第21話 百十歳、先生の昔話を聞きます
――トクン。
黒雷石が、また小さく脈打った。
淡い銀色の光が石の表面を走り、すぐに消える。
誰も口を開かなかった。
静まり返った食堂には、窓の外で風に揺れる木々の音だけが聞こえている。
セレナはわしを抱いたまま、胸元に下がる黒雷石を見つめていた。その向かいでは、マルタが険しい顔で腕を組んでいる。
「……封印が弱くなってる、かもしれないのよね」
「あくまで可能性だよ」
「中に何が封じられているのかは?」
「分からない」
「止める方法は?」
「それも分からないね」
「……何なら分かるのよ」
セレナが疲れたように息を吐く。
「だから、それを調べてるんだろう」
マルタも負けじと言い返した。
(まあ、今ここで言い争っても仕方ないわな)
わしは胸元へ目を落とす。
黒雷石は、すでに光を失っていた。
銀色の線こそ残っているものの、今はただの黒い石にしか見えない。
《ダイヤング》を使えば、寿命一年と引き換えに肉体を全盛期へ戻せる。
《孤王》ならば、一人で戦っている時に限り、超人的な身体能力を得られる。
だが、どちらも今の状況では役に立ちそうにない。
ましてや、この身体から突然飛び出す雷については、あの神様ですら「なにそれ?」だった。
(結局、情報不足じゃな)
百十年生きた経験があっても、知らないものはどうにもならない。
ならば今できるのは、一つでも多く知ることだけだ。
そう考えていた時だった。
「……私から話す」
不意に、セレナが言った。
マルタが顔を上げる。
「いいのかい?」
「ここまで来たら、隠しても仕方ないでしょ」
いつもの淡々とした口調だった。
けれど、わしを抱いている腕がほんの少しだけ強くなったのを感じた。
「それに、この子まで関係してるなら……なおさらね」
(わしに話しても分からんと思っとるんじゃろうが)
全部分かる。
そこだけは、少し申し訳ない。
◇
「もう、ずっと昔の話よ」
セレナは窓の外を眺めながら、静かに語り始めた。
ロイたちには席を外してもらっている。
ここにいるのは、セレナとマルタ。そして、わしだけだった。
「私がまだ、里で暮らしていた頃……今よりずっと馬鹿だった」
「今も大して変わらないだろう」
「帰っていいわよ」
「冗談だよ」
マルタは悪びれもせず肩をすくめる。
(仲がいいのか悪いのか、相変わらず分からん二人じゃな)
セレナはマルタを一度睨んでから、再び話し始めた。
「私がいた里には、いくつもの掟があった。森を無闇に傷つけないこと。精霊の眠りを妨げないこと。人間に里の場所を教えないこと……どれも子供の頃から何度も聞かされていた」
そこで一度、言葉を切る。
「その中に一つだけ、理由すら教えてもらえない掟があったの」
「理由すら?」
「ええ。里の東にある森。その奥には絶対に入ってはいけない。ただ、それだけ」
マルタが目を細めた。
「何があるのかは?」
「誰も教えてくれなかった。聞いても、『知らなくていい』って」
(……あまり良い決まり方ではないのう)
前世でも似たようなものはあった。
理由を説明せず、昔からそうだからと守らせる規則。
もちろん、理由を知らなくても守らなければならない決まりはある。
だが、人間というものは「見るな」と言われれば見たくなるし、「行くな」と言われれば、その先に何があるのか気になるものだ。
まして。
そこへ行かなければ、大切な者が死ぬと言われたなら。
「私は、その禁域に入った」
セレナが静かに言った。
マルタは驚かなかった。
おそらく、そこまでは知っていたのだろう。
「どうして?」
それでも彼女は尋ねた。
セレナはすぐには答えなかった。
やがて、膝の上に置いた手を握りしめる。
「……助けたかったのよ」
◇
セレナには、妹のように可愛がっていた少女がいたという。
血の繋がりはなかった。
けれど、物心ついた頃からいつも一緒だった。
「私よりずっと小さくてね。どこへ行くにも後ろをついてきた。弓の稽古にも来るし、森へ行けば勝手についてくるし……本当に鬱陶しかった」
そう言いながら。
セレナは笑っていた。
わしがこれまで見たことのない、穏やかな笑顔だった。
「でも、ある日。その子が病気になった」
笑顔が消える。
「最初はただの熱だと思ってた。でも何日経っても下がらなくて、そのうち食べられなくなって……最後には起き上がることもできなくなった」
里の薬師が何人も診た。
薬も使った。
祈祷もした。
それでも治らなかった。
「このままなら、長くても十日。それくらいだって言われた」
十日。
子供一人の命が消えるまでの時間としては、あまりにも短い。
「それで禁域に?」
マルタが尋ねる。
「……ええ」
「どうして、そこに治す方法があると思った?」
その問いに。
セレナの表情が僅かに曇った。
「聞いたの」
「誰から?」
「分からない」
「分からない?」
マルタの声が低くなる。
セレナは小さく頷いた。
「夜だった。眠れなくて、一人で窓の外を見てたら……声が聞こえた」
「誰の?」
「だから、分からないの」
「姿は?」
「見てない」
「男か女かは?」
「それすら覚えてない」
マルタの表情が険しくなっていく。
(……どう考えても怪しいのう)
おそらく。
今のセレナも同じことを思っている。
「その声が言ったの。東の禁域へ行けって。そこに生えている銀色の草なら、あの子を救えるって」
「それを信じたのかい?」
「信じたかったのよ」
セレナの答えは早かった。
「もう、他に何もなかったから」
その一言で。
わしは何も言えなくなった。
いや。
もともと喋れないのだが。
(責められんわな)
助けたい人間がいる。
その命が消えようとしている。
そんな時に、「助ける方法が一つだけある」と囁かれた。
冷静に考えれば怪しい。
罠かもしれない。
それでも。
行かずに死なせた時。
自分が一生後悔することだけは分かる。
◇
その日の夜。
セレナは一人で里を抜けた。
持っていったのは、弓と矢、短剣、それに僅かな水だけだった。
月明かりを頼りに、東へ向かった。
最初のうちは、何度も歩いたことのある森だった。
だが、ある場所を境に。
森の様子が変わったという。
「音がなくなったの」
「音?」
「鳥も鳴かない。虫の声もしない。風は吹いているのに、葉っぱの音すらしなかった」
セレナは、まるで今もその森に立っているかのように目を細めた。
「怖かったわ。今まで何度も森に入ったけど、あんなに怖いと思ったことはなかった」
「それでも進んだ?」
「戻ったら、あの子が死ぬと思ったから」
セレナらしい。
そう思った。
怖くないから進むのではない。
怖くても。
それ以上に守りたいものがあるから進む。
やがて彼女は、黒いものを見つけた。
「最初は地面が焼けたのかと思った。でも違った」
足元から、黒い石が突き出していた。
一つや二つではない。
森の奥へ進むほど、その数は増えていった。
「……黒雷石かい?」
「今思えば、たぶん」
セレナはわしの胸元を見た。
「これとよく似てる」
わしも黒雷石へ目を落とした。
相変わらず。
何の反応もない。
「触った?」
「いいえ」
セレナは首を振った。
「触っちゃいけないって思った」
「どうして?」
「分からない。ただ……」
そこで言葉に詰まる。
「呼ばれてるような気がしたの」
「呼ばれてる?」
「ええ。声が聞こえるわけじゃない。でも、もっと近くへ来いって……そう言われてるような気がして」
(…………)
わしは黒雷石を見る。
胸の奥に、僅かな違和感が生まれた。
「それで?」
「進んだ」
「怖かったんだろう?」
「怖かったわよ」
セレナは苦笑した。
「でも、あの子の方が大事だった」
森を進み。
やがて。
木々が途切れた。
「大きな窪地があった」
そこだけ。
木が一本も生えていなかったという。
そして。
「その中心に、何かがあった」
マルタが身を乗り出す。
「何が?」
「……分からない」
「見たんだろう?」
「見た。でも、説明できないの」
セレナの眉間に皺が寄る。
「石みたいにも見えた。枯れた大木みたいにも見えた。でも……生き物にも見えた」
「生き物?」
「分からない」
セレナは自分でも苛立っているようだった。
「形を思い出そうとすると、うまく思い出せない。でも、一つだけ覚えてる」
「何だい?」
セレナの視線が。
わしの胸元へ落ちた。
「音」
(…………)
「そこから、ずっと音がしてた」
マルタは何も言わない。
「――トクン」
わしの身体が強張った。
「――トクンって。まるで、大きな心臓が地面の下で動いてるみたいに」
(同じじゃ)
昨夜。
黒雷石から感じたものと。
同じ。
◇
「銀色の草は?」
マルタが聞いた。
「あった」
窪地の中心。
その正体不明の何かを取り囲むように、銀色の葉を持つ草が生えていた。
セレナは、そのうち一本だけを採った。
「黒い石にも、中心にあったものにも触れてない。草だけ採って、すぐ逃げた」
「そして、その草を?」
「煎じて飲ませた」
「助かったのかい?」
「……ええ」
セレナの口元に。
小さな笑みが浮かんだ。
「次の日には熱が下がった。食事もできた。三日後には歩けるようになってた」
(本当に効いたのか)
「嬉しかったわ」
セレナが言う。
「掟を破ったことなんて、どうでもよかった。あの子が生きてる。それだけでよかった」
少しだけ。
遠い目をする。
「……その日の夜までは」
◇
夜。
突然。
セレナの家へ里の兵士が押し入った。
抵抗する暇もなかった。
武器を取り上げられ。
両腕を縛られ。
長老たちの前へ引き出された。
「全部知られてた」
「禁域へ行ったことを?」
「ええ」
「誰かに話した?」
「誰にも」
「見られた覚えは?」
「ない」
「助けた子にも?」
「何も話してない」
(なら、どうして分かった)
わしは考える。
誰にも言わず。
一人で。
夜中に里を出た。
それなのに。
その日のうちに捕まった。
(……最初から仕組まれとった可能性もあるな)
窓の外から聞こえた謎の声。
禁域へ誘導されたセレナ。
そして。
帰った直後に現れた兵士。
偶然と考えるには。
少し出来すぎている。
「何の罪だった?」
マルタが聞いた。
「三つ」
セレナは指を折った。
「禁域への侵入。禁域にある植物の持ち出し。それから――封印への接触」
マルタの眉が動いた。
「待ちな」
「何?」
「お前、封印に触ったのか?」
「触ってない」
即答だった。
「本当に?」
「触ってない!」
セレナの声が強くなる。
「黒い石にも触ってない。中心にあったものにも触ってない。私は草を一本採っただけ」
「そのことは?」
「何度も言ったわ」
「信じてもらえなかった?」
セレナは首を振った。
「違う」
「何が?」
「あの人たちは……」
少し考え。
セレナが呟いた。
「最初から、私の話なんて聞く気がなかった」
わしは目を細めた。
(それは……)
裁判ではない。
判決が先に決まっていた。
その理由を。
後から並べただけだ。
◇
セレナの手が。
自分の耳へ伸びた。
長い耳があった場所。
今は。
切断された傷だけが残っている。
「耳を切られた」
淡々とした声だった。
だが。
わしを抱く腕に、僅かに力が入った。
エルフにとって。
長い耳は、単なる身体的特徴ではないらしい。
森の民である証。
里の一員である証。
そして。
同胞である証。
それを切り落とす。
つまり。
お前はもう。
我々の仲間ではない。
そういう意味だった。
「そのまま追放された。里へ戻れば死罪。それで終わり」
セレナは笑った。
だが。
その笑顔は。
見ていて気持ちのいいものではなかった。
「後悔してるかい?」
マルタが尋ねた。
「何を?」
「禁域へ入ったこと」
セレナは少しだけ考えた。
そして。
「してない」
はっきりと言った。
「同じことが起きたら?」
「また行く」
「耳を切られると分かってても?」
「行く」
「追放されても?」
「行くわ」
迷いはなかった。
「だって」
セレナの声が柔らかくなる。
「あの子は助かったもの」
(……なるほどな)
わしはようやく。
この女のことを少し理解した気がした。
なぜ。
貧しいくせに孤児を引き取るのか。
なぜ。
自分一人では抱えきれないほどの子供たちを育てているのか。
なぜ。
森で拾った正体不明の赤ん坊まで。
迷いながらも。
結局。
見捨てられなかったのか。
(昔から、そういう女だったんじゃな)
合理的とは言い難い。
経営者としてなら。
止めるかもしれない。
だが。
(わしは嫌いじゃない)
むしろ。
少し羨ましくすらあった。
前世のわしは。
百十年。
随分と長く生きた。
その分。
諦める理由を探すのが上手くなっていた。
できない理由。
やらない理由。
仕方がないと言える理由。
だが。
目の前の人間を救うためなら。
自分の居場所まで捨てる。
そんな生き方も。
(悪くないのう)
◇
しばらくして。
マルタが尋ねた。
「その子は、その後どうなった?」
「知らない」
「知らない?」
「私はその日のうちに追放されたのよ」
「死んだとは聞いた?」
セレナが言葉を止めた。
「……聞いてない」
「だろうね」
「何が言いたいの?」
マルタは答えず、懐へ手を入れた。
取り出したのは。
一枚の古びた紙だった。
「昨日、記録を調べていて見つけた」
テーブルの上へ置く。
わしには文字が読めない。
だが。
セレナには読める。
最初は。
訝しげだった。
やがて。
その目が止まる。
「…………え?」
顔色が変わった。
「これ……」
「お前が追放された翌朝に書かれた記録だ」
「嘘……」
(何が書いてある?)
わしはセレナの顔を見る。
紙を持つ指が。
僅かに震えている。
「マルタ」
掠れた声だった。
「これ……どういうこと?」
「書いてある通りさ」
「でも……」
「セレナ」
マルタは静かに言った。
「お前が助けたあの子は――死んでない」
セレナが勢いよく顔を上げた。
「じゃあ!」
「落ち着きな」
「だったら、どこにいるの!?」
「分からない」
「……え?」
「消えたんだよ」
セレナの表情が止まった。
「お前が追放された、その夜に」
「…………」
食堂から。
音が消えた。
「どうして……」
セレナが呟く。
「分からない」
マルタは首を振った。
「ただね」
その視線が。
ゆっくり。
わしへ向く。
いや。
胸元に下がる。
黒雷石へ。
「同じ夜なんだ」
「……何が?」
セレナが聞く。
マルタは答えた。
「里から黒雷石が消えたのも」
セレナが息を呑んだ。
(…………)
わしも。
黒雷石を見る。
セレナが追放された夜。
彼女が救った少女が消えた。
そして。
黒雷石も消えた。
三つの出来事。
同じ夜。
(偶然か?)
いや。
まだ決めつけてはいけない。
事実と推測を混ぜれば。
判断を誤る。
それは。
百十年の人生で。
何度も学んだことだ。
「待って」
セレナが立ち上がった。
「それじゃあ、あの子が黒雷石を――」
「決めつけるんじゃない」
マルタが遮る。
「でも!」
「分かってるのは三つだけだ」
マルタは一本指を立てた。
「お前が追放された」
二本目。
「その夜、あの子が姿を消した」
三本目。
「そして黒雷石も消えた」
セレナは何も言えなかった。
「それだけだ。あの子が盗んだ証拠なんてない」
「…………」
「むしろ」
マルタが目を細める。
「お前を禁域へ誘った声。お前が戻った直後に現れた兵士。それに、やってもいない『封印への接触』まで罪に加えられた」
(…………)
わしも。
そこは引っ掛かっていた。
「誰かが」
マルタが低い声で続ける。
「最初から、お前を使ったのかもしれない」
セレナの瞳が揺れた。
「私を……?」
「まだ推測だよ」
マルタは釘を刺した。
「でも、調べる価値はある」
その時だった。
――トクン。
「…………!」
三人。
同時に。
動きを止めた。
黒雷石。
表面の銀色の線が。
淡く光っている。
(またか)
――トクン。
今度は。
昨日よりも。
強い。
胸元から。
振動が伝わってくる。
「レオン!」
セレナが慌ててわしを抱き直した。
「あぅ」
(わしは何もしとらん!)
黒雷石の銀色の線が。
ゆっくり。
枝分かれする。
その瞬間。
セレナの身体が。
びくりと震えた。
「……え?」
「どうした?」
マルタが聞く。
だが。
セレナは答えない。
黒雷石を見つめたまま。
顔から。
血の気が引いていく。
「セレナ?」
「今……」
唇が震えている。
「聞こえた」
「何が?」
「声……」
マルタが立ち上がった。
「何て言った?」
「…………」
セレナは。
黒雷石を見つめている。
そして。
震える声で。
呟いた。
「――セレナ、って」
――トクン。
黒雷石が。
答えるように。
もう一度。
脈打った。




