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第102話 戦士の流儀

 咆哮――いや、戦哮と呼ぶべきなのかもしれない。


「ガアアアアアアアアッ!!」


 ワーウルフが大きく肺を膨らませ、地下闘技場を震わせるほどの声を張り上げた。


 セレナは思わず背負った背嚢へ手を添える。


 大丈夫。


 レオンはここにいる。


 蓋は閉じてあるから、この場所の光景を見せることもない。


「…………」


 視線を闘技場へ戻す。


 ワーウルフは両手を床につき、四つ足の獣さながらに姿勢を低くしていた。開いた口から覗く牙の隙間を荒い呼吸が抜け、その目は真っ直ぐガルドだけを見据えている。


 殺気。


 あのワーウルフは、本気でガルドを殺すつもりだ。


 当然なのかもしれない。


 勝てば自由になれる。


 その約束が本当に守られるのかは分からない。それでも、囚われている彼にとっては縋るしかない希望なのだろう。


 対するガルドには武器がない。


 それどころか両手には手錠が嵌められ、短い鎖で繋がれている。


「ガルド……」


 セレナは胸元で手を握った。


「大丈夫だよ」


 隣に立つマルタが言う。


「あいつは、あたしたちより強い」


「……分かってる」


 分かっている。


 ガルドが強いことくらい。


 それでも。


 心配なものは心配なのだ。


「やれ!」


「食い殺せ!」


「ワーウルフに銀貨五枚だ!」


 観客たちが好き勝手に叫ぶ中、ワーウルフの後ろ脚に力が入った。


 来る。


 セレナがそう思った。


 その瞬間。


「ウオオオオオオオオオオオッ!!」


「――っ!?」


 今度はガルドが吠えた。


 身体が竦むほどの大声だった。


 地下闘技場を満たしていた歓声が、一瞬にして掻き消される。


 真正面から浴びたワーウルフは目を逸らし、反射的に両手で耳を塞いだ。


 四つ足の姿勢が崩れる。


 ガルドは、その一瞬を見逃さなかった。


「――ッ!」


 巨体が一気に加速する。


 ドンッ!!


「ガッ――!?」


 まともに体当たりを受けたワーウルフの身体が宙を舞い、そのまま闘技場の壁へ叩きつけられた。


 だが、ガルドは止まらない。


 腰を捻る。


 太い尻尾がしなり――。


 バァンッ!!


「ぐっ……!」


 起き上がろうとしたワーウルフを横から薙ぎ払った。


 再び壁へ叩きつけられた身体が、そのままずるずると床へ落ちていく。


「…………」


 静かになった。


 セレナは目を見開いたまま、倒れたワーウルフとガルドを交互に見る。


「……強っ」


 思わず口から漏れた。


「ガ~ル~ド~、さ~い~きょ~!!」


 カラリンがどこか誇らしげに言う。


「強すぎやしないか」


 マルタが呆れたように言った。


 ほんの少しだけ、セレナの肩から力が抜けた。


 しかし、安堵したのはほんの一瞬だった。


「……は?」


 観客席のどこかから声が上がる。


「もう終わりかよ!」


 それを皮切りに、罵声が飛び始めた。


「期待外れにも程があるぞ、オイ!」


「もっとやれ!」


「金返せ!」


「血が出てねえじゃねえか!」


「…………」


 セレナはゆっくりと周囲を見渡した。


 誰も倒れたワーウルフを心配していない。


 ガルドの強さを称える者すらいない。


 ただ物足りないのだ。


 もっと傷つけ。もっと苦しめ。もっと血を流せ。


 そう叫んでいる。


(……何なの、こいつら)


 胸の奥に、黒いものが溜まり始めた。


「俺の勝ちだ!!」


 そんな罵声を切り裂くように、ガルドの声が響いた。


 観客たちが一斉に口を閉じる。


 ガルドは倒れたワーウルフへ追撃することもなく、司会の男を真っ直ぐ見据えていた。


「さっさと賞品を寄越してもらおう!!」


 先ほどまで「金返せ」と喚いていた者たちも、今度は何も言わなかった。


 あれだけ好き勝手な罵声を浴びせていたくせに、ガルド本人が声を上げれば途端に静かになる。


 セレナには、それがひどく滑稽に見えた。


(結局、安全なところから叫んでるだけじゃない)


 自分より弱い者が傷つく姿を見て喜び、自分より強い者を前にすれば口を閉じる。


 そんな連中なのだ。


「いやいや」


 静まり返った場内に、司会の男の声が響いた。


 男は少しも怯えた様子を見せず、笑いながら人差し指を立てた。


「まだ決まっていないだろう?」


「何?」


「あれを見ろよ」


 指差した先には、壁際に倒れたワーウルフがいる。


 意識はあるのだろう。


 僅かに身体が動いていた。


「生きてるだろ?」


「…………」


「トドメを刺せ」


 ガルドの目が細くなった。


「もうこの者は戦えない。見て分からんのか?」


「分からんね!」


 司会の男は悪びれもせず、両手を広げてみせる。


「俺ら、バカだからよ!」


 一瞬の間。


 次いで、観客席から爆発するような笑い声が上がった。


「ギャハハハハハ!!」


「いーねー!」


「そうだそうだ!」


「殺っちまえよ!」


 耳を塞ぎたくなるような笑い声だった。


 セレナは唇を噛んだ。


「誰かが死ぬまでが、このお遊戯会なんだ!」


 司会の男は両手を広げ、客席を煽るように声を張り上げる。


「さっさとトドメを刺せ! 刺さねえと無駄働きになっちまうぞー?」


「刺ーせ!」


 どこかから声が上がった。


「刺ーせ! 刺ーせ!」


 それに別の誰かが合わせる。


 あっという間に声は広がり、やがて闘技場全体を揺らすほどの大合唱になった。


「刺ーせ! 刺ーせ! 刺ーせ!」


「…………」


 ガルドは動かない。


 ただ、倒れたワーウルフを見つめている。


 その顔に浮かんでいたのは迷いではなかった。


 侮蔑。


 まるで目の前にいるワーウルフではなく、この場所そのものを軽蔑しているようだった。


 司会の男もそれに気づいたのか、今度はガルドへ語りかけるように声を落とした。


「どうせそいつは死ぬんだ。だったら、勝者のあんたがトドメを刺してやるってのが、戦士の流儀ってもんじゃねえのか?」


 ガルドの眉間が僅かに動く。


「ま、バカだから分かんねーけど!」


 また笑い声が上がった。


 その瞬間。


 ヒュンッ!


 観客席から何かが投げ込まれた。


 ガンッ、と鈍い音を立ててガルドの目の前へ突き刺さったのは、刃こぼれの目立つ古びた手斧だった。


「貸してやるよ!」


 男が叫ぶ。


「殺せ! お前が勝った! そいつを半殺しにした! だったら苦しませずにトドメを刺せ!」


「そうだ!」


「殺せ!」


「やれ!」


 今度は。


 別の言葉が。


 観客たちの間に広がっていった。


「こーろーせ!」


「こーろーせ!」


「こーろーせ!」


 地面まで震えているようだった。


 誰かの死を求める声が、一つの巨大な生き物のように地下闘技場を満たしていく。


「こーろーせ! こーろーせ!」


「…………」


 セレナは背嚢の肩紐を強く握った。


 ここへ来る前。


 ウィーンが言っていた。


『私も昔、冒険者をやっていてね』


 旅の中で、人が魔物に食われるところも、盗賊に襲われた村も、金のために仲間を裏切る者も見てきた。


 それでも。


『あそこまで醜い空間は、なかなかないと言えるよ』


 その意味が。


 今なら嫌というほど分かる。


 戦っているガルドが醜いのではない。


 自由を求めて必死に戦ったワーウルフが醜いのでもない。


 安全な場所に座り、酒を飲み、金を賭け、人が傷つけば喜び、死ななければ不満を口にする。


 この場所を満たしているものが。


 セレナには、たまらなく醜く見えた。


「…………」


 ガルドが手斧を見下ろしている。


 そして、ゆっくりと腰を屈めた。


 拘束された両手が、斧へ伸びていく。


「ガルド……」


 思わず名前を呼んだ。


 届いたかどうかは分からない。


 ガルドの指先が手斧の柄へ近づいていく。


「こーろーせ!」


「こーろーせ!」


「こーろーせ!」


 もう。


 聞いていられなかった。


 セレナは背嚢を下ろすと、隣にいたカラリンへ静かに預けた。


「カラリン。レオンをお願い」


「えっ?」


 カラリンが目を丸くする。


「せ、せ~れ~な~?」


 返事はしなかった。


「ちょっと、セレナ!」


 マルタの声も聞こえた。


 けれど、もう身体は動いていた。


 観客席を囲む柵へ片足を掛け、そのまま強く蹴る。


 風が頬を打った。


 眼下でガルドが顔を上げる。


「――ッ!」


 セレナは空中で身体を捻り、そのまま闘技場へ飛び降りた。


 ザンッ!!


 両足が床を捉える。


 鋭い着地音が響いた瞬間、あれほど騒がしかった場内が嘘のように静まり返った。


「…………」


 何百もの視線が自分へ集まっている。


 その中心で、セレナはゆっくりと身体を起こした。


「……セレナ」


 すぐ後ろからガルドの声がする。


 セレナは振り返らなかった。


 代わりに、呆然としている司会の男を真っ直ぐ見据える。


「……何だ、お前?」


 司会の男がようやく口を開いた。


「勝手に入ってくるんじゃ――」


「決闘を申し込む!」


「…………は?」


 男の声が止まった。


 セレナは一歩前へ出る。


 怒りは消えていない。


 むしろ。


 今までよりずっと強くなっている。


 それでも、声だけは不思議なほど真っ直ぐに出た。


「聞こえなかった?」


 セレナは場内を見渡した。


 人の命を使って。


 人が傷つく姿を見て。


 それでもまだ足りないと喚く者たち。


 なら。


 望み通り。


 戦ってやる。


「決闘を申し込む!」


 もう一度。


 今度は。


 地下闘技場の隅々にまで届くように叫んだ。


「一番強いやつを――」


 息を吸う。


「私の前に連れてこい!!」


 セレナの声が、地下闘技場に響き渡った。

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