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第111話 百十歳、積み重ねたものと向き合います

 バオクの両手には、それぞれ一本ずつ斧が握られていた。


 ただでさえ巨大な身体に似合う、分厚い刃を持つ二本の戦斧。


 片方だけでも相当な重量があるはずだ。


 だが、バオクはそれを軽々と持ち上げると、左手の斧を前へ、右手の斧を頭上へ構えた。


「…………」


 神崎の目が細くなる。


(これは……)


 前世で見た、剣道の二刀流にどこか似ている。


 もちろん、握っているのは竹刀ではない。まともに受ければ人間など容易く両断するであろう戦斧だ。


 だが、その構えには妙な安定感があった。


 腰は落ちている。


 前へ出した左の斧は神崎の動きを牽制し、右の斧はいつでも振り下ろせる位置にある。


(こいつ……)


 先ほどまでとは違い、神崎の表情から完全に笑みが消えた。


(力に物を言わせるだけではないな)


 バオクが一歩踏み出す。


 ――ズン。


 さらに一歩。


 ――ズン。


 急がない。


 巨大な身体に任せて突進してくるわけでもない。


 神崎の間合いを測りながら、じりじりと距離を詰めてくる。


 その足運びにも無駄がない。


「…………」


 見れば見るほど分かる。


 この男は。


 強い。


 身体が大きいからでも。


 オークと巨人族の血を引いているからでもない。


 戦い方を知っている。


 おそらく。


 何度も。


 何度も。


 この闘技場で戦ってきたのだろう。


(恐らくは、自力で身につけたものじゃろう)


 構えも。


 足運びも。


 間合いの取り方も。


 誰かに教わったものなのか。


 自分で身につけたものなのか。


 それは分からない。


 だが、少なくとも。


 目の前の男が積み重ねてきたものだ。


 対して。


 今の自分は――。


 若返った肉体。


 人の限界を超えた力。


 速度。


 反射。


 感覚。


 そのどれも。


(神様からの借り物、か)


 神崎は小さく息を吐いた。


 別に。


 使うことを躊躇うつもりはない。


 セレナとガルドを連れて帰るためなら、使えるものは何でも使う。


 それでも。


 目の前で真っ直ぐ自分と向き合っている戦士を見ていると。


 ほんの少しだけ。


 申し訳なさのようなものが胸に浮かんだ。


(……すまない)


 ならば。


 せめて。


 神崎は腰を落とした。


「…………?」


 観客席から、ざわめきが起こる。


 両手を地面へ。


 片膝を深く曲げ。


 もう片方の脚を後方へ引く。


 前世で言うところの――。


 短距離走。


 クラウチングスタート。


「なんだ、あの構え?」


「四つん這い?」


「何する気だ?」


 奇異の目が神崎へ集まる。


 この世界では見慣れない姿勢なのだろう。


 だが。


「…………」


 バオクだけは。


 笑わなかった。


 左の斧を前へ。


 右の斧を上へ。


 その構えを一切崩さない。


 神崎が何をするつもりなのか分からないからこそ、僅かな油断もしない。


(やはり)


 神崎は地面へついた指へ力を込めた。


(お主は戦士じゃな)


 ならば。


 こちらも。


 百十年の人生で得たものを使おう。


 この世界の神から与えられたものではない。


 前世で見て。


 知って。


 覚えてきたもの。


(せめて、ワシが知っている知識で――)


 ゆっくりと。


 視線を上げる。


 バオクと目が合った。


(お主と勝負したい)


「行くぞ」


「…………!」


 次の瞬間。


 神崎が消えた。


 ――ドンッ!!


 踏み切った地面から砂煙が爆発する。


「うおっ!?」


 観客が目を見開いた時には、すでに神崎はバオクの間合いへ飛び込んでいた。


「……ッ!」


 だが。


 バオクは反応した。


「ぬぅっ!」


 頭上に構えていた右の戦斧を振り下ろす。


 巨体から放たれた一撃。


 轟音と共に。


 刃が神崎へ――。


 ――外れた。


「……!?」


 斧が地面を叩き割る。


 だが。


 そこに神崎はいない。


 さらに。


 内側。


 巨大なバオクの懐。


 その足元まで潜り込んでいた。


「…………!」


 バオクが目を見開く。


 神崎は。


 地面を蹴った。


 飛燕のごとく。


 一気に。


 巨体の懐から跳び上がる。


「――ぬんっ!」


 振り抜くのは。


 拳ではない。


 頭。


 狙うのは。


 遥か上にあるバオクの顎。


 ――ズウンッ!!


 重い音が。


 地下闘技場に鳴り響いた。


     ◇ ◇ ◇


 一方。


 神崎たちが闘技場で騒ぎを起こしている頃。


 ウィーンは、地下のさらに奥へと進んでいた。


 歩みに迷いはない。


 分かれ道へ差しかかっても立ち止まらず、右へ、左へと進んでいく。


 その足元には。


 淡い光が、点々と続いていた。


 まるで。


 暗闇の中に一本の糸を垂らすように。


「…………」


 ウィーンは無言で、その光を追う。


 《アリアドネの糸》。


 そう呼ばれるマジックアイテムがある。


 目的地。


 あるいは、探し求める人物や物。


 それを強く思い浮かべることで、使用者をそこへ導く希少な品だ。


 ただし。


 一度きり。


 使えば失われる。


 金を積めば簡単に買えるようなものでもない。


 それでもウィーンは。


 今日。


 迷わず使った。


 この日のために。


 各地を旅した。


 武器を集め。


 金を蓄え。


 道具を探し。


 いつか来るその時のために。


 少しずつ。


 準備してきた。


 足元の光が。


 一つ。


 また一つと。


 前方へ伸びていく。


 やがて。


 その先に。


 一枚の重い扉が現れた。


「…………」


 ウィーンは立ち止まる。


 扉を見上げた。


 長い間。


 ずっと。


 思い描いてきた場所。


 指先が。


 僅かに震える。


 だが。


 それも一瞬だった。


「……やっと」


 扉へ手をかける。


 力を込めた。


 ――ギィィィ……。


 重い音を立てながら、ゆっくりと開いていく。


 その向こうには。


 豪奢な椅子。


 そして。


 そこへ腰掛ける一人の女。


 青白い肌。


 肩より下まで伸びる銀色の髪。


 身体を覆っているのは、下着と見紛うほど布面積の少ない派手な衣服。


 細い脚を組み。


 長いパイプを口元へ運んでいる。


 部屋には換気用と思われる小さな穴がいくつか開いていたが、それでも煙草の匂いは濃かった。


「…………」


 ウィーンの目が。


 鋭く細まる。


「ミレボス……!」


「あら?」


 ルーラー・ミレボスは。


 驚いた様子すら見せなかった。


 ただ。


 少しだけ首を傾げる。


「おかしいわね」


 パイプから。


 ゆっくりと煙を吐き出す。


「ここには、ウチの関係者しか辿り着けないようになってるはずなんだけど」


 ウィーンを見つめ。


 妖艶に微笑む。


「……どちら様?」


「…………」


 ウィーンの拳が。


 きつく握られる。


 忘れている。


 目の前の女は。


 自分のことなど。


 覚えてすらいない。


「……曲刀使いのワケットを」


 声が低くなる。


「覚えているか?」


「ワケット?」


 ミレボスは。


 一瞬。


 宙を見るように目を上げた。


「…………ああ」


 やがて。


 思い出したように笑う。


「元チャンピオンの」


 パイプを指先で軽く揺らす。


「ええ。覚えているわよ」


 そして。


 何でもないことのように。


「確か、死んだはずだけど」


「…………」


 ウィーンの肩が震えた。


「ワケットは……」


 一度。


 言葉が詰まる。


 それでも。


 押し出した。


「私の旦那だ!!」


 声が部屋に響いた。


「…………」


 ミレボスは。


 少しだけ目を丸くした。


 しかし。


 すぐに。


 「ああ」と納得したように頷く。


「そういうこと」


 面白そうに笑った。


「それで、こんなところまで?」


「…………」


「でも」


 ミレボスは。


 再び脚を組み直す。


「ワケットは、現チャンピオンに敗れただけよ」


 煙を吐く。


「闘技場だもの」


 まるで。


 当たり前のことを説明するように。


「それは仕方のないことじゃない?」


「ふざけるな……」


 ウィーンの声が震える。


「あいつは……」


 奥歯を噛みしめる。


「闘技場を辞めるつもりだった!」


「…………」


「守るべきものが出来たからここではもう戦わないって……そう言ってた!」


 一歩。


 前へ出る。


「あんたらは、それを許さなかった」


 ミレボスの表情は変わらない。


「幼い息子を人質にして……!」


 ウィーンの目に。


 怒りが宿る。


「無理矢理、殺し合いをさせた!!」


「…………」


 少しの沈黙。


 そして。


 ミレボスは小さく笑った。


「あのねぇ」


 面倒な客を相手にするような口調だった。


「闘技場で戦っていて」


 パイプを灰皿へ軽く打ちつける。


「都合が悪くなったから、いきなり辞めます」


 肩をすくめる。


「そんな話が通ると思う?」


「…………」


「こっちにだって生活があるのよ?」


 あまりにも。


 軽かった。


 ワケットの死も。


 人質にされた子どものことも。


 全部。


 商売上の都合。


 その程度のものとして扱っている。


 ウィーンの爪が。


 掌へ食い込む。


「……ワケットだけなら」


 声が掠れる。


「まだ……分かる」


 いや。


 本当は。


 それだって。


 分かりたくなどない。


 だが。


「どうして……」


 ウィーンが顔を上げる。


「どうして、あの子まで……!」


「…………」


 その瞬間。


 ミレボスの口元が。


 ゆっくりと吊り上がった。


「ああ」


 思い出した。


 そんな顔。


「あの子ね」


 パイプを唇から離す。


「あんまりにも可愛い子だったから」


 ニヤリ。


「つい、ね」


「…………?」


 一瞬。


 ウィーンには。


 意味が分からなかった。


 だが。


 ミレボスが笑う。


 その口元から。


 鋭い牙が覗いた。


「……いただいちゃった」


「…………」


 ウィーンの顔から。


 血の気が引いた。


「私」


 ミレボスは。


 その反応を楽しむように。


 ゆっくりと舌で牙をなぞる。


「吸血鬼だもの」


 笑う。


「無垢な子どもの血って」


 そして。


 まるで。


 極上の酒の味でも語るかのように。


「一番、美味しいのよ」


「…………」


 ウィーンは。


 動かなかった。


 怒鳴りもしない。


 泣きもしない。


 ただ。


 ゆっくりと。


 腰へ手を伸ばした。


「…………そう」


 低い声。


 静かすぎるほど。


 静かな声だった。


「やっぱり……」


 鞘から。


 武器が抜かれる。


「来てよかったよ」

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