 食堂に笑い声が広がる。


 その中心で。


 セレナも。


 少しだけ笑っていた。


(ようやく任せられるようになったか)


 わしは、その顔を見ながら思った。


 守ること。


 全部を抱えること。


 その二つは。


 同じではない。


     ◇


 夜。


 子供たちが寝静まったあとも。


 セレナの部屋には灯りが残っていた。


(まだ起きとるのか)


 籠の中から様子を窺う。


 机の上には。


 普段見ない道具が並んでいた。


 乳鉢。


 乾燥した薬草。


 何種類かの粉末。


 小さな硝子瓶。


 細い匙。


 セレナは黙ったまま、薬草を乳鉢へ入れ。


 ゆっくりとすり潰している。


 分量を測っている様子はない。


 本を見ているわけでもない。


 全て。


 記憶だけで手を動かしている。


(調合か)


 そう気づくまでに。


 それほど時間は掛からなかった。


 エルフの里で身につけた知識。


 追放されてから。


 ずっと。


 使わずにいたもの。


 セレナはそこへ別の粉を加え。


 さらに透明な液体を数滴垂らした。


 乳鉢の中が。


 ゆっくりと紫色へ変わっていく。


「……まだ覚えてるものね」


 ぽつりと。


 セレナが呟いた。


 その声には。


 懐かしさよりも。


 僅かな苦さが混じっていた。


(捨てたつもりだったんじゃろうな)


 里。


 掟。


 弓。


 薬草。


 調合。


 全部。


 彼女がエルフだった頃に身につけたもの。


 追放されたあと。


 見たくもなかった記憶なのかもしれない。


 だが今は。


 その知識を。


 自分から使っている。


「……これなら」


 セレナが完成した液体を見つめる。


「殺しはしない」


(ん?)


「しばらく動けなくなるだけ」


(しびれ毒か)


 どうやら。


 今度の仕事。


 随分と警戒しているらしい。


 セレナは布に薬液を含ませ。


 一本ずつ。


 矢尻へ丁寧に塗っていく。


 ここ一週間。


 わしが一緒にいる時は。


 ほとんど使わなかった弓。


 それを。


 今回は持っていく。


(今度ばかりは、血を見せたくないなどと言ってられんか)


 四日間。


 遠方。


 そして。


 最近、増えている魔物。


 セレナの勘も。


 何かを感じているのだろう。


     ◇


 最後の矢を仕上げた時。


 ふと。


 セレナと目が合った。


「…………」


(…………)


「起きてたの?」


「あぅ」


「相変わらず夜更かしね」


(中身は百十歳なんじゃが)


 セレナは調合道具を片づけると。


 わしの籠のそばへやってきた。


 しゃがむ。


 そして。


 しばらく。


 何かを考えるように、わしを見つめた。


「……今回は」


(ん?)


「さすがに、お留守番かな」


「…………」


(何じゃと?)


 わしはすぐに身体を起こそうとした。


 当然。


 赤ん坊の身体では上手くいかない。


 それでも。


 腕を伸ばす。


「あぅ!」


「何?」


「あぅ、あぅ!」


 セレナを指差し。


 次に自分。


 そして。


 扉の向こう。


「……一緒に行きたいの?」


「あぅ!」


 即答。


「四日もよ?」


「あぅ!」


「危ないかもしれない」


「あぅ!」


 わしは。


 さらに両手をセレナへ伸ばした。


(そりゃないぜ、相棒)


 そんな気持ちを。


 目一杯。


 込める。


 もちろん。


 言葉にはならない。


 だが。


 何かは。


 伝わったらしい。


 セレナの目が少し丸くなった。


 そして。


 ふっと。


 優しく笑った。


「……そうよね」


 伸ばしたわしの手を。


 そっと握る。


「今さら、一人で置いていかれるのも嫌よね」


(そういうことじゃ)


 たぶん。


「マルタにも目を離すなって言われてるし……」


 少し考える。


「もし本当に危険になったら、馬車の中に匿ってもらえばいいか」


(うむ)


「商人に頼んで、この子だけでも――」


 そこで。


 言葉が止まった。


 セレナの指が。


 わしの手を握ったまま。


 少しだけ強くなる。


「…………」


(どうした)


「違う」


 小さな声。


 まるで。


 誰かに。


 ではなく。


 自分に言い聞かせるようだった。


「この子だけでも、じゃない」


 セレナは顔を上げる。


 月明かり。


 銀色の髪。


 切り落とされた耳。


 そして。


 その瞳には。


 はっきりとした意志があった。


「私も帰る」


 わしを見る。


「四日後」


 一拍。


「レオンを連れて、ちゃんとここへ帰ってくる」


(…………)


 それは。


 当たり前のこと。


 なのかもしれない。


 依頼を受け。


 仕事を終え。


 家へ帰る。


 ただ。


 それだけ。


 だが。


 セレナにとって。


 帰る場所がある。


 そう言えること自体。


 きっと。


 昔とは違う。


「だって」


 彼女は。


 少し照れたように笑った。


「帰る場所があるんだもの」


 胸の奥。


 何か。


 静かに動いた。


 前世。


 わしは家族を失った。


 それから。


 一人で生きた。


 会社を作った。


 金を稼いだ。


 大きな家にも住んだ。


 人はたくさんいた。


 それでも。


 帰る場所という言葉を。


 これほど温かく感じたことは。


 あっただろうか。


(……そうじゃな)


 わしは。


 セレナの指を。


 小さな手で握り返した。


(帰ってこよう)


 ここへ。


 子供たちのいる。


 騒がしくて。


 古くて。


 金もなくて。


 それでも。


 妙に落ち着く。


 この孤児院へ。


     ◇


 セレナは立ち上がり。


 机の上に並んだ矢を見た。


 追放されてから。


 長く封じてきた知識。


 それを。


 今夜。


 自分の意思で使った。


 過去に戻るためではない。


 失ったものを取り戻すためでもない。


 今。


 手に入れたものを。


 守るために。


 わしは。


 その横顔を見ながら。


 ふと思った。


 セレナが。


 本当に過去から逃げるのをやめたのは。


 もしかすると。


 今日なのかもしれない。

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