第114話 百十歳、みんなで帰ります
闘技場を飛び出した神崎は、セレナを抱えたまま狭い地下通路を駆けていた。
背後からは、まだ観客たちの怒号が聞こえてくる。
「逃がすな!」
「捕まえろ!」
「俺の金返せぇぇぇ!!」
「知らんわ!」
その時だった。
「――っと」
ガクリ。
突然、身体から力が抜けた。
右足がもつれ、危うく転びそうになる。
「ゲン!?」
「大丈夫じゃ」
神崎は咄嗟に壁へ肩を当て、セレナを落とさないよう体勢を立て直した。
何が起きたのか。
すぐに分かった。
(……そうか)
身体が重い。
先ほどまで全身を満たしていた異常な力も、周囲の全てを拾っていた研ぎ澄まされた感覚も消えている。
(戦いの場から離れたから、《孤王》が解除されたのか)
神崎は自分の手を見る。
ほんの少し前までなら、バオクほどの巨体を相手にしても恐ろしいほどの力が湧いてきた。
今はもう、それがない。
「…………」
それでも。
神崎は笑った。
(それで良い)
むしろ。
(それが良い)
《孤王》が消えたということは、自分の戦いが終わったということなのだから。
「よし!」
「……何が?」
「気にするな!」
「いや、気になるんだけど」
幸いなことに、腕の中のセレナはうんと軽かった。
《孤王》は解除されても、《ダイヤング》によって取り戻した全盛期の肉体はまだ残っている。
女性一人を抱えて走る程度なら、何の問題もない。
「それよりガルドじゃ!」
神崎は大きく息を吸い込んだ。
「ガルドォォォ!!」
「!?」
「どこじゃあああ!! 一緒に帰るぞおおお!!」
「ちょっとゲン!?」
セレナが慌てて神崎の服を掴んだ。
「そんな大声出したら追手まで来るでしょ!」
「その時はその時じゃ!」
「もう少し考えて行動して!」
そう言われても。
今は何となく。
叫びたい気分だった。
少し進んだ先。
曲がり角から数人の男たちが飛び出してきた。
「いたぞ!」
「あいつだ!」
「止まれ!」
男たちが武器を構える。
神崎も足を止めた。
今は《孤王》がない。
しかもセレナを抱えている。
ならば。
「道を開けろ!!」
「なっ!?」
「ワシはバオクを倒した戦士じゃぞ!!」
「…………」
男たちの顔が固まった。
「バ……」
一人が仲間を見る。
「バオクを……?」
「そ、そうだった……」
「そうじゃ!」
神崎が堂々と胸を張る。
「邪魔をするなら相手になるぞ!」
「…………」
すっ。
男たちが左右へ分かれた。
「うむ!」
神崎は満足そうに、その間を駆け抜ける。
「…………」
セレナが。
腕の中からじっと神崎を見つめていた。
「なんじゃ?」
「ゲン」
「うむ」
「あなた、なんだかハイになってない?」
「そうか?」
「なってる」
「まあ!」
神崎は笑った。
「そういう時もあるじゃろ!」
「…………」
セレナは呆れたように息を吐く。
それでも。
その口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。
――カサ。
「…………?」
その時。
後ろから音がした。
――カサカサ。
「ゲン」
「む?」
「なんかいる」
「なんか?」
神崎が足を止める。
――カサカサカサ。
何かが。
こちらへ近づいてくる。
そして。
最初にそれを見つけたのは、セレナだった。
「…………」
目が見開かれる。
見る見るうちに顔から血の気が引いていく。
「どうした?」
「…………」
「セレナ?」
「ヒィィィィィィ!!」
「な、なんじゃ!?」
「下! 下ぁ!!」
「下?」
神崎が視線を落とした。
「…………ほう」
そこにいたのは。
蟻。
ただし。
神崎が前世で知っていた蟻とは、何もかもが違う。
人間を背中へ乗せられそうなほど巨大な身体。
全身を覆う甲殻は金色に輝き、二つの目は宝石のように赤い。
巨大な触角が、ゆっくりと左右へ揺れている。
「アリ! アリ!!」
セレナが神崎へしがみついた。
「落ち着け!」
「無理!!」
「お主、さっきまであんな化け物と戦っておったじゃろ!」
「それとこれとは別!!」
(まあ……)
神崎も巨大な昆虫が好きかと問われれば。
(別に好きではないがのう)
しかし。
巨大蟻は二人の前まで来ると。
ぺこり。
実に丁寧に頭を下げた。
『驚かせてしまい、申し訳ございません』
「…………む?」
『私はアウラニ。マルタ様の使い魔でございます』
「マルタの?」
『はい』
「アリが喋ったぁぁぁ!!」
「セレナ、静かにせんか!」
「だってアリよ!?」
『……よく言われます』
「慣れとる!?」
神崎は思わずアウラニを見た。
表情など分かるはずもないのだが。
どことなく哀愁を感じる。
「……アウラニ」
『はい』
「ワシらはどうすればいい?」
『私の背中へお乗りください』
アウラニが身体を低くする。
『まずはガルド様とウィーン様に合流いたしましょう』
「なるほど」
「…………え?」
セレナの顔が固まった。
「どうした?」
「今……」
恐る恐る。
金色の巨大な背中を見る。
「これに乗れって言った?」
『はい』
「これに!?」
『はい』
「いや!!」
「セレナ!?」
「いや! いや!! 絶対いや!!」
先ほどまで命懸けで戦っていた女とは思えない拒絶ぶりだった。
「セレナ! 流石に失礼じゃろ!」
「だって蟻よ!?」
『……いえ』
アウラニが静かに答える。
『大丈夫です。慣れていますから』
「…………」
神崎の眉が下がった。
「慣れる必要などない!」
『え?』
「セレナ!」
「な、何よ!」
「ワシの背中に捕まっとれ!」
「え?」
神崎は一度セレナを下ろすと。
アウラニの背中へ飛び乗った。
「ほれ!」
そのままセレナへ背中を向ける。
「ワシにしがみつけば、アウラニには極力触れんで済む!」
「…………」
『…………』
「どうじゃ! 完璧じゃろ!」
「……ゲン」
「なんじゃ?」
「やっぱり今日のあなた、ちょっと変よ」
「そうか?」
「うん」
「まあ、そういう時もあるじゃろ!」
神崎はニカッと笑う。
『では、参ります』
「うむ!」
「ちょ、まだ心の準備が――」
――カサカサカサカサカサカサッ!!
「ヒィィィィィィ!!」
金色の巨大蟻は、二人を乗せたまま地下通路を猛然と駆け出した。
◇ ◇ ◇
時を同じくして。
ウィーンは。
まだ、小さな頭蓋骨を胸に抱いていた。
「…………」
ミレボスを逃がした悔しさは消えていない。
だが。
今は。
それ以上に大切なものが。
腕の中にある。
「……帰ろうね、ダン」
その時。
――カツン。
「…………?」
通路の奥から音がした。
――カツン。
――カツン。
獣の足音。
それも。
小さくない。
ウィーンはダンの遺骨を片腕で大切に抱えたまま、空いている手を腰へ伸ばした。
やがて。
暗闇の中から。
白い獣が姿を現した。
「…………狼?」
大きい。
人間一人どころか、二人でも背に乗せられそうな巨躯。
白く長い毛並みが、薄暗い地下通路の中で淡く浮かび上がっている。
そして。
二つの瞳。
青白く輝く眼光が、真っ直ぐウィーンを捉えた。
ただそこに立っているだけだというのに、肌を刺すような威圧感がある。
普通の獣ではない。
そう判断するには十分だった。
『ウィーン』
「…………」
狼が。
低い声で喋った。
『俺はマルタの使い魔、タタンだ』
「ああ、そう」
ウィーンは腰から手を離した。
「ご丁寧にどうも」
『…………』
タタンの青い瞳が僅かに細くなる。
そして。
ウィーンの腕の中へ向けられた。
「…………」
『…………』
だが。
何も聞かなかった。
ただ。
再びウィーンを見る。
『あちらの方も終わったようだ』
「……そう」
『俺たちも撤退しなければならない』
「…………」
ウィーンは。
腕の中へ視線を落とした。
ようやく見つけた。
何年も。
何年も。
探し続けた。
自分の息子。
「……分かった」
ウィーンが立ち上がる。
それを確認したタタンは、彼女の前で身体を低くした。
『ウィーン』
「ん?」
『乗れ』
「…………」
一瞬だけ。
ウィーンは目を丸くした。
そして。
「ああ」
ダンを抱え直す。
落とさないように。
傷つけないように。
両腕で包み込むようにしてから。
タタンの背中へ跨がった。
「悪いね」
『構わん』
タタンが立ち上がる。
ウィーンは片手で白く長い毛を掴み。
もう片方の腕で。
大切に息子の遺骨を抱いた。
『行くぞ』
「ああ」
タタンが地面を蹴る。
白い巨体が。
風となって地下通路を駆け出した。
「…………」
金色の蟻と。
白い霊狼。
それぞれが。
大切な者を背に乗せて。
同じ場所へ向かって走っていた。




