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第119話 竜神の慈愛

「教祖マリア。ミレボスの処遇、あのようなものでよろしいので?」


礼拝堂を出たマリアに、一人の男が声をかけた。


痩せこけた顔に鋭い眼光。赤い法衣を纏い、腰には剣を携えている。


男の名はガーラ。天竜教の剣士であり、教祖マリアの護衛を務めていた。


「よろしければ、俺がとどめを刺しておきましょうか」


「まあ、ガーラ。どうしてそのようなことを言うのです?」


マリアは不思議そうに首を傾げた。


「ミレボスは確かに過ちを犯しました。だからこそ、慈愛のもとに許してあげなければなりません」


「……しかし、あの闘技場は教団の重要な資金源となっておりました。それを失うのは手痛いものです」


「だからこそ、だからこそなのですよ」


マリアは穏やかに微笑んだ。


「すべてを慈愛で包み、許して、そして次の機会を与えなければならないのです」


「…………」


ガーラは口を閉ざした。


その表情には、明らかに不満が浮かんでいた。


「すべては愛ですよ、ガーラ。私が竜神様から天啓を授かったのも、愛ゆえなのです」


「……承知いたしました」


ガーラはそれ以上何も言わず、マリアの二歩後ろを歩いた。


やがて二人は、明るく開けた大広間へと出た。


そこには大勢の信者たちが椅子に腰かけ、静かに祈りを捧げていた。


「あっ……マリア様……!」


「マリア様だ……!」


マリアの姿を見つけた途端、あちこちから喜びの声が上がった。


マリアは片手を上げ、その声に応えた。


一人ひとりの顔を見ながら、優しく微笑みかけていく。


ただそれだけで、感極まって涙を流す者さえいた。


広間を一回りしたマリアは、奥に設けられた壇上へと進んだ。


その背後には、巨大な絵画が掲げられていた。


黒い太陽を背に、天から大地へと舞い降りる一頭の竜。その眼下には、大地に跪き、救いを求める人々の姿が描かれている。


――黒き太陽から出でし竜神。大地の民を救うために顕現せん。


天竜教の教えを象徴する一文を表現した絵画だった。


マリアはその前に立ち、大きく両手を広げた。


「おお……!」


信者たちから感嘆の声が漏れた。


白い法衣を纏ったマリアの姿は、背後の絵画と重なり、まるで竜神の使いが降臨したかのように映っていた。


「皆さん。本日もよく来てくださいました」


マリアが語りかけると、広間は静まり返った。


「何かお悩みのある方は、一人ずつ私のもとへいらしてください」


最前列の左端に座っていた信者が立ち上がり、ゆっくりと壇上へ進んだ。


そしてマリアの前に跪いた。


「マリア様……。私の子が流行り病にかかってしまいました。どうか、お救いください……」


「まあ……それは大変ですね」


マリアは心配そうに眉を寄せた。


「ガーラ」


「……はっ」


ガーラは用意していた小綺麗な瓶を差し出した。


蓋の付いた透明な瓶には、キラキラと輝く水が入っている。


マリアはそれを受け取ると、信者に手渡した。


「このお水を、一日に少しずつ服してください。きっと竜神様の慈愛が届くことでしょう」


「あ、ありがとうございます……! ありがとうございます……!」


信者は瓶を両手で抱え、何度も頭を下げた。


「よいのです。すべては愛です」


マリアは優しく微笑んだ。


「さあ、次の方……」


その後も、信者たちは次々とマリアのもとを訪れた。


病に苦しむ家族のこと、商売の不振、夫婦の不和、将来への不安。


マリアは一人ひとりの話に耳を傾け、ときには励まし、ときには共に涙を流した。


そして大抵の場合、用意していた水か、何らかの粉末を与えた。


そのやり取りは、日が傾くまで続いた。


ガーラは終始、マリアの傍らに立っていた。


周囲への警戒を怠らず、信者たちの動きにも目を配っている。


しかし、その胸中は穏やかではなかった。


(……馬鹿馬鹿しい)


ガーラは、信者が大切そうに抱えて帰る瓶を見つめた。


あんなもの、ただの水だ。


ガーラ自身が井戸から汲んできた水を、綺麗な瓶に詰め替えただけのものだった。


その前でマリアが祈りを捧げる。


それだけで、あの『竜神水』が出来上がる。


特別な薬草を混ぜるわけでも、魔法をかけるわけでもない。


ただの水なのだ。


(……だが)


不思議なことに、効果があるらしい。


病が治ったと報告する者もいれば、長年の悩みが解消したと涙ながらに感謝する者もいる。


もちろん、すべての者に効果があるわけではない。


それでも、マリアのもとには感謝の声が絶えなかった。


(思い込みによるものなのか。それとも……)


ガーラは壇上のマリアを見た。


(……本当に、あの女の祈りが?)


すぐに、その考えを打ち消した。


(馬鹿馬鹿しい。祈るだけで奇蹟なんぞ起きるわけがない)


「……ガーラ」


「っ!」


不意に名前を呼ばれ、ガーラは肩を震わせた。


マリアがこちらを見ていた。


澄んだ水色の瞳が、まっすぐにガーラを捉えている。


(……まさか)


自分の考えが見透かされたのではないか。


一瞬、そんな考えが頭をよぎった。


「ガーラ。お疲れのようですが、大丈夫ですか?」


「……いえ。滅相もありません」


「そうですか……」


マリアは少し心配そうに首を傾げた。


「ですが、無理はなさらないように」


そう言って、にこりと微笑んだ。


「……お気遣い、感謝いたします」


ガーラは深々と頭を下げた。


マリアは満足そうに頷くと、再び信者たちへと向き直った。


その背中を見つめながら、ガーラは小さく息を吐いた。


ただの気遣いだった。


それだけのはずなのに。


なぜかガーラは、あの笑顔に恐ろしさを感じていた。



「……そういえば、ガーラ」


「はっ」


「ミレボスは、まだ苦しんでいるでしょうか?」


「……おそらくは」


「そうですか」


マリアは嬉しそうに微笑んだ。


「よかった」


「…………?」


「苦しみは、罪を洗い流してくれるのです。きっと今頃、あの子の魂は少しずつ綺麗になっているのでしょうね」


マリアは胸の前で両手を組んだ。


「明日の朝が楽しみです。きっと、生まれ変わったような笑顔を見せてくれることでしょう」


ガーラは何も答えなかった。


先ほどの礼拝堂で、ミレボスがどれほど凄惨な悲鳴を上げていたか。


マリアも聞いていたはずだった。


それなのに、目の前の女は心から喜んでいる。


その笑顔は、先ほど病気の子どもを案じていた時と、寸分も変わらなかった。


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