第17話 百十歳、商談を始めます
「では、改めまして」
男はそう言うと、胸元に手を添えて丁寧に頭を下げた。
「ローデン商会のアルベルト・ローデンと申します。本日は突然の訪問となりましたこと、まずはお詫びいたします」
場所は孤児院の食堂。
普段なら子供たちがパンを取り合い、ミナが騒ぎ、ロイがそれを注意している場所だ。
しかし今は、妙に静かだった。
古びたテーブルを挟み、セレナとアルベルトが向かい合っている。
そして、その横には――籠に入ったわし。
(…………)
前世では、それこそ数え切れないほどの商談を経験した。
小さな清掃会社を始めた頃は、古びた事務所で頭を下げた。
会社が大きくなってからは、一流ホテルや高級料亭で何億という金を動かす話もした。
だが。
(籠の中から商談を見るのは、さすがに初めてじゃな)
百十年も生きれば大抵のことは経験したつもりだったが、人生とは分からないものである。
しかも、今のわしは発言権すらない。
「あぅ」
これが精一杯だ。
何とも歯痒い。
◇
「それで」
セレナが先に口を開いた。
「この土地についてのお話、ということでしたが」
「はい」
アルベルトは微笑みを崩さない。
四十代ほどだろうか。
仕立てのいい濃紺の上着に、磨かれた革靴。指には目立たない程度の指輪。
派手ではない。
だが、金を持っている人間の格好だ。
(商売人じゃな)
しかも、かなり慣れている。
相手を不快にさせない程度の笑顔。
落ち着いた声。
必要以上に喋らない。
前世なら、少し警戒する相手だ。
「現在、こちらの土地に対し、金貨三十枚での購入希望が出されております」
アルベルトが一枚の書類をテーブルに置いた。
「期限は残り二十二日。それまでに現在の使用者である皆様が、それ以上の条件を提示できなかった場合、規定に従って土地の使用権は購入希望者へ移ることになります」
「……分かっています」
セレナの声が僅かに沈んだ。
「でも、金貨三十枚なんて用意できません」
(セレナ)
わしは心の中で額を押さえた。
(それを最初に言うてどうする)
交渉で大切なのは、手札を全部見せないことだ。
払えない。
金がない。
どうにもならない。
最初からそれを相手に教えてしまえば、こちらの選択肢が少ないと宣言しているようなものだ。
もっとも。
(仕方ないか)
セレナは商人ではない。
それに、嘘をついて駆け引きするような性格でもなさそうだ。
対するアルベルトは、セレナの言葉を聞いても眉一つ動かさなかった。
「そうでしょうね」
(……やはり知っとるな)
この孤児院に金がないことを。
おそらく最初から調べている。
その上で、金貨三十枚という額を提示してきた。
偶然ではない。
「ですが」
アルベルトが新しい書類を取り出した。
「だからこそ、本日は別のご提案を持って参りました」
「別の?」
「はい」
書類が、セレナの前へ滑らされる。
「期限を待たず、立ち退きに同意していただけるのであれば――金貨五枚をお支払いします」
「……五枚?」
セレナが目を見開いた。
後ろで聞いていたロイも反応する。
今の孤児院にとって、金貨五枚は決して小さな金ではない。
「さらに」
アルベルトは続けた。
「町の外れに、現在使われていない建物があります。そちらを一年間、無償でお貸しいたします」
「…………」
セレナが黙った。
(ほう)
わしも少し驚いた。
金貨五枚。
さらに、一年間の住居。
孤児院側からすれば、かなり良い条件だ。
少なくとも、何も得られず追い出されるより遥かにいい。
だが。
(良すぎるのう)
商売では、条件が悪すぎる話も危険だが、良すぎる話も同じくらい危険だ。
なぜ、そこまでする?
期限まで待てば、向こうは金貨五枚を払わずに済むかもしれない。
建物を貸す必要もない。
それでも、今すぐ出ていくなら金を払う。
(つまり――)
買い手は、この土地を早く手に入れたい。
そして。
できるだけ揉めずに。
「先生」
後ろにいたロイが小さく声を上げた。
「それなら……悪くないんじゃない?」
「ロイ」
「だって」
少年は少し迷ってから、古びた孤児院を見回した。
「みんなで住める場所があるなら……」
その言葉に、セレナは何も返せなかった。
(…………)
ロイはまだ子供だ。
だが。
この孤児院で一番年上の子として、年下の子供たちをずっと見てきた。
だからこそ分かっているのだろう。
思い出よりも。
まず、生きる場所が必要だということを。
◇
(しかし)
わしには、どうしても引っかかる。
「あぅ!」
声を上げる。
「レオン?」
セレナがこちらを向いた。
わしはテーブルの書類を指差し、次に窓の外――土地を指差した。
「あぅ!」
「……土地?」
そう。
次にアルベルトを指差す。
「あぅ!」
「この人?」
(違う。なぜじゃ。なぜ欲しい)
必死に身振りをする。
だが、当然伝わらない。
「お腹空いた?」
(違う!)
「眠い?」
(商談中に寝るか!)
「もしかして」
ロイがわしの顔を覗き込んだ。
「レオン、この土地のこと聞きたいの?」
(そうじゃ!)
「あぅ!」
ロイは少し考える。
そして、アルベルトを見た。
「なんで、この土地が欲しいんですか?」
(それじゃ!)
一瞬。
本当に一瞬だけ。
アルベルトの指が止まった。
(…………)
わしはそれを見逃さなかった。
「この赤ちゃんが、それを?」
アルベルトが面白そうにこちらを見る。
「あぅ」
「ずいぶん賢いお子さんですね」
(百十歳じゃからな)
「理由は単純ですよ」
アルベルトは再び穏やかな笑みを浮かべた。
「依頼人が、この土地を気に入っている。それだけです」
(嘘じゃな)
即座にそう思った。
理由として弱すぎる。
「何に使うんですか?」
今度はセレナが尋ねた。
「それについては、私から申し上げることはできません」
(なるほど)
知らない、とは言わなかった。
つまり。
アルベルト自身は用途を知っている。
だが、契約か何かで口止めされている。
少なくとも、そんなところだろう。
◇
なら。
別の方向から探る。
わしは窓の向こうに広がる森を指差した。
「あぅ」
アルベルトを見る。
反応はない。
(森そのものではない?)
次に。
胸元。
黒いペンダント。
掴む。
「あぅ」
「…………!」
(見つけた)
ほんの僅か。
アルベルトの目が見開かれた。
すぐに元へ戻ったが。
遅い。
わしは百十年生きた。
そのうち何十年も、他人と金の話をしてきた。
口は嘘をつく。
だが。
目。
指先。
呼吸。
そういうものは、案外正直だ。
「その石は?」
アルベルトが初めて自分から質問した。
(やはり食いついたか)
「この子が持っていたものです」
セレナが答える。
「森で拾った時から」
「……そうですか」
「何か知っているんですか?」
「いいえ」
(嘘じゃ)
「珍しい石だと思いまして」
その瞬間。
――バチッ。
黒い石から、小さな青白い火花が散った。
「っ!」
アルベルトの身体が僅かに後ろへ引かれる。
明らかに。
ただ驚いただけではない。
知っている人間の反応だった。
「今のは?」
セレナの声が低くなる。
「……静電気でしょう」
(無理があるじゃろ)
セレナも同じことを思ったらしい。
目つきが変わる。
「アルベルトさん」
「はい」
「買い手は誰なんですか?」
「申し上げられません」
「エルフ?」
「…………」
僅かな沈黙。
それだけで十分だった。
セレナの表情が固くなる。
「昨日、私を連れ戻しに来た者たちがいました」
「…………」
「そして今日、あなたが来た」
「それは偶然でしょう」
「そう」
セレナの指が、自分の耳の傷へ触れる。
「なら教えて」
冷たい声だった。
「この土地に、何があるの?」
アルベルトは答えなかった。
先ほどまで崩さなかった笑みが、初めて消えている。
数秒。
沈黙。
やがて。
「今日のところは、ここまでにしましょう」
アルベルトが立ち上がった。
(逃げるか)
「回答を急かすつもりはありません。ただ、期限は二十二日後です」
書類を整える。
「金貨五枚と、一年間の住居。私は悪い条件ではないと思っています」
そして、扉へ向かう。
「二十二日後には、何も得られずここを出ることになるかもしれません」
脅している。
ようにも聞こえる。
だが。
おそらく違う。
この男は、事実を並べているだけだ。
だからこそ。
(厄介じゃな)
◇
玄関を出たアルベルトは、護衛と共に馬車へ向かった。
だが。
乗り込む直前。
一度だけ振り返った。
視線の先。
セレナではない。
孤児院でもない。
わしの胸元。
黒いペンダント。
(やはり、こいつじゃな)
馬車が走り去っていく。
車輪の音が遠ざかり。
やがて。
森の静けさが戻った。
「先生」
ロイが口を開く。
「どうする?」
「…………」
「俺は……悪くないと思う」
セレナは答えない。
「だって、みんなで住めるんだろ?」
その言葉に。
ミナも。
リリも。
黙ってセレナを見る。
(難しいのう)
前世。
経営者だった頃。
何度も経験した。
自分一人なら。
簡単に決められる。
だが。
守る人間が増えるほど。
決断は難しくなる。
セレナも。
同じなのだろう。
◇
その夜。
わしは籠の中で、昼間の話を何度も思い返していた。
期限は二十二日。
選択肢は三つ。
金貨三十枚以上を用意して、土地を守る。
金貨五枚と住居を受け取り、ここを出る。
そして。
(相手が隠しているものを暴く)
三つ目。
わしなら。
これを選ぶ。
商談で最も危険なのは。
相手が価値を知っていて。
こちらが知らない状態で契約することだ。
土地の価値。
買い手。
黒いペンダント。
セレナの過去。
知らないことが多すぎる。
(この状態で判は押せん)
ただし。
問題が一つ。
「…………」
自分の手を見る。
小さい。
ぷにぷに。
(調べられん)
《ダイヤング》なら。
歩ける。
喋れる。
町へも行ける。
だが。
一回につき寿命一年。
(却下じゃ)
調査のためだけに命を一年使うなど。
経費として高すぎる。
ならば。
(人を使う)
全部を自分でやる必要はない。
前世で会社を作ったのも、そのためだ。
セレナ。
ロイ。
町の人間。
使えるものは使う。
頼れる者には頼る。
(……孤王とは真逆じゃな)
一人で戦えば強くなる力。
だが。
生きることまで。
一人でやる必要はない。
そう考えると。
何となく可笑しかった。
◇
翌朝。
まだ朝食も終わらない頃。
――コン、コン。
玄関を叩く音がした。
「……今度は誰?」
セレナが露骨に嫌そうな顔をする。
(最近、客が多いのう)
セレナが扉を開ける。
そこには。
一人の老婆が立っていた。
背は低く。
腰も少し曲がっている。
長い灰色の外套。
杖。
どこにでもいそうな老人。
――そう思った。
「久しぶりだね、セレナ」
セレナの顔から。
血の気が引いた。
「…………どうして」
(知り合いか?)
老婆は答えない。
ゆっくりと。
こちらを向く。
いや。
わしではない。
その視線は。
胸元。
黒いペンダントへ向いていた。
「……やっぱり」
老婆の目が細くなる。
「その石が、戻ってきたんだね」
(…………)
わしは息を呑む。
使者。
アルベルト。
そして。
この老婆。
皆。
この石を知っている。
なのに。
わしだけが。
何も知らない。
老婆が一歩、こちらへ近づいた。
「坊や」
皺だらけの顔が、わしを見る。
「その石を――」
一拍。
「どこで手に入れた?」
(それは)
わしは黒い石を握る。
(わしが聞きたいんじゃがな)
黒い石。
孤児院の土地。
森。
そして。
セレナの過去。
別々だと思っていたものが。
少しずつ。
一つの場所へ集まり始めていた。




