第117話 百十歳、隠していたことを打ち明けます
地下闘技場は、ようやく静けさを取り戻しつつあった。
観客の大半は逃げ出し、残った警備員たちが負傷者の救護や後片付けに追われている。
バヌは司会台に腰を下ろし、闘技場の中央を見つめていた。
そこには、巨体を横たえたバオクの姿があった。
「……バオク」
弟はまだ意識を取り戻していない。
実のところ、バヌとバオクに血の繋がりはなかった。
バオクは、かつてこの闘技場で戦っていた巨人族の男と、オークの女との間に生まれた子どもだった。
二人は密かに関係を持ち、バオクを授かった。しかし、その存在はやがて支配人ミレボスの知るところとなった。
『面白そうじゃない。バヌ、お前が面倒を見なさい』
ただ、それだけの理由だった。
当時のバヌに子どもを育てた経験などなく、ましてや自分とは種族も違う赤ん坊だ。
何をどうすればよいのか、さっぱり分からなかった。
それでも、何も知らないバオクがバヌを慕うようになるまで、そう時間はかからなかった。
『あにき!』
いつからだったか、バオクはそう呼ぶようになった。
教えた覚えはない。
気づけば、いつも後ろをついて歩いていた。
やがて成長したバオクは、闘技場で戦うようになった。
巨人族譲りの巨体と、オーク譲りの怪力。そこに本人の努力が加わり、バオクは次々と勝利を重ねていった。
『あにき! かったぞ!』
『おう! よくやったな、バオク!』
バヌが褒めると、バオクは嬉しそうに笑った。
もっと強くなれば、兄貴が喜んでくれる。
バオクが鍛錬を続けた理由は、それだけだった。
金も、名誉も求めなかった。
ただ、バヌに褒めてもらいたかった。
「…………」
バヌは拳を握り締めた。
自分はそんな弟を利用してきた。
バオクが勝てば客が集まり、金が入る。支配人からの評価も上がる。
いつしか、弟が勝つことを当たり前だと思うようになっていた。
あいつが何を望んでいるのか、一度だってまともに聞いたことがあっただろうか。
「……なあ、バオク」
バヌは力なく笑った。
あの男が現れるまでは、こんなことを考えもしなかった。
負けるはずがないと思っていた弟が倒れ、闘技場そのものが崩壊しかけている。
この場所で生まれ、この場所で育ったバオクは、外の世界をほとんど知らない。
そして自分は、それを当たり前のこととして受け入れていた。
「……お前だけでも――」
バヌは遠くに倒れた弟を見つめた。
「ここから、出られねえもんかなぁ……」
返事はなかった。
バオクは、まだ意識を取り戻していなかった。
◇ ◇ ◇
地下闘技場を脱出したワシらは、アウラニとタタンの背に乗り、交易都市リルートの外れへと向かっていた。
ガルドだけは自分の足で走っている。
ウィーンはタタンの背で何かを大切そうに抱えていた。マルタも隣におったが、二人とも口数は少ない。
こちらでは、ララカオが相変わらず空を見上げておった。
初めて見る外の世界に、目を奪われているようだ。
そんな中、源一郎の腰にしがみついていたセレナが、ふいに口を開いた。
「……ねえ、ゲン」
「なんじゃ?」
「説明してくれる?」
「……何をじゃ?」
「さっき、ガルドに言ってたこと」
「…………」
「自分は神崎じゃなくてレオンじゃ、って」
「……ああ、そのことか」
源一郎は小さく息を吐いた。
《ダイヤング》の効果は既に切れかかっていたため、先ほど続けて使用している。
この能力は、一度使うたびに寿命を一年失う。
つまり、今回だけで二年分の寿命を支払ったことになる。
もっとも、源一郎にはあと何年の寿命が残されておるのか分からない。
だか、セレナには説明しておかねばならない。
「……実はのう」
源一郎は覚悟を決めた。
かつて、神崎源一郎という名の人間だったこと。
百十歳で生涯を終え、この世界に赤ん坊として転生したこと。
神から幾つかの能力を与えられたこと。
そして、その能力の中には、使用するたびに代償を支払わなければならないものがあること。
源一郎は、これまで隠していたことをすべて話した。
「……というわけじゃ」
「…………」
セレナは何も答えなかった。
「……なかなか言い出せなくて、すまん」
しばらくして、セレナが小さく呟いた。
「……ウソよ」
「…………」
それきり、セレナは黙ってしまった。
ただ、源一郎の腰に回していた両腕に、ぎゅっと力を込めた。
まるで絞り上げるような力だった。
(……当然じゃ)
自分はずっと正体を隠していた。
赤ん坊のふりをして世話になり、何も知らないセレナの優しさに甘えてきたのだ。
騙して利用していたと思われても仕方がない。
もし、このことを理由に、赤ん坊に戻った自分の面倒を見られないと言われても、恨むつもりなど毛頭なかった。
むしろ、これまで世話をしてくれたことに、心から感謝している。
謝っても、謝りきれない。
「…………」
何か言葉をかけようとしたが、何を言えばよいのか分からなかった。
セレナも何も言わない。
ただ、源一郎を抱きしめる腕だけは、少しも緩まなかった。
アウラニは二人の様子に気づいているのか、何も言わずに走り続けていた。
しばらくの間、沈黙が続いた。
◇ ◇ ◇
やがて一行はリルートの外へ出て、大きな木の陰で足を止めた。
『ここまでにしておきましょう』
アウラニが静かに告げた。
『これ以上は、マルタ様の負担が大きすぎます』
「……余計なことを言うんじゃないよ」
マルタが顔をしかめた。
よく見ると、顔色が悪い。額には汗が滲み、呼吸も少し荒くなっていた。
「ああ、これだけの数の使い魔を同時に使役するのは、相当きついはずだ」
モニーがスコップを肩に担ぎ直した。
「ふん。骨と皮だけになるまでやらせてやればいいじゃないか」
タタンが鼻を鳴らした。
「何も寿命が尽きるまで待ってやる必要はない」
『……わきまえなさい、タタン』
アウラニがたしなめる。
「ふん」
タタンは鼻で笑った。
「……どういう意味よ?」
セレナが尋ねた。
タタンは青白い目を彼女へ向けた。
「俺は使役される代わりに、死ぬ間際のそいつの生き肝を貰う約束をしている」
「……は?」
「契約だ。俺が力を貸し、そいつが死ぬ時に報酬を貰う。それだけのことだ」
「なによ、それ……」
セレナはマルタを見た。
「……代償ってやつさ」
マルタは疲れたように笑った。
「これだけ強い使い魔は、何の代償もなしには使役できないんだよ」
「そんな……」
セレナは言葉を失った。
マルタはそれ以上説明しようとしなかった。
『……マルタ様』
アウラニが口を開いた。
『お早めに、私たちを退去させてください』
巨大な蟻の表情など、ワシにはさっぱり分からん。
じゃが、何となく気まずそうにしているように見えた。
「……ああ、そうさせてもらうよ」
マルタは片手を上げた。
「みんな、ご苦労だったね。退去しな」
『承知いたしました』
「じゃあな、マルタ婆!」
「ふん。また呼べ」
次の瞬間、アウラニ、モニー、タタンの身体が白い光に包まれた。
輪郭が崩れ、無数の光の粒となって宙へ散っていく。
やがて、その光も消えた。
「…………」
マルタはしばらく立っていたが、突然、膝から力が抜けた。
「……っ!」
「マルタ!」
源一郎が駆け寄ろうとした時には、彼女は地面に尻もちをついていた。
「……大丈夫だよ。ちょっと疲れただけさ」
そう言いながらも、立ち上がろうとはしなかった。
誰も何も言わなかった。
木陰に、再び静寂が訪れた。




