第113話 帰ろう
――淡い光が、まだ残っていた。
「…………?」
壁を背に座り込んでいたウィーンは、ゆっくりと顔を上げた。
荒くなっていた呼吸を整えながら、床へ視線を落とす。
そこには、淡い光の粒が点々と続いている。
「……まだ?」
《アリアドネの糸》。
ここまで自分を導いてきた光は、ミレボスが逃げ去ったというのに消えていなかった。
それどころか、部屋のさらに奥へ向かって続いている。
「…………」
ウィーンはしばらく光を見つめていた。
そして。
「……そうだった」
自嘲するように笑う。
何を勘違いしていたのだろう。
《アリアドネの糸》を使った時、自分が強く思い浮かべたもの。
何年もの間。
ずっと探し続けていたもの。
それは。
ミレボスの顔ではない。
「…………」
ウィーンは立ち上がった。
床へ落としていた鎖を拾い、光の後を追う。
一歩。
また一歩。
辿り着いたのは、部屋の一角に置かれた大きな棚だった。
年代物らしい壺。
銀細工の燭台。
見たこともない石を使った置物。
どれも一目で相当な値打ちがあると分かる。
だが。
光はそこで終わっていない。
棚の向こうへ。
まるで壁を突き抜けるように続いている。
無論、目当てはこれじゃない
ウィーンは棚を眺め。
やがて。
「……そういうことか」
右手を伸ばした。
次の瞬間。
その手には長大なハルバードが握られていた。
本来ならば、何かしらの仕掛けがあるのだろう。
棚を動かすための。
隠された扉を開くための。
だが。
ウィーンにとって。
そんなものはどうでもよかった。
「ふっ!」
腰を捻り。
遠心力を乗せる。
――ズバンッ!!
ハルバードの刃が、骨董品ごと棚を真っ二つにした。
壺が砕け。
銀器が転がり。
木片が辺りへ飛び散る。
そして。
「……やっぱり」
棚の向こう。
壁だと思っていた場所に、人一人が通れるほどの暗い穴が開いていた。
隠し通路。
ウィーンはハルバードをしまうと、躊躇なく暗闇へ足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
「……なんだ、この臭い」
少し進んだところで、ウィーンは眉をひそめた。
嗅いだことのない香りだった。
甘く。
重い。
鼻の奥へまとわりつくような、強烈な匂い。
香水ではない。
恐らく香でも焚いているのだろう。
「……気持ち悪い」
少なくとも。
ウィーンの好みではなかった。
進むほどに匂いは濃くなっていく。
そして。
通路の突き当たり。
小さな部屋へ出た。
「…………」
ウィーンの足が止まった。
壁一面に棚がある。
その棚に。
白いものが整然と並べられていた。
「…………」
一つ。
二つ。
三つ。
十。
いや。
もっと。
頭蓋骨。
全て。
人の頭蓋骨だった。
しかも。
「……子ども……」
小さい。
明らかに、大人のものではない。
ウィーンの顔から表情が消えた。
そして。
先ほど聞いたばかりの言葉が蘇る。
『あんまりにも可愛い子だったんで、つい、ね』
『いただいちゃった』
『私は吸血鬼だもの。無垢な子どもの血が一番美味しいの』
「…………なるほど」
低い声が漏れた。
殺した。
それだけではない。
ミレボスは。
命を奪った幼い子どもたちの遺骨を、この部屋へ並べていた。
まるで。
戦利品でも飾るかのように。
《遺骨愛好家》。
ボーンコレクター。
そう呼ばれる異常な嗜好を持つ者がいることを、ウィーンは長い旅の中で聞いたことがあった。
「……あの女」
奥歯を噛み締める。
だが。
今は。
怒りよりも先に。
確かめなければならないことがある。
「…………!」
《アリアドネの糸》。
淡い光は。
まだ続いていた。
小さな頭蓋骨が並ぶ部屋を真っ直ぐ進み。
真正面の棚へ。
そして。
一つの頭蓋骨の前で。
光が止まっている。
「…………」
ウィーンの足取りが変わった。
ミレボスへ向かっていた時とは違う。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
壊れ物へ近づくように。
光の終着点へ歩いていく。
「……これか」
手を伸ばす。
だが。
触れる寸前で。
その指が止まった。
「…………」
震えていた。
あれほど多くの武器を自在に扱った手が。
ミレボスを追い詰めた手が。
今は。
小さく震えている。
ウィーンは一度、手を引いた。
深く息を吸う。
そして。
今度は。
両手で。
そっと。
棚から持ち上げた。
「…………」
軽かった。
あまりにも。
軽かった。
ウィーンは。
その小さな頭蓋骨を見つめる。
何年。
探しただろう。
どれだけ。
この瞬間を想像しただろう。
生きている可能性など。
とうの昔に捨てていた。
それでも。
せめて。
どこにいるのか。
何があったのか。
知りたかった。
「……ダン」
声が震えた。
小さな頭蓋骨を。
そっと胸へ抱き寄せる。
「ようやく……」
喉が詰まる。
「ようやく、会えたね」
かつて。
この腕で抱いた。
自分が産んだ息子。
温かくて。
柔らかくて。
泣けばうるさくて。
笑えば。
それだけで嬉しかった。
小さな手で指を握られただけで。
何だってしてやろうと思えた。
その子が。
今は。
こんなにも軽くなって。
腕の中にいる。
「…………」
ぽたり。
白い骨の上へ。
雫が落ちた。
「……あ」
そこで。
初めて。
自分が泣いていることに気づいた。
「……ごめん」
もう一滴。
「ごめんね……」
涙が。
次々と溢れてくる。
「母さん……遅くなっちゃったね……」
何年も。
何年も。
探した。
それでも。
見つけてやれなかった。
「ごめんね……ダン……」
ウィーンはその場へ膝をついた。
壊さないように。
落とさないように。
幼い子どもを抱くように。
小さな頭蓋骨を胸の中へ包み込む。
「ごめん……」
肩が震える。
「ごめんね……」
ミレボスは逃げた。
仇は討てなかった。
何一つ。
終わってなどいない。
それでも。
長い間。
胸の奥へ深く刺さっていた棘が。
ほんの一つだけ。
ようやく抜けた。
「…………」
どれほどそうしていただろう。
ウィーンは涙を拭った。
そして。
腕の中の息子へ。
小さく笑いかける。
「……帰ろう」
もう一度。
今度は。
はっきりと。
「一緒に帰ろうね、ダン」
◇ ◇ ◇
一方。
地下闘技場では。
「…………」
異様な静寂が広がっていた。
数百の観客たちが。
誰一人として声を発さない。
視線の先。
闘技場の中央には。
巨体を仰向けにして倒れたバオクがいた。
「…………」
ほんの少し前まで。
その名を叫んでいた観客たちは、目の前で何が起こったのか理解できずにいた。
不動のチャンピオン。
オークと巨人族の血を引く怪物。
そのバオクが。
たった一撃で。
地に沈んでいる。
やがて。
「ふ……」
一人の男が立ち上がった。
「ふざけんなあああああ!!」
静寂が。
一瞬にして弾け飛んだ。
「何やってんだバオク!!」
「もっと根性見せろ!!」
「立てええええ!!」
怒号。
罵声。
賭け札が宙を舞い。
酒杯が闘技場へ投げ込まれる。
「バ、バオク!!」
中でも。
最も焦っていたのは。
バヌだった。
「おい! 聞こえてんだろ!?」
舞台際まで駆け寄り、身を乗り出す。
「お前がやられちゃ終わりなんだ! 立て!」
「…………」
「立て! 立ってくれ、バオク!!」
「…………ぅ」
巨体が。
僅かに動いた。
「バオク!」
太い腕が床を押す。
一度。
崩れる。
それでも。
もう一度。
「……ぅ……」
肘を伸ばした。
膝をつき。
ふらつきながら。
立ち上がる。
「おおっ!!」
「立ったぞ!」
「やれ! バオク!」
観客席が再び沸き上がった。
だが。
神崎は笑わなかった。
「…………」
バオクの下顎が。
力なく垂れ下がっている。
先ほどの頭突きで砕けたのだろう。
口元からは血が絶え間なく流れ、床へ赤い染みを作っている。
目も。
焦点が合っていない。
それでも。
立った。
「殺せ!」
「やれ!」
「まだ戦えるだろ!」
罵声とも歓声ともつかない声が飛び交う。
神崎は。
ゆっくりと観客席を見上げた。
そして。
「――静まれ!!!!」
轟声。
闘技場そのものが震えた。
「…………!」
観客たちが息を呑む。
神崎はもう。
彼らを見ていなかった。
バオクだけを。
真っ直ぐ見据える。
「バオク」
「…………」
「この勝負――」
その時だった。
バオクが。
動いた。
「…………!」
もう。
二本の斧は手にない。
それでも。
左手を前へ。
右手を上へ。
最初に見せた。
あの二刀流の構え。
「…………」
まともに見えているかも分からない。
意識があるのかさえ。
怪しい。
それなのに。
身体は。
戦うための型を覚えている。
(……ああ)
神崎は。
静かに息を吐いた。
(やはり、こやつは凄い)
巨体だからではない。
オークと巨人族の血を引いているからでもない。
バオクには。
バオク自身が積み重ねてきたものがある。
構え。
足運び。
技。
何度倒れようとも。
自分を立たせる。
芯がある。
対して。
今の自分は。
若い肉体を与える《ダイヤング》。
人の限界を超えた力を与える《孤王》。
どちらも。
神から授けられたもの。
(……申し訳ないのう)
目の前の戦士に対して。
自然と。
そう思った。
そして。
ふと。
気づいた。
バオクだけではない。
セレナも。
マルタも。
カラリンも。
ガルドも。
リーナも。
ウィーンも。
ホムンクルスとして生まれ、それでも自分の意思で生きているライカも。
孤児院の子どもたちだって。
皆。
自分自身を持っている。
この世界で生き。
泣いて。
笑って。
傷ついて。
迷って。
それでも。
自分の手で。
何かを積み重ねている。
(ワシは……)
百十年。
前の世界で生きた。
会社を作った。
働いた。
失敗もした。
多くのものを手に入れた。
だが。
それらは。
神崎源一郎が。
前の世界で積み重ねたものだ。
この世界へ生まれた。
レオンとして。
(まだ、何も持っておらんのかもしれんな)
不思議と。
悲しくはなかった。
何も持っていないのなら。
これから。
手に入れればいい。
セレナたちのように。
ガルドのように。
そして。
目の前のバオクのように。
自分の手で。
「…………」
神崎の口元が。
ゆっくりと緩んだ。
バオクを見ていたはずなのに。
浮かんできたのは。
この世界で出会った者たちの顔だった。
胸の中に。
自然と。
一つの感情が湧き上がる。
尊敬。
敬意。
いや。
もっと。
単純でいい。
(……リスペクト、じゃな)
これまで出会った。
全ての者へ。
「バオク!」
「…………」
神崎が声を上げる。
バオクは構えを崩さない。
「この勝負――」
神崎は。
ニカッと笑った。
「預けておく!!」
「…………?」
バオクの眉が。
僅かに動いた。
そして。
神崎は。
くるりと背中を向けた。
「…………は?」
バヌが呟く。
観客たちも。
呆気に取られている。
神崎はそのままセレナのもとへ歩み寄った。
「ゲン……?」
「すまん。少し揺れるぞ」
「え?」
背中と膝裏へ腕を回す。
そのまま。
セレナを軽々と抱き上げた。
「ちょ、ちょっと……!」
「舌を噛むでないぞ」
「え?」
神崎が腰を落とす。
「待っ――」
――ドンッ!!
地面が爆ぜた。
砂煙が舞い上がる。
その中を。
セレナを抱えた神崎が。
脱兎のごとく駆け出した。
「…………」
場内が。
また。
静まり返る。
「…………」
バヌは口を開けたまま固まっていた。
観客たちも。
誰一人。
すぐには反応できない。
そして。
「…………え?」
バヌの口から。
間の抜けた声が漏れた。
次の瞬間。
「逃げたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」
絶叫が。
地下闘技場へ響き渡った。
「追え!」
「何してんだ!」
「俺の金返せえええ!」
再び怒号が爆発する。
その中心で。
ただ一人。
バオクは。
神崎が消えていった方向を見つめていた。
「…………」
構えていた左腕が。
ゆっくりと下がる。
右腕も。
力なく落ちる。
「…………」
砕けた顎では。
まともに言葉にならない。
それでも。
何かを呟いた。
「…………」
そして。
ほんの僅かに。
口元が緩んだ。
次の瞬間。
膝から力が抜ける。
「バオク!?」
バヌが叫ぶ。
巨体が。
ゆっくりと後ろへ傾いた。
――ズゥン!!
再び。
仰向けに倒れた。
「バオクぅぅぅぅぅぅ!!」
バヌの悲鳴と。
観客たちの怒号が。
地下闘技場を埋め尽くす。
だが。
神崎は。
もう振り返らなかった。
セレナを抱き。
仲間を連れて帰るために。
地下通路を。
全速力で駆け抜けていった。




