第103話 怒れるエルフ
「オーケー、オーケー!」
突然闘技場へ飛び降りてきたセレナを前に、司会の男は両手を広げた。
ざわめきは収まらない。
「一番強いやつを連れてこいだってよ!」
「何だ、あの女!」
「やらせろ!」
「面白くなってきたじゃねえか!」
好き勝手に騒ぎ始めた観客を宥めるように、司会は両手をゆっくり上下させる。
「今日はハプニングが起こる日らしい! だが――うちはハプニング大歓迎さ!」
その言葉に再び歓声が上がった。
司会は満足そうに笑うと、人差し指をセレナへ向ける。
「それで? あんたは何を望む? ただのバトルマニアってわけじゃないんだろ?」
「…………」
セレナは男を睨みつけた。
「ガルドと、そこのワーウルフの自由」
自分でも驚くほど低い声が出た。
司会の男は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに大袈裟に両腕を広げた。
「こいつはとんだヒーローの登場だ!」
「ギャハハハハハ!!」
「正義の味方だってよ!」
「頑張れよ、ヒーロー!」
嘲るような笑い声が降り注ぐ。
何がおかしいのか。
セレナには理解できなかった。
ガルドも。
あのワーウルフも。
こいつらの玩具ではない。
生きている。
ただそれだけのことが、どうしてこいつらには分からないのだろう。
「セレナ」
後ろからガルドの声がした。
「何故来た」
「…………」
セレナは振り返らない。
「これは俺の問題だ」
「黙って」
「セレナ」
「黙って」
もう一度、今度ははっきりと言った。
「私は、怒っている」
「…………」
ガルドは何も言わなくなった。
司会の男がそんな二人を面白そうに眺めていたが、やがてパンッと手を叩いた。
「いいねえ! 友情! 仲間! 美しいじゃねえか!」
また観客席から笑いが起こる。
「ただなあ!」
司会は人差し指を左右に振った。
「いきなり現れたルーキーに、うちのチャンピオンが相手をするわけにはいかねえ! まずは実力を見せてもらわないとな!」
「…………」
「ちょっとこいつでテストしてもらうぜ!」
司会が闘技場の奥へ向かって腕を振り上げた。
「来い!! マーダー!!」
何も起こらなかった。
数秒。
十数秒。
やがて、向かい側の通路の奥から。
「フゥーッ……フゥーッ……」
荒い呼吸が聞こえてきた。
ズン。
ズン。
重い足音が近づいてくる。
薄暗い通路から姿を現したのは、異様な大男だった。
背丈はガルドに及ばないものの、身体は筋肉で異常なほど膨れ上がっている。頭には目元だけを露出させた黒い頭巾を被り、その手には巨大な出刃包丁を思わせる分厚い刃物が握られていた。
刃には黒ずんだ染みがこびりついている。
「こいつはなあ!」
司会が楽しそうに紹介を始める。
「ここいらを騒がせていた連続殺人鬼だ!」
「マーダー!」
「待ってました!」
「今日は何人殺すんだ!」
歓声を浴びても、大男は何も答えない。
荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと闘技場へ入ってくる。
「騎士どもに捕まえられる前に、うちが捕縛してな! たっぷり調教してやったのさ!」
司会が指を鳴らした。
「やれ、マーダー!」
「…………?」
セレナが僅かに眉を寄せる。
まだ開始の合図すらない。
しかし、大男は動いた。
セレナではない。
壁際に倒れているワーウルフへ向かって。
「――え?」
マーダーが巨大な刃物を両手で振り上げる。
ワーウルフが顔を上げた。
その目が。
ほんの一瞬だけ。
セレナと合った。
「待っ――」
刃が振り下ろされた。
鈍い音がした。
鮮血が噴き上がる。
「…………」
ワーウルフの身体から力が抜けた。
もう。
動かなかった。
「うおおおおおおおお!!」
地下闘技場が揺れた。
「やった!」
「これだよ!」
「マーダー!!」
「最高だ!」
歓声。
笑い声。
拍手。
セレナは動けなかった。
さっきまで。
あのワーウルフは生きていた。
自由になりたいと言っていた。
ガルドを殺そうとした。
それでも。
あれは、生きるためだった。
なのに。
今。
死んだ。
殺された。
ただ。
この連中を喜ばせるために。
「…………」
常人なら。
目を背けていたかもしれない。
足が竦んでいたかもしれない。
吐き気を催していたかもしれない。
けれど。
今のセレナには、そのどれもなかった。
怒りが。
身体の奥から湧き上がる怒りが。
それ以外の感覚を塗り潰していた。
不思議なほど。
よく見える。
マーダーの足の位置。
重心。
肩の向き。
刃物を振り下ろした直後の呼吸。
何もかもが。
はっきりと見えた。
「ブモオオオオオオオ!!」
マーダーが両腕を大きく広げ、観客の歓声に応える。
その瞬間。
セレナは床を蹴った。
風が吹く。
「――あ?」
マーダーが気づいた時には。
もう遅い。
セレナは巨体の懐へ潜り込んでいた。
「ふっ!」
身体を沈め。
腰を入れ。
下から。
全力で蹴り上げる。
「――ッ!?」
直撃した。
男の急所へ。
「ひっ……!」
観客席から奇妙な声が漏れた。
何人もの男たちが反射的に脚を閉じ、自分の股間を押さえる。
マーダーは声すら出なかった。
巨体が硬直する。
両膝が内側へ入り、握っていた巨大な刃物が手から滑り落ちた。
だが。
セレナは止まらない。
軸足を踏み込む。
その場で身体を一回転させた。
金色の短い髪が円を描く。
そして。
「はあっ!!」
上段後ろ回し蹴り。
踵が。
マーダーの顎を正確に捉えた。
ゴッ!!
巨体の頭が跳ね上がる。
「…………」
ぐらり。
マーダーの身体が揺れた。
何が起こったのか。
本人すら理解していないようだった。
次の瞬間。
ドサッ。
筋骨隆々の巨体が。
そのまま床へ崩れ落ちた。
「…………」
静寂。
先ほどまでマーダーの名を叫んでいた観客たちが。
全員。
黙っている。
セレナは倒れた男を一瞥した。
それだけだった。
追撃はしない。
殺すつもりもない。
もう。
戦えないのだから。
「…………」
「オーケー……」
司会の男の声がした。
先ほどまでの威勢はない。
「オーケー、オーケー……」
絞り出すような声だった。
それでも司会は仕事を思い出したのか、引きつった笑みを浮かべる。
「あんた……名前は?」
「…………」
セレナは男を見る。
「セレナ」
「……分かった」
司会の男は一度唾を飲み込んだ。
「セレナ」
そして。
ゆっくりと笑みを取り戻す。
「明日、とびきりのマッチメイクを実現させてやる」
「…………」
「そこで勝てたら――あんたの望みを叶えてやろう」
セレナの目が細くなる。
「ガルドとワーウルフの――」
そこまで言って。
言葉が止まった。
視線だけが。
床へ向く。
もう。
ワーウルフは動かない。
「…………」
間に合わなかった。
助けようとした。
でも。
間に合わなかった。
拳を強く握る。
「……ガルドの自由」
セレナは顔を上げた。
「それと、あの骨」
「ああ。いいぜ」
「約束して」
「ここにいる全員が証人だ」
司会は観客席を見渡す。
そして、何事もなかったかのように笑った。
「おい! 誰かこの二人を宿所に案内してやれ!」
「……二人?」
セレナが聞き返す。
「当然だろ?」
司会が笑う。
「明日の主役と、その景品を置いて帰すわけにはいかねえ」
「…………」
「安心しろ。明日までは丁重に扱ってやるよ」
ガルドの表情が険しくなる。
セレナも睨み返したが、ここで暴れてしまえば話がどう転ぶか分からない。
何より。
ガルドの自由と。
あの遺骨を。
まだ取り戻せていない。
「……分かった」
セレナは答えた。
「セレナ」
「大丈夫」
ガルドへ短く返す。
「私が勝てばいいんでしょ」
「…………」
ガルドは。
深いため息を吐いた。
◇
「……こいつは大変なことになった」
観客席の隅で、マルタが額に浮かんだ冷や汗を拭った。
隣ではカラリンが、セレナから預けられた大きな背嚢を抱えている。
「ど~し~よ~!」
今にも泣きそうな顔だ。
「せ~れ~な~も~、が~る~ど~も~、つ~れ~て~か~れ~ちゃ~う~!」
背嚢の中から。
「あぅ!」
抗議するようなレオンの声まで聞こえてきた。
「分かってるよ」
マルタは小さく息を吐く。
セレナとガルドの周囲には、既に何人もの用心棒が集まっていた。
ここで自分たちまで飛び込めば。
全員まとめて捕まる。
「……とにかく、一時撤退だ」
「で~も~!」
「策を考える」
マルタは声を潜めた。
「あのバカどもを、二人とも連れ戻さなきゃならないからね」
「…………」
カラリンは不安そうに闘技場を見下ろしたあと。
ぎゅっと。
背嚢を抱き締めた。
「……う~ん~」
「行くよ」
マルタが踵を返す。
カラリンも。
何度も後ろを振り返りながら、そのあとを追った。
地下闘技場では。
早くも明日の決闘を期待する歓声が響き始めている。
その喧騒に紛れるように。
マルタとカラリンは。
レオンを連れて。
静かにその場を後にした。




