第104話 地下に潜むもの
《ウィーン武器商店》。
赤い看板と、そこに描かれた金色の斧が見えてきたところで、マルタはようやく小さく息を吐いた。
「つ~い~た~……」
隣を歩くカラリンも、ぐったりと肩を落としている。
その腕には、ウィーンから借りた茶色の背嚢。
中にはレオンが入っていた。
「あぅ……」
背嚢の隙間から聞こえてくる声にも、どことなく元気がない。
「……まったく」
マルタは店の前で立ち止まり、後ろを振り返った。
当然だが、セレナもガルドもいない。
二人を地下闘技場へ残してきた。
あの場で自分たちまで飛び込めば、レオンまで危険に晒していた可能性がある。
判断そのものは間違っていない。
そう思っていても。
仲間を置いてきたという事実は、どうにも胸に引っ掛かった。
「入るよ」
「う~ん~」
扉を開ける。
カラン。
小さなベルの音が店内に響いた。
「おや」
カウンターの奥から声がする。
「お帰り」
ウィーンは数時間前とほとんど変わらない姿で、椅子に腰掛けていた。
だが、入ってきた三人を見るなり、僅かに眉を寄せる。
「どうしたんだい? 浮かない顔して」
そう言いながら、ウィーンは煙草へ手を伸ばした。
「ちょっと面倒なことになってね……」
マルタが答える。
「ふぅん?」
煙草を口に咥えたウィーンの目が細くなる。
マルタはその視線から逃げるように、カラリンの抱えている背嚢へ目を向けた。
「この背嚢だけど、もう少し貸してくれないかい」
「そりゃ構わないけど」
ウィーンが煙草へ火を点ける。
ふう、と細い煙が上がった。
「…………」
その目線がゆっくりと動く。
カラリン。
背嚢。
マルタ。
そして。
もう一度、店の入口へ。
「そういえば」
ウィーンが煙を吐き出す。
「あのお嬢さんは?」
「…………」
「それに、お友達は見つからなかったのかい?」
誰も答えなかった。
カラリンが気まずそうに視線を落とす。
「あぅ」
沈黙の中。
背嚢からレオンの声だけが聞こえた。
「……さっきも言った通り」
やがて、マルタが口を開く。
「面倒なことになったんだ」
「…………」
「あんたを巻き込みたくない」
ウィーンは何も言わなかった。
ただ、煙草を指に挟んだままマルタを見つめる。
そして。
「……まあ、座りなよ」
「…………」
「事情くらい聞いたっていいだろう?」
ウィーンは何でもないことのように言った。
「それとも、立ち話で済ませるような内容なのかい?」
「……いや」
「なら決まり」
ウィーンはカウンターの奥へ引っ込むと、顎で店の奥を示した。
「お茶くらい出すよ」
「わ~た~し~も~?」
「もちろん」
「や~っ~た~!」
「……あんたは少し緊張感を持ちな」
マルタが呆れたように言う。
そんな二人を見て、ウィーンが小さく笑った。
「ほら、おいで」
「……悪いね」
「聞いてから決めるよ」
「何をだい?」
「巻き込まれるかどうか」
「…………」
マルタは少しだけ目を細めた。
やはり。
ただの武器屋ではない。
◇
「――なるほどね」
一通りの話を聞き終えたウィーンは、煙草を灰皿へ押しつけた。
テーブルの上には三つの茶器。
マルタの前。
カラリンの前。
そして、何故かレオンの前にも置かれている。
もちろん、赤ん坊であるレオンに熱い茶など飲ませられない。
背嚢から出されたレオンは、マルタの膝の上から湯気を見つめていた。
「私が行くなと言った意味」
ウィーンが二人を見る。
「少しは分かっただろう?」
「ああ」
マルタが深く息を吐く。
「嫌ってほどね」
「が~る~ど~は~、み~つ~か~っ~た~け~ど~……」
カラリンの声が沈む。
「その友達は、亜人の骨を取り戻すために自分から試合へ出た」
「ああ」
「対戦相手のワーウルフを殺すのを拒んだ」
「ああ」
「それでセレナが飛び込んで、地下闘技場の一番強い奴を出せと言った」
「……ああ」
「連続殺人鬼を二発で沈めた」
「…………」
ウィーンが黙った。
「それで、明日。地下闘技場が用意する相手と戦うことになった」
「…………」
長い沈黙。
ウィーンは新しい煙草を取り出した。
火を点ける。
一度、大きく吸う。
「……あのお嬢さん」
煙を吐きながら。
「思ってたより頭おかしいね」
「否定できないのが困るんだよ」
「せ~れ~な~、お~こ~っ~て~た~」
「だろうね」
ウィーンは額を指で押さえた。
「それで?」
マルタを見る。
「あんたたちはどうするつもり?」
「決まってる」
マルタは即答した。
「あの二人を連れ戻す」
「方法は?」
「それを考えるために、一度戻ってきた」
「へえ」
「……悪いかい?」
「いや」
ウィーンの表情が変わった。
「ただね」
声が少し低くなる。
「あそこへ正面から乗り込むのはやめた方がいい」
「分かってる」
「だったら話は早い」
ウィーンは煙草を灰皿へ置いた。
「地下闘技場がどういう連中と繋がっているのか、私は知らない」
「……知らない?」
「知ろうとも思わなかったからね。私はあそこが嫌いだと言っただろう?」
ウィーンは椅子へ深く腰掛ける。
「ただ、あれだけ大っぴらに人や亜人を集めて、賭け事をして、奴隷まで動かしている。それなのに今まで潰されていない」
「…………」
「理由がないとは思わない方がいい」
マルタの表情が険しくなった。
「つまり、下手に動けば」
「誰が出てくるか分からない」
「……面倒だね」
「だから言ったじゃないか」
ウィーンは苦笑した。
「面倒な場所だって」
「あぅ」
レオンが声を上げる。
ウィーンの視線がそちらへ向いた。
「ん?」
「あぅ、あー」
レオンは小さな手を伸ばしていた。
南の方角へ。
「……レオン?」
マルタが眉を寄せる。
もう一度。
レオンが手を伸ばす。
地下闘技場のある方角へ。
その小さな顔が。
僅かに強張っていた。
◇
一方、その頃。
地下闘技場のさらに奥深く。
観客の歓声さえ届かない地下通路の最奥に、一枚の巨大な扉があった。
分厚い鉄で作られた、重々しい扉。
その前に立っていたのは、先ほどまで闘技場で観客を煽っていた司会の男だった。
だが。
今の彼に、あの軽薄な笑みはない。
背筋を伸ばし、扉の前に立つ姿には、明らかな緊張が見て取れた。
「ルーラー・ミレボス。入ってもよろしいですか」
返事はない。
代わりに。
ガンッ。
扉の向こうから、何か硬いものを一度だけ叩く音がした。
それが「イエス」の意味。
二度なら「ノー」。
この部屋を訪れる者なら、誰もが知っている決まりだった。
「失礼します」
男は巨大な扉を押し開けた。
「今日は大盛り上がりだったようじゃない」
中から女の声がした。
部屋の中央。
豪奢な椅子に、一人の女が腰掛けている。
青白い肌。
肩より下まで流れる銀色の髪。
身体を覆っているのは、下着と見紛うほど肌の露出が多い派手な衣装だった。
その妖艶な女――ルーラー・ミレボスは、細長いパイプへ火をつける。
ゆっくりと脚を組み替えながら、入ってきた男を横目で見た。
「明日はもっと盛り上がりますよ」
司会の男――バヌが答える。
「へえ?」
ミレボスが煙を吐き出した。
「あの乱入者のこと?」
「ええ」
バヌの口元に、闘技場で見せていた笑みが少しだけ戻る。
「俺の見たところ、あいつはエルフです」
「エルフ?」
「ええ。ただ……」
バヌは自分の耳へ指を当てた。
「何故か、耳が短いですが」
「へえ……?」
ミレボスが僅かに目を細める。
もちろん。
二人は知らない。
セレナがかつてエルフの里を追放されたことも。
その証として。
両耳を切られたことも。
「それで?」
ミレボスは興味を失ったように灰を落とした。
「本当に、うちのチャンピオンとやらせるつもりなの?」
「その手筈ですが」
「ふぅん……」
パイプを咥えたまま、ミレボスが天井を見上げる。
「あいつとやらせたら、殺してしまうかもしれないじゃない」
「……では、どのように?」
「そうねえ」
ミレボスは少し考えるように、パイプから立ち上る煙を目で追った。
やがて。
その口元が緩む。
「本部から送られてきた、あれを使おうじゃない」
「あれ?」
「ほら」
ミレボスが楽しそうに笑う。
「ホムンクルスとかいうやつ」
「…………」
バヌの表情が僅かに強張った。
「しかし、あれはまだテストもしていませんよ」
「だからいいんじゃない」
「……はい?」
ミレボスは脚を組み替えた。
「明日が一回目のテスト」
「…………」
バヌはすぐには返事をしなかった。
「危険では?」
「大丈夫よ」
ミレボスは傍らの机へ手を伸ばす。
引き出しを開き、一枚の古びたスクロールを取り出した。
「いざという時は、自壊させるための呪文を預かっているから」
「自壊……」
「このスクロールに記してあるわ」
ミレボスがそれを放る。
バヌは慌てて両手で受け取った。
「あなたに託す」
「……分かりました」
バヌはスクロールを懐へしまう。
「それにしても」
ミレボスは愉快そうに笑った。
「なんでも、亜人の上級戦士を模して造られたホムンクルスらしいわよ」
「上級戦士……」
「楽しみね」
「…………はい」
バヌは頭を下げる。
「ルーラー・ミレボス」
「それじゃあ、明日も頑張って」
ミレボスは興味を失ったように手を振った。
「演者たちを生かさず殺さず管理するのも、大変でしょうけど」
「はい。最善を尽くします」
バヌは一礼する。
「では、失礼いたします」
「ええ」
巨大な扉が閉まる。
ゴォン……。
重たい音が部屋に響いた。
「…………」
ミレボスはしばらく扉を見つめていた。
やがて。
完全にバヌの気配が遠ざかったことを確認すると、ゆっくりと机の引き出しへ手を伸ばす。
今度は。
先ほどとは別の引き出し。
鍵を開ける。
中から取り出したのは。
一つのネックレスだった。
「…………」
その中央には。
黒い石が嵌め込まれている。
ただの黒ではない。
光を吸い込むような深い色。
その奥に。
微かに紫がかった光が揺らめいている。
黒雷石。
ミレボスはネックレスを持ち上げ、恍惚とした表情で眺めた。
「うふふ……」
パイプの煙が。
ゆらりと黒雷石の前を横切る。
「これを送られてきたということは――」
ミレボスは石を指先で撫でた。
「私たちの支部が、信用されているということ」
笑みが深くなる。
「期待には応えますわ」
誰もいない部屋で。
女は静かに呟いた。
「――教主様」




