第106話 百十歳、姿を変えます
固いパン。
ほとんど味のしないスープ。
ひどく古びたカップに注がれた、ぬるい水。
そして――。
「…………」
何の肉なのか分からない干し肉。
それが、セレナに用意された夕食だった。
牢に入れられている身なのだから、食事が出るだけマシなのかもしれない。そう自分に言い聞かせながら、セレナは固いパンをスープに浸して、少しずつ胃に流し込んでいった。
美味しいとは思わない。
けれど、明日は戦わなければならない。
相手が誰なのか。
どれほど強いのか。
何も分からない以上、食べられるものは食べておくべきだ。
そうしてパンを食べ終え、味の薄いスープも飲み干した。
ぬるい水も我慢して口にする。
残ったのは。
「…………」
干し肉だけだった。
セレナは摘まみ上げることすらせず、それを見つめた。
「……これは無理」
何の肉なのか分からない。
別に珍しい肉を食べたことがないわけではない。
だが、この地下闘技場で出される、何の肉かも分からない干し肉となると話は別だ。
聞けば教えてくれるのかもしれない。
しかし。
聞いてしまったら、余計に食べられなくなる気がした。
「ごちそうさま」
「へえ」
傍らで待っていたララカオが、いそいそと食器を片付け始めた。
古びた皿を重ね、その上へスープの器を載せる。
そして、最後に手つかずの干し肉を見た。
「…………」
「…………」
二人の視線が干し肉に集まる。
「……すみませんだ」
「なんでララカオが謝るのよ」
「へえ?」
「あなたが作ったわけじゃないんでしょう?」
「へえ。私は運んできただけですだ」
「だったら謝らなくていいわ」
「…………」
ララカオは少し不思議そうな顔をした。
やがて。
ふっと笑った。
「セレナ様は、お強いですね」
「……何が?」
「あのマーダーを、たったの二撃で倒したのだとか」
「…………」
一瞬。
セレナの脳裏に、血を噴き出して倒れたワーウルフの姿が蘇った。
その直後。
歓声を上げた観客たちの顔も。
「今、私たちはその噂でもちきりですよ」
「……そう」
セレナの返事は短かった。
自慢するようなことでもない。
あれは試合ですらなかった。
目の前で命を奪った男に腹が立って。
ただ。
力いっぱい蹴り飛ばした。
それだけだ。
「明日の戦い」
ララカオが食器を抱え直した。
「頑張ってくだせえ」
「…………」
「私も応援しております」
「……ありがとう」
嬉しそうに笑うララカオを見て。
セレナは、昼間から気になっていたことを思い出した。
「ねえ、ララカオ」
「へえ。なんでしょう」
「…………」
少し迷ってから。
「故郷に戻りたくはないの?」
ララカオの動きが止まった。
「故郷……」
「うん」
「…………」
「ドワーフの故郷があるんでしょう?」
ララカオは食器を抱えたまま、しばらく黙っていた。
「それは……」
やがて。
困ったように笑った。
「戻りたいですけども」
「だったら――」
「でも、そんな方法はありませんで」
「……どうして?」
「どうして、と言われましても……」
ララカオは視線を落とした。
「どこにあるのかも知りません」
「…………」
「私が小さかった頃にいたところだとは聞いております。でも、私は覚えておりませんで」
それは、昼間に聞いた話と同じだった。
物心ついた頃には。
もう、この地下にいた。
「ここからどうやって出るのかも、私は知りません」
「…………」
「だから、戻りたいと思ったところで」
ララカオは笑う。
「戻りようがありませんだ」
「だったら」
セレナは考えるより先に口を開いていた。
「私が――」
「やめてくだせえ」
「……え?」
初めてだった。
ララカオが。
セレナの言葉を遮った。
「…………」
ララカオ自身も驚いたのか。
すぐに申し訳なさそうに頭を下げる。
「す、すみませんだ」
「いや……いいけど」
「セレナ様」
「何?」
「あなたは、少し……優しすぎるんだと思います」
「…………」
今度は。
セレナが目を丸くした。
「私が?」
「へえ」
「…………」
そんなことを言われた記憶は、あまりない。
むしろリーナあたりには、昔から頑固だの無茶をするだのと言われてきた。
「今日会ったばかりの私のために、何かしようとしてくださる」
「…………」
「でも」
ララカオは小さく首を横に振った。
「明日は、大事な戦いなのでしょう?」
「……うん」
「だったら、ご自分のことを考えてくだせえ」
「…………」
「私のことなんかで、余計なことを考えないでくだせえ」
セレナは答えなかった。
――私のことなんか。
その言葉が。
なぜか引っ掛かった。
「失礼いたしました」
ララカオは、また深々と頭を下げた。
そして。
「あの……でも」
「?」
「あなた様に、そんなことを言ってもらえて」
少し照れくさそうに。
笑った。
「嬉しく感じましただ」
「…………」
「では。おやすみなさいませ」
「……おやすみ」
食器を抱え。
ララカオは辿々しい足取りで去っていく。
その小さな背中を。
セレナは黙って見送った。
「…………」
やがて。
再び一人になった。
壁へ背中を預ける。
目を閉じる。
――私のことなんか。
「…………」
やっぱり。
妙に耳に残った。
けれど。
今は。
ララカオの言う通りだ。
まずは明日。
勝たなければならない。
ガルドのために。
自分のために。
マルタ。
カラリン。
そして。
レオンのために。
孤児院で待っている、みんなのために。
「…………」
勝って。
全部取り戻して。
帰る。
まずは。
それだけを考えよう。
セレナはゆっくり息を吐いた。
身体から力を抜く。
明日に備えて。
少しでも。
身体を休ませるために。
そして。
静かに。
眠りへと落ちていった。
◇
一方、その頃。
《ウィーン武器商店》では。
「…………」
マルタが頭を抱えていた。
もちろん。
セレナとガルドを地下闘技場から連れ戻す方法についてである。
使い魔を総動員させ。
力ずくで奪うか。
「……駄目だね」
すぐに却下する。
地下闘技場の構造すら把握できていない。
相手の戦力も分からない。
そんな状況で暴れれば。
中にいるセレナやガルドの安全を保証できない。
では。
自分たちも地下闘技場へ潜入する?
それも論外だ。
自分だけならまだしも。
カラリン。
レオン。
そして。
この件とは無関係だったはずのウィーンまで巻き込むことになる。
「…………」
ならば。
国へ訴えかける。
あれだけ大規模に人や亜人を扱い、死ぬまで戦わせているのだ。
証拠さえ揃えば。
国に動いてもらえる可能性はある。
だが。
「時間がかかりすぎる……」
明日。
セレナは戦う。
その前に間に合わなければ意味がない。
「…………」
マルタは椅子の背もたれへ身体を預けた。
では。
セレナとガルドだけを連れ出す。
誰にも見つからず。
戦うこともなく。
地下闘技場から脱出する。
「…………」
どうやって。
「ったく……!」
考えが最初に戻る。
マルタは両手で頭を抱えた。
その時だった。
「し~しょ~」
「……なんだい、カラリン」
「レ~オ~ン~が~」
「おしめの時間かい?」
「ち~が~う~」
「お腹でも空いた?」
「そ~れ~も~ち~が~う~」
「じゃあ何だい」
「お~お~き~く~な~って~る~!」
「…………」
マルタは顔を上げなかった。
「赤ん坊ってのは、そういうもんだろ」
「そ~じゃ~な~く~て~!!」
「……?」
さすがに。
様子がおかしい。
マルタはゆっくりと顔を上げた。
「…………」
そこに。
一人の男が立っていた。
「…………は?」
灰色の革ズボン。
深い緑色のジャケット。
後ろへ撫でつけられた髪。
精悍な顔つき。
年齢は二十代ほどだろうか。
つい先ほどまで。
この店にはいなかった男。
「…………」
マルタの思考が止まる。
侵入者?
いや。
どうやって?
入口は目の前にある。
誰かが入ってくれば、気づかないはずがない。
「…………」
カラリンは。
口をぽかんと開けていた。
ウィーンも。
煙草を持ったまま。
完全に固まっている。
「れ~……」
カラリンの口が震えた。
「レ~オ~ン~……?」
「…………」
男がカラリンを見る。
そして。
どこか懐かしそうに。
笑った。
「うむ」
「…………」
「…………」
「…………」
三人。
誰も動かない。
「……は?」
マルタの口から。
もう一度。
同じ言葉が漏れた。
「レオン……?」
「そうじゃ」
「…………」
声も違う。
姿も違う。
何もかも違う。
なのに。
その目。
その妙に落ち着き払った表情。
そして。
時折、赤ん坊らしからぬ顔をしていたレオンと。
確かに。
重なるところがある。
「お、おい……」
マルタが立ち上がる。
「どういうことだい?」
「…………」
男は。
少し困ったように笑った。
「それについても話さなければならんのう」
「話すって……」
「その前に」
男は。
三人を順番に見た。
マルタ。
カラリン。
そして。
ウィーン。
「一つ」
息を吐く。
「謝らなければならん」
「…………」
「今まで黙っていて悪かった」
マルタの眉が寄る。
「何を……」
「ワシは」
男は自分の胸へ手を当てた。
「お主らが知っているレオンじゃ」
「…………」
「じゃが」
続ける。
「それだけではない」
「…………?」
カラリンが。
恐る恐る尋ねる。
「ど~う~い~う~こ~と~?」
「ワシには」
一拍。
「レオンとして生まれる前の記憶がある」
「…………」
マルタの目が見開かれる。
ウィーンの煙草が。
僅かに下がった。
「前の人生で」
男は。
ゆっくりと言った。
「ワシは、百十年生きた」
「…………」
「そして死んだ」
「…………」
「その後」
自分の身体を見る。
「この世界で」
もう一度。
三人を見る。
「レオンとして生まれた」
「…………」
沈黙。
誰も。
言葉を返せない。
男は。
少しだけ頭を下げた。
「神崎源一郎」
「……何?」
「それが」
顔を上げる。
「前の人生での、ワシの名じゃ」
「…………」
「今まで言い出せず、黙っていて悪かった」
そして。
神崎源一郎は。
まっすぐ三人を見た。
「全てを話す」




