第109話 百十歳、再び孤王になります
時は少し遡る。
ウィーン武器商店。
「それじゃあ、もう一つ確認しておくよ」
マルタはテーブルに両手をつき、神崎を見上げた。
「《孤王》についてだ」
「うむ」
「一人で戦っている時にしか使えない。そこまでは分かったけど、具体的にはどんな力なんだい?」
「そうじゃな……」
神崎は少し考えた。
《孤王》を使ったのは、これまでに二度だけ。
セレナを連れ戻しに来た六人の男たちを相手にした時と、昇給試験の時にワイバーンに襲われたときだ。
「簡単に言えば、身体能力のほぼ全てが人の限界を超える」
「ほぼ全て?」
「力、速さ、跳躍力、反射速度。平衡感覚に身体を操る能力。それに、感覚そのものも鋭くなる」
あの時は、六人の呼吸や足音だけではなく、弓弦が軋む音や風に揺れる葉の音まで聞き分けることができた。
三本同時に放たれた矢も、見てから避けられた。
「力に関しては、軽く押したつもりで人が数メートル吹き飛んだ」
「……軽く?」
ウィーンが眉を上げる。
「本当に軽くじゃ。むしろ、加減する方が難しい」
「それはまた、随分と物騒な能力だねぇ」
マルタは腕を組んだ。
「つまり、力が強くなるだけじゃない。見る、聞く、反応する、動く。その全部が強化される」
「そう考えてもらって構わん」
「ただし、一人で戦っている時だけ」
「うむ」
「私たちが近くにいるだけなら?」
「問題ない。じゃが、ワシが戦っている相手に誰かが加勢すれば、その時点で《孤王》は使えなくなる」
「なるほどね」
マルタはしばらく黙り込んだ。
やがて、テーブルを指先で軽く叩く。
「だったら、使い方は決まった」
「ほう?」
「レオン。あんたは中で暴れな」
「……暴れろと?」
「ああ。できるだけ派手にね」
神崎は眉を上げた。
「随分と婆さんらしくない作戦じゃのう」
「誰が婆さんだい」
睨まれたので、それ以上は言わないことにした。
「地下闘技場の連中の目を、できるだけあんたに集める。その間に私とカラリンが外から逃走経路を作る」
「わ~た~し~と~、し~しょ~で~?」
「ああ。準備が整ったら合図を出すよ」
マルタは神崎を見る。
「合図が聞こえたら、セレナとガルドを連れて一気に逃げる。それまでに二人を見つけておくんだ」
「分かった」
「闘技場を潰そうなんて考えるんじゃないよ。目的は二人を連れて帰ることだ」
「承知しておる」
何しろ、《ダイヤング》には時間制限がある。
発動から一時間。
欲を出している余裕などない。
「それなら」
それまで黙っていたウィーンが口を開いた。
「私も中に入るよ」
「中に?」
「ああ」
煙草を指に挟みながら、ウィーンは神崎へ視線を向けた。
「私もあんたほどじゃないけど、中で少し動かせてもらう」
「……何をするつもりじゃ?」
「色々とね」
「色々では分からん」
「大丈夫。あんたの邪魔はしないよ。《孤王》ってのが使えなくなったら困るんでしょう?」
軽い調子だった。
しかし。
神崎には引っかかった。
先ほどウィーンは、自分にも戦う理由があると言った。
今の言葉も、ただセレナとガルドを助けるためだけのものには聞こえない。
「……何を考えておる」
「別に」
「嘘じゃな」
「即答?」
「百十年も人間を見てきたんじゃぞ」
「便利だねぇ、百十歳」
ウィーンは笑った。
だが、神崎は笑わない。
やがて。
ウィーンの方が先に根負けしたように、煙を細く吐き出した。
「……昔の因縁に」
一瞬だけ。
その目から、いつもの軽さが消える。
「決着をつけに行く」
「一人でかい?」
マルタが眉を寄せた。
「危なすぎるよ」
「危なくなったら助けてよ」
ウィーンは神崎を見る。
「その無敵の能力でさ」
「無敵ではないわい」
「似たようなものでしょう?」
「全然違う」
ウィーンは小さく笑った。
それ以上、何があったのかを語ろうとはしなかった。
神崎も問い詰めなかった。
誰にでも。
話したくない過去くらいある。
百十年も生きていれば、それくらいは分かる。
「……分かった」
神崎は息を吐いた。
「じゃが、本当に危なくなったら逃げろ」
「分かってるよ」
「本当かのう」
「心配性だね」
「百十年生きたから心配性なんじゃ」
ウィーンは肩をすくめた。
マルタが話を戻すように、テーブルを叩く。
「決まりだね」
レオンが中で敵の注意を引く。
マルタとカラリンは外から逃走経路を確保する。
ウィーンは内部で別行動。
そして。
合図の後に。
セレナとガルドを連れ出す。
「いいかい」
マルタは三人を見回した。
「必ず全員で帰るよ」
◇ ◇ ◇
――ドンッ!!
試作体の巨体が、闘技場を横切った。
反対側の石壁へ叩きつけられ、轟音と共に壁の一部が砕ける。
土煙が舞い上がった。
「…………」
静まり返る。
つい先ほどまで。
殺せ。
血を見せろ。
逃げるな。
そんな汚い野次を飛ばしていた観客たちが。
一斉に口を閉ざしていた。
「……ゲン?」
背後から。
小さな声がした。
神崎は振り返る。
地面に倒れたセレナが、呆然とこちらを見上げていた。
当然だろう。
この姿で彼女の前に現れるのは、初めてではない。
かつて。
ワイバーンを雷槍で撃ち落とした夜。
自分はこの姿でセレナの前に立ち。
レオンの父親――ゲン。
などという。
今思い返しても無理のある嘘をついた。
(……あれについても、いずれ謝らねばならんのう)
だが。
今は。
それどころではない。
「話は後じゃ」
神崎はセレナへ笑いかけた。
「お主は休んでおれ」
「でも……」
「大丈夫じゃ」
それだけ言って。
神崎は前を向いた。
ズズ……。
崩れた石が動く。
土煙の向こうから。
試作体が立ち上がった。
「ほう」
神崎の拳を受けた腹部は、大きく陥没している。
普通の生物なら、立ち上がるどころではない。
だが。
試作体は痛がる様子すら見せなかった。
首を僅かに傾け。
神崎を見る。
次の瞬間。
神崎の心臓が、大きく鳴った。
観客たちの息遣い。
服が擦れる音。
杯が置かれる音。
遠くで誰かが唾を吐いた音。
背後から聞こえるセレナの荒い呼吸。
そして。
試作体の身体の奥で、何かが軋むような微かな音まで。
全てが。
はっきりと聞こえる。
(懐かしいのう)
身体が軽い。
《ダイヤング》だけでも、全盛期の肉体を取り戻している。
だが。
《孤王》が発動した今。
それすら。
今まで枷をつけていたのではないかと思える。
「さて」
神崎は両手を軽く開いた。
「来い」
試作体が消えた。
否。
速すぎて。
普通の目ではそう見えただけだ。
右腕が鞭のように伸びる。
セレナを追い詰め。
金属の鎧すら両断した斬撃。
それが神崎の首へ迫る。
(見える)
僅かに首を傾けた。
ヒュンッ!
頬のすぐ横を刃が通り過ぎる。
そのまま。
左腕。
先端が鋭く尖った。
胸を狙った刺突。
一歩。
横へ。
避ける。
右。
左。
上。
下。
鞭。
槍。
刃。
試作体の腕が次々と形を変え、あらゆる方向から神崎へ襲いかかる。
それでも。
当たらない。
「…………」
セレナは。
言葉を失っていた。
自分が致命傷を避けるだけで精一杯だった攻撃を。
ゲンは。
まるで。
散歩でもしているように避けている。
「なんだよ、あいつ……」
観客席から。
ようやく声が漏れた。
「全部避けてるぞ」
「ふざけんな!」
「やれー!」
「首飛ばせー!」
静寂が破れ。
再び汚い野次が飛び始める。
だが。
それでいい。
(もっとじゃ)
神崎は試作体の攻撃を避けながら、観客席を一瞥した。
(もっとワシを見ろ)
自分の役目は。
この試作体を倒すことではない。
少なくとも。
まだ。
倒してはいけない。
中にいる連中。
見張り。
観客。
可能な限り多くの目を。
自分へ集める。
その間に。
マルタとカラリンが。
逃走経路を作る。
そして。
ウィーンが。
何かをする。
(……何をするつもりかは知らんがのう)
試作体の刃が、再び首を狙う。
神崎は上体だけで避けた。
そして。
口元を緩める。
「どうした」
試作体に言葉が通じるかどうかなど知らない。
それでも。
観客には聞こえる。
「その程度か?」
「…………!」
試作体の身体が蠢いた。
両腕が膨らむ。
表皮が波打ち。
腕がさらに長く。
太く。
そして。
いくつもの鋭い刃が生えていく。
「オオオオオオ!!」
観客たちが沸いた。
「そうだ! やれ!」
「バラバラにしろ!」
「ギャハハハハ!」
「…………」
神崎は笑った。
(よし)
完全に。
こちらを見ている。
「さあ」
軽く腰を落とす。
「もう少し、派手にやろうかのう」
◇ ◇ ◇
その頃。
地下闘技場の外。
「……始まったね」
遠くから。
微かな振動が伝わってきた。
カラリンが大きな耳をぴくりと動かす。
「レ~オ~ン~、あ~ば~れ~て~る~?」
「たぶんね」
マルタは答えながら。
目の前を見た。
ここからが。
自分たちの仕事だ。
「カラリン」
「は~い~」
「急ぐよ」
「う~ん~!」
二人は。
すぐさま動き始めた。
◇ ◇ ◇
一方。
もう一人。
ウィーンは。
神崎とも。
マルタたちとも。
別の場所にいた。
薄暗い地下通路。
遠くから。
闘技場の歓声が聞こえてくる。
「…………」
その声を聞きながら。
ウィーンは歩いていた。
迷いはない。
初めて来た場所を探るような足取りでもなかった。
右へ。
その先を左へ。
さらに奥へ。
店を出る前まで浮かべていた笑みは。
もう。
どこにもない。
腰には一本の武器。
そして。
その手には。
火のついていない煙草。
「……相変わらず」
立ち止まる。
遠くから聞こえる。
笑い声。
歓声。
誰かが傷つくことを期待する。
下卑た声。
ウィーンの指が。
僅かに震えた。
「嫌な音だね」
煙草を。
ゆっくりと握り潰す。
そして。
顔を上げた。
通路の先。
さらに地下へ続く。
階段。
「…………」
ウィーンは。
一人。
そこへ足を踏み入れた。
長い間。
終わらせることのできなかった。
昔の因縁に。
決着をつけるために。




