第120話 贖罪のマリア
夜明けが近づいていた。
天竜教本部の礼拝堂。
その床に、ミレボスは倒れていた。
「か……はっ……!」
口から血が溢れる。
身体を動かそうとすると、腹部に激痛が走った。
いきなり現れた襲撃者との戦いで受けた傷だった。
聖銀の錘によって破壊された内臓は、いまだに元の形を取り戻していない。
普段であれば、とっくに再生しているはずの傷だ。
しかし、今のミレボスには再生能力がなかった。
教祖マリアによって奪われていたのだ。
「う……ぐ……!」
痛みから逃れようと、床を転がる。
だが、身体を捻れば傷口が開き、動かなければ内側から焼かれるような痛みが襲ってくる。
何をしても苦しい。
どうすることもできない。
(……殺して)
ミレボスは歯を食いしばった。
(殺して……!)
何度も、何度も。
同じ言葉が頭の中を巡る。
いっそ、このまま死んでしまいたかった。
しかし、吸血鬼として生まれ持った身体の強靭さが、それすら許してくれない。
血を失い、内臓を損傷し、それでも意識だけは途切れなかった。
「……こ……ろ……」
掠れた声が漏れる。
その時だった。
「ミレボス」
「…………!」
聞き覚えのある声。
ミレボスは辛うじて顔を上げた。
そこには、両手を胸の前で組んだマリアが立っていた。
その水色の瞳からは、大粒の涙が零れ落ちている。
「……ああ、ミレボス……」
マリアは悲しそうに眉を寄せた。
「どれほど苦しかったことでしょう……」
「カハッ……! カハッ……!」
ミレボスは必死に口を動かした。
許しを請いたかった。
もう十分だと、どうか助けてほしいと訴えたかった。
だが、言葉の代わりに血が溢れるばかりだった。
「もう大丈夫ですよ」
マリアはミレボスの傍らに膝をついた。
「よく頑張りましたね。あなたは立派に苦しみに耐え抜きました」
「……あ……」
「今、再生能力を返して差し上げます」
マリアはそっと手をかざした。
「――《譲渡》」
淡い光が、ミレボスの身体へ流れ込んだ。
次の瞬間。
――ミキッ、ミキミキッ!
「がっ……あああっ!!」
全身が軋んだ。
折れた骨が繋がり、裂けた筋肉が塞がり、破壊された内臓が再生していく。
肉体が元の形を取り戻すたび、嫌な音が響いた。
しかし、その苦痛は長く続かなかった。
やがて傷口が完全に塞がり、ミレボスの呼吸が落ち着き始めた。
「はあっ……はあっ……!」
ミレボスは震える手で腹部を押さえた。
痛みがない。
あれほど苦しめられた傷が、すっかり消えていた。
(……終わった)
ようやく。
ようやく、終わったのだ。
少し離れた場所で、その様子を見守っていたガーラは顔をしかめた。
(……気色が悪い)
肉体が再生する光景にも、目の前で涙を流すマリアにも、同じような嫌悪感を覚えた。
だが、それを口にすることはなかった。
ミレボスはふらつきながら起き上がると、マリアの前に跪いた。
「マリア様……!」
額を床へ擦りつける。
「申し訳ありませんでした! このミレボス、二度と同じ過ちは犯しません! どうか、もう一度挽回の機会を……!」
「よいのですよ、ミレボス」
マリアは優しく微笑んだ。
「あなたは十分に反省しました。地下闘技場を失った罪については、今ここに許されました」
「あ……ありがとうございます……!」
ミレボスは涙を流した。
「ありがとうございます……! マリア様……!」
その時だった。
マリアが法衣の裾から、二本の小さなナイフを取り出した。
そして。
――ドスッ! ドスッ!
「――――っ!?」
ミレボスの両手が、床に打ち留められた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
手の甲から床へ突き刺さった刃。
そこから広がる、焼けつくような痛み。
「ぎっ……ああああっ!?」
聖銀だった。
吸血鬼にとって忌まわしいその金属が、ミレボスの両手を貫いている。
「な……なぜ……!?」
ミレボスは目を見開いた。
ナイフを見る。
マリアを見る。
もう一度、ナイフを見る。
何度見ても、理解できなかった。
「マ……マリア様……?」
「ミレボス」
マリアの頬を、大粒の涙が伝った。
「先ほどの苦しみは、地下闘技場を失ったことへの贖罪です」
「…………え?」
「ですが、あなたにはもう一つ、償わなければならない罪があります」
マリアはミレボスの頬にそっと触れた。
「黒雷石です」
「……っ!」
「十二の楔。その一つである黒雷石を、あなたは奪われてしまいました」
マリアの声が震えた。
「竜神様の餌となる虚喰らい。それを封じる大切な楔を……」
ミレボスは息を呑んだ。
黒雷石。
あの襲撃者と戦った際に落としてしまった黒い石。
それが何を意味するのか、ミレボスも知っていた。
「ま、待ってください……! それは……!」
「分かっています」
マリアは優しく頷いた。
「あなたも、わざと奪われたわけではありませんものね」
「そ、そうです! 私は……!」
「ですが、罪は罪なのです」
「…………!」
「許すためには、まず償わなければなりません」
マリアは両手を組んだ。
「どうか耐えてください、ミレボス。私はあなたを信じています」
「……な……何を……」
その時。
礼拝堂の高い窓を覆うカーテンの隙間から、一筋の光が差し込んだ。
朝日だった。
「…………!」
ミレボスの顔から血の気が引いた。
「マ……マリア様……!」
光が、床をゆっくりと進んでくる。
「マリア様! 太陽が……!」
ミレボスは両手を引き抜こうとした。
しかし、聖銀のナイフは深々と床へ突き刺さり、びくともしない。
「太陽が!! 太陽が来ます!!」
「ええ。美しい朝ですね」
マリアは窓へ目を向けた。
そして、眩しそうに微笑んだ。
「今日も竜神様の慈愛が、世界を照らしてくださっています」
「ち、違う……! マリア様!! お願いです!!」
光がミレボスの足へ届いた。
――ジュウウウッ!
「ぎゃああああああっ!!」
皮膚が焼けた。
吸血鬼にとって、太陽の光は致命的な弱点だった。
しかし、ミレボスには再生能力が戻っている。
焼けた皮膚が再生し、再生した皮膚が再び焼ける。
その繰り返しだった。
「いやあああっ!! いやああああっ!!」
ミレボスは必死に身を捩った。
だが、両手を固定されているため、光から逃れることができない。
幸いにも、カーテンが光の大部分を遮っていた。
そのおかげで、身体が完全に焼き尽くされることはない。
しかし、それは同時に、苦痛が終わらないことを意味していた。
「ミレボス……」
マリアは涙を流しながら、その姿を見つめていた。
「耐えて……耐えるのです……」
「マリア様あああああっ!!」
「大丈夫。あなたなら、きっと乗り越えられます」
マリアは立ち上がった。
「私は信じていますよ」
そう言って、踵を返した。
「待って!! マリア様!! お願い!!」
ミレボスの絶叫が響く。
ガーラは思わず目を逸らした。
(……こんなことなら)
腰の剣へ手を伸ばしかける。
(とどめを刺してやった方が、まだましだったな)
だが、剣を抜くことはなかった。
マリアの後に続き、礼拝堂を出る。
重い扉が閉まった。
ミレボスの絶叫が、遠くなった。
◇ ◇ ◇
「ガーラ」
「……はっ」
廊下を歩きながら、マリアが口を開いた。
「昼前になったら、ミレボスを太陽から隠してあげてください」
「……承知いたしました」
「それと、あの子に黒雷石を取り戻す機会を与えてあげましょう」
マリアは振り返った。
「あなたも監査役として同行してください」
「……俺が、ですか?」
「ええ。ミレボスが再び道を誤らないよう、見守ってあげてほしいのです」
「……分かりました。しかし、俺が離れれば、マリア様の護衛はどうなさるおつもりで?」
「心配はいりませんよ」
マリアは穏やかに微笑んだ。
「私はしばらく、この教団本部から出るつもりはありませんから」
「しかし……」
「それに……」
マリアは足を止めた。
その水色の瞳から、再び涙が溢れた。
「私にも、しなければならないことがあります」
「…………」
「ミレボスに与えた苦しみを、私も受けなければなりません」
ガーラは黙っていた。
マリアは誰かに贖罪をさせた後、必ず自室へ籠もる。
そして、自らの身体を傷つけるのだ。
誰かを苦しめた罪は、自分も償わなければならない。
マリアはそう考えていた。
彼女に言わせれば、それもまた愛なのだという。
「……マリア様」
「何でしょう?」
「そこまでなさる必要が、本当にあるのでしょうか」
マリアは少し驚いたように目を丸くした。
そして、優しく微笑んだ。
「もちろんです」
迷いのない即答だった。
「愛する者の苦しみを、自分だけが知らずにいるなんて……そんな悲しいことがあるでしょうか」
「…………」
「私は、あの子を愛しています」
マリアは胸に手を当てた。
「だからこそ、あの子の痛みも分かち合いたいのです」
その瞳から、また涙が零れた。
「……どうか、ミレボスをよろしくお願いしますね」
「……承知いたしました」
ガーラは深々と頭を下げた。
「ありがとう、ガーラ」
マリアは嬉しそうに微笑んだ。
「あなたにも、竜神様の愛が届きますように」
そう言い残し、自室へと向かっていった。
ガーラはその背中を見送った。
やがて、姿が見えなくなる。
「…………」
遠くの礼拝堂から、微かにミレボスの悲鳴が聞こえていた。
ガーラは深く息を吐いた。
あの女は、他人を苦しめることに喜びを感じているわけではない。
苦しむ者を見れば涙を流し、救われた者を見れば心から喜ぶ。
そして、誰かに与えた苦痛を、自分自身にも与えようとする。
そこに嘘はない。
だからこそ。
(……恐ろしい女だ)
ガーラはマリアの消えた廊下を見つめた。
あの女は、自分の行いを疑っていない。
これまでも。
そして、おそらくこれからも。
どれほど多くの者が苦しもうと、どれほど多くの血が流れようと。
マリアはきっと、涙を流しながら微笑むのだろう。
すべては愛なのだと。
ガーラは腰の剣に手を添えた。
その剣で斬れるものなら、どれほど楽だっただろうか。
だが、あの女の慈愛だけは。
どうすれば断ち切れるのか、ガーラにも分からなかった。




